國體護持總論
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著書紹介

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環境問題について

環境問題は占領憲法では解決ができない。

特に、環境破壞に對する規制について、占領憲法では論理的根據を持たないのである。占領憲法の論理よれば、以下のとほりとなる。

人の營みは、多かれ少なかれ自然環境を破壞して行はれる。それは、生産者であらうが消費者であらうが同じことである。その營みは、それこそ人權の行使であり自由の謳歌といふことになる。それゆゑ、人には、自然環境を破壞することがある程度認められる權利があると認識できることになる。

たとへて云ふならば、ここに十人の人がゐて、それぞれコップの水の中に微量な毒物を投與できる權利があるとする。一人の投與する毒物の量は致死量ではないが、十人分だと致死量になるとする。そして、この水をある人が飮み干すことになつてゐると假定する。十人がそれぞれ毒物を投與したことは許される行爲であるが、飮み干した人は確實に死ぬ。この場合、飮み干して死んだ人は、實は「地球」であり、そして、毒を投與した人は地球人であるとの喩へである。こんな矛盾が占領憲法から導かれる合理主義の現代人權論に濳んでゐる。これもまた、人權を超える崇高な價値を認めようとしない結果である。

よく、環境保護團體などが「環境權」といふことを主張する。しかし、この環境權を人權の態樣として主張し、その運動理念が現代人權論に根差してゐる限り、必ず矛盾に突き當たる。環境保護理念を構築するためには、現代人權論と對決し、新たな人權制約原理を提示せねばならなくなるのである。

これを「公共の福祉」論で説明しようとしても無理がある。假に、これで説明したとしても、それは人權制約論であつて、人權論ではない。つまり、人には「環境權」といふ權利はなく、「環境保全義務」があることになつて、現代人權論は破綻するのである。つまり、現代人權論や個人主義は、前にもその矛盾を説明したが、ここでの意味においても、根本問題において破綻してゐるのである。

それゆゑ、これを統一的に矛盾なく説明できるのは、本能論に根ざした國體理念しかないといふことである。

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