國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第五巻】第五章 復元措置と統治原理 > 第四節:統治原理

著書紹介

前頁へ

統治原理の再構築

帝國憲法は、その憲法發布敕語で自らを「不磨ノ大典」とし、その金甌無缺を讃へたが、その憲法上の意義は、第七十三條から導かれる硬性憲法の性質を意味することの外に、規範國體が根本規範であることを表現したものである。

現在、占領憲法の改正論議が盛んである。自衞隊と周邊事態などを巡つて、占領憲法第九條を中心とした議論である。このやうな改正議論は、占領憲法が實質的意味の憲法として有效であることを前提としてゐるのであつて、私見の與するものではないが、有效を前提とするこれらの議論においての決定的な欺瞞は、既に占領憲法に違反する事實の存在を黙認したまま、これの「追認的な解釋改憲」を謀ろうとする點にある。そして、解釋改憲の到達目標は、集團的自衞權の行使を肯定し、武器の種類、性能及びその使用態樣の無制限擴大にある。

これまで、警察豫備隊、保安隊、自衞隊と推移し、『国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO法)』(平成四年法律第七十九號)、『周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(周邊事態法)』(平成十一年法律六十號)、『平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法(舊テロ特措法)』(平成十三年法律第百十三號)、『武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(武力攻撃事態法)』(平成十五年法律第七十九號)、『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法(イラク特措法)』(平成十五年法律第百三十七號)、『武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(武力攻撃事態國民保護法)』(平成十六年法律第百十二號)、『テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法(新テロ特措法)』(平成二十年法律第一號)を制定して、あと一歩で、個別的自衞權及び集團的自衞權の全面的な行使を認める有事恆久法が制定できるところまできたが、どうしても占領憲法第九條の桎梏があつて、その一歩が踏み出せない。それは、誰一人、自衞隊の存在が第九條に違反しないと本心から信じ切つて、子供たちにも納得させ、墓場まで持つて行ける者はゐないからである。これまで、狡猾にも、違反行爲や事實を黙認し、解釋改憲といふ「改正」手法によつて過去の違反行爲や事實を隱蔽しようとするための議論をし續けてきた。それならば、遵法心を捨てて、今まで、正規の改正もせずに公然と破廉恥な違反をし續けてきたのであるから、これからも何も遠慮することはなく、このまま際限なく違反を續けていけば良いではないか。今更、良心が咎めるのならば、桑港條約締結時や自衞隊創設時の初めから改正議論をすべきであつた。このやうに、占領憲法を實質的意味の憲法として有效であることを前提とする改正議論は、遵法心がない者による改正策謀であつて、例へ改正に成功したとしても、その改正法を再びなし崩し的に「解釋」と稱して更に違反をすることになるので、わざわざ改正する必要性もない。改正しない方が、多少なりとも違反の齒止めになるはずである。

防衞廳が防衞省に昇格したとしても、自衞隊が自衞軍に昇格したのではない。ところが、かくの如く錯覺をして、「自衞隊は國軍たれ」と聲高らかに唱へる論調が增へたが、一體、このやうな論調は何を根據にその正當性を見出してゐるのか。占領憲法を憲法として有效としながら、これを改正せずに、しかも改正前に堂々と違反せよと主張するのか。それこそ彼らのいふ承詔必謹に悖るのではないか。「自衞隊は舊軍(皇軍)とは異なる」といふ言ひ草が、忠勇無雙の皇軍を侮辱する趣旨で用ゐられるとしたら、建軍のいかがはしい似非軍隊の自衞隊には未來はない。

そもそも、イラクへの自衞隊の派遣のみならず、カンボジアやインド洋など派遣した自衞隊組織による武裝部隊の駐留や軍事的な後方支援は、占領憲法第九條で放棄したはずの「武力による威嚇」に該當する。それが武力による威嚇に該當するか否かは、「平和を愛する諸國民の公正と信義」によつて判斷されるべきであり、我が國には、これに該當するか否かの「自己解釋權」はないのである。イラク國民の一部から「自衞隊は出て行け」といふ聲があつたのであるから、武裝部隊である自衞隊の駐留は、武力による威嚇に該當し、占領憲法第九條に違反してゐた。

しかし、我が國の國會では、「武力の行使」についてのみの議論をなし、「武力による威嚇」に該當するか否かの議論は、意圖的に殆どなされなかつた。

コミンテルン(第三インターナショナル、共産主義インターナショナル)から資金援助を受けてその傀儡となり、プロレタリアート獨裁による共産主義革命にとつて反革命勢力の中核となりうる自衞隊を解體させる目的から、その存在が違憲であるとの見解を黨是してきた日本共産黨ですら、この「威嚇」について議論すらしない體たらくであつた。便宜的に占領憲法を有效として護憲を唱へ、これを最大限に利用するが、權力を奪取すれば弊履の如くこれを破棄するといふ動機の不純な者たちの主張は、日本人の美意識に反する。つまり、大正十一年(1922+660)十一月のコミンテルン第四回大會において、コミンテルン日本支部として正式に承認された日本共産黨の活動方針を示す『一九二二年テーゼ』には、「民主主義的なスローガンは現存天皇政府に對する闘爭において、日本共産黨がもつ一時的武器にすぎないものであつて、黨の當面の直接的任務が完成されるや否や、直ちに放棄さるべきものである。」などの記載があつた事實とそれに基づいて行つた行動について、我々は決して忘れ去つてはならないのである。

いづれにせよ、似非護憲派(改正反對護憲論)や國連中心主義的方向への似非改憲派(改正贊成護憲論)の主張は、一見對立してゐるかのやうな錯覺を與へるものであるが、それは、從來通りの國連體制を維持するか、さらに國連體制を強化するかの國連主義内での議論であつて、「反日思想」間における「コップの中の論爭」に過ぎず、本質論ではないからである。

このやうな本質論が一切論議されずに今日に至つたのは、我が國を取り卷く國際環境も無視しえないが、それに加へて、このやうな違法と矛盾を容認する社會の風潮と、その反映としての政治腐敗に起因する。そして、さらに、これらの要因を解消しえない根本原因は、本來は正義の抽出のための普遍的な統治原理とされる「多數決原理」が逆に正義を否定するために機能してゐるといふ現實にある。

從つて、帝國憲法體系への復元のために、いくら精緻な分析とこれに基づく基本的制度の理念を設定し、憲法改正や政治制度の根本改革を實現したところで、政治腐敗の防止及び社會の淨化の實效性が保たれなければ、眞の意味で「不磨ノ大典」とはなりえないのである。

ましてや、單に、改革スローガンの羅列のやうな現實性のない美辭麗句を竝べ立て、形式的な政治腐敗防止法などの法律や選擧制度の改革をしてお茶を濁すやうなことであつてはならない。改正された選擧制度や新たな法律に馴致したときから再び腐敗が始まるからである。そのやうな繰り返しによる誤魔化しこそが政治腐敗の元凶である。「絶對權力は絶對的に腐敗する。」との至言の意味するところは、「政治腐敗は絶對的に起こる。」ことを斷言しているのであつて、そもそも、政治腐敗を完全に防止することは「絶對的」にありえないことを歴史の教訓から學び取らなければならない。

ところが、それを認識しながらも、又は、全く認識できずして、現今の政治腐敗の状況を解消する手段について、「發生」を「絶對的に防止」する有效な方法があるかのやうに、不祥事が起こる度に、「再発防止と信頼回復に全力で取り組みたい」といふやうな常套句を繰り返されるが、實現性の担保のない空しい言葉の羅列によつて世人を惑はす風潮は誠に嘆かわしいものである。

むしろ、今、直ちに必要なことは、選擧制度など個別的な制度毎に改革案を檢討して政治制度全體の改革案を立案するといふ「積み上げ方式」による制度設計によるのではなく、政治制度全體の總合的な機能分析を行ひ、いはば自然發生的に起こりうる政治腐敗の發生を直視し、その發生した政治腐敗の状況が速やかに確實に淨化できるシステムを開發することである。換言すれば、政治腐敗について、動脈思考的な「發生のメカニズム」を究明することは最早これ以上不要であり、それよりも、靜脈思考的な「淨化再生のメカニズム」の究明こそが必要である。つまり、政治腐敗が絶對に發生しないといふやうな「不發生裝置」を考案することができないので、そのやうな腐敗が發生したときは速やかにそれを除去しうる「淨化再生裝置」と一體となつた制度設計を考案する必要があるといふことである。

続きを読む