國體護持總論
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法律の留保

法の支配の理念と法治主義との相違については前述したが、效用均衡理論に基づく制度の導入に關して、法治主義との關連で、「法律の留保」について是非とも述べておきたい。

この「法律の留保」には二義あり、①法律に基づく行政といふ意味と、②人權制約の法律主義といふ意味とがある。「法律があれば權利を制限できる」といふことは「法律がなければ權利は制限できない」といふことである。

①は、本來の法治主義の意味であるから、さほど議論はないのに對し、②については議論が盛んである。なぜならば、帝國憲法の人權條項がこの法律の留保を定めてゐる場合が多いからである。

具體的に指摘すれば、「法律ノ定ムル所ニ依ル」(第十八條、第二十七條)、「法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ均ク」(第十九條)、「法律ノ定ムル所ニ從ヒ」(第二十條、第二十一條)、「法律ノ範圍内ニ於テ」(第二十二條)、「法律ニ依ルニ非スシテ」(第二十三條)、「法律ニ定メタル(場合)」(第二十四條、第二十五條、第二十六條)、「法律ノ範圍内ニ於テ」(第二十九條)、「別ニ定ムル所ノ規程ニ從ヒ」(第三十條)、「法令又ハ紀律ニ牴觸セサルモノニ限リ」(第三十二條)といふ表現である。

このやうな「法律の留保」による規制方式に対する批判としては、法律によつていくらでも制約できるから人權保障が弱いとする見解がある。しかし、この見解は、多くは國民主權論者から主張されてゐるが、國民主權からすると議會で制定される「法律」もまた國民主權主義に悖ることはないはずであつて、法律に對する懷疑は、國民主權への懷疑と直結することになつて、大きな矛盾が出てくるのである。前に述べた立憲主義と國民主權主義の矛盾と同じ隘路に迷ふことになる。むしろ、人權事項の詳細について法律が定められないとすれば、當然に行政裁量等が擴大し、いきなり行政處分による人權侵害が生まれることに對して無力となる。

つまり、「法律の留保」を懷疑する見解は、占領憲法では、この「法律の留保」を認めずに、これに代へて「公共の福祉」による制限を設けたことについて肯定的に評價するのであるが、「公共の福祉」といふやうな抽象的で不明確な「一般原理」による規制方式にこそ重大な缺陷があることに氣づいてゐないのである。

占領憲法第十三條後段には、「生命、自由及び幸福追求に對する國民の權利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、人權全般の制約原理として「公共の福祉」を掲げてゐるが、占領憲法は、この「公共の福祉」とは何かといふことについて、何ら規定せずに沈黙してゐる。これは、「地方自治の本旨」(第九十二條)と同樣に、抽象的な用語であり、一義的にその内容が確定してゐるものでないことから、このやうな「一般原理(一般條項)」の解釋については、他の國家機關に委ねざるを得なくなる。その國家機關が國の立法機關であるときは、「法律」によつて具體的な解釋がなされることになるから、「法律の留保」と同じであり、國の立法機關に「公共の福祉」の解釋權を委任することになる。しかし、これだけに留まらずに、行政機關、地方機關などにまでその解釋權を附與してしまふのが、この「公共の福祉」による規制方式なのである。法律によることなく、行政機關などが獨自に憲法解釋をして行政處分を行ひ、これによつて人權規制が可能となる制度が「公共の福祉」によ規制方式といふことである。最終的には司法機關がその適否を判斷するとしても、國の立法機關以外によつて規制することを積極的に認めようとするのがこの「公共の福祉」規制方式の正體に他ならない。

この「公共の福祉」といふ抽象的概念の解釋については、公共の福祉によつて人權が規制されないとする人權絶對説と、規制しうるとする人權制約説とがあり、また、規制される場合における規制原理にも樣々な見解がある。「公共の福祉」といふ規制原理が人權の性質としてこれに内在するためであるとしたり(内在的制約説)、さうではなく「公共の福祉」といふのは外在的な規制原理であるとして個々の場面において人權が規制されることがあるとしたり(外在的制約説)、さらには、人權を精神的自由と經濟的自由の領域に區分して規制態樣に二重基準を認めたり(二重基準説)、規制されるのは「人權と人權の衝突」の場面に限るとしたりするのである(私權調整説)。このやうに、「公共の福祉」の解釋について議論百出すること自體が、まさに、この概念の危ふさ、いかがはしさを示してゐることになる。

そして、最終的に事後的な判斷をなす司法としては、争訟解決の一般原理である「利益衡量論」といふ一般原理を持ち出さざるを得ない。つまり、「公共の福祉」といふ一般原理を個別的な事案に具體的に解釋することは不可能であることから、それを直接に解釋することを放棄して、「利益衡量論」といふ争訟解決のための一般原理に逃げ込まざるを得なくなるのである。

從つて、このことからすれば、占領憲法が憲法として有效であるとする立場であつても、占領憲法は、「公共の福祉」の概念を明確かつ具體的に定義せず、その解釋權を權力側に白紙委任したことにより、帝國憲法の人權保障を空洞化させてしまつたとの結論に至らざるを得ないことになる。ところが、占領憲法を憲法として有效であると熱烈に支持する有效論者は、この大いなる矛盾を國民に悟られまいとして、帝國憲法よりも占領憲法の方が格段に人權保障が充實してゐるなどと詭辯を弄して素人を騙し續ける。そして、「利益衡量論」で用ゐられる「漠然性の故に無效の理論」、「合憲性推定排除の理論」、「精神的自由権の優越的地位の理論(Thornhill Doctrine)」、「擧證責任轉換の理論」、「明白かつ現在の危険(clear and present danger)の理論」、「事前抑制排除の理論」、「表現と行動の分離の理論」、「より制限的でない他の選びうる手段(Less Restrictive Alternative)の基準(LRA基準)」などは、占領憲法ならではの基準であつて、帝國憲法とは無縁のものであるかが如く喧傳するが、實はさうではない。これらの基準は、個別的な人權侵害を事後的に救濟する司法の機能のみに委ねるだけではなく、一般人が何らかの行爲するに際して、何が許されるのかを明示し(ホワイト・リスト)、何が許されないのかを明示すること(ブラック・リスト)によつて、一般人をして不測の事態を回避させ、豫測性を高めるためのものである。この基準に從つて「法律」を制定するためのものであつて、これによつて法律が制定されることによつて、臣民は、何が許され、何が許されないかといふことの豫測ができることになり、法律にも依らずに行政機關などによる恣意的な規制を排除することができるのである。それゆゑ、帝國憲法の「法律の留保」による具體的な規制方式の方が占領憲法の「公共の福祉」による抽象的な規制方式よりも格段に人權保障が厚いことは明らかなのであつて、これらの基準は、帝國憲法においてこそ、その眞價が發揮されることになるのである。

ましてや、占領憲法の人權條項といふのは、あくまでも國家と國民との關係であつて、國民相互間(私人相互間)での弱者に對する權利侵害については直接に憲法の適用がなく、民法の權利濫用、信義誠實の原則(信義則)、公序良俗などの一般條項(第一條、第九十條)を經由して間接的にしか適用がないとする間接效力説が一般であることからして、實質的に人權が保障されうる範圍が極めて限定されてゐるので、この種の議論をすることの實益が乏しいのである。私人間の契約、團體の定款、就業規則などにおける權利侵害があるとしても、それを民法の一般條項等に委ねてゐるために、現代社會において主要な部分を占める私人相互間における人權侵害については、占領憲法は全く役に立たないといふことである。「人權と人權の衝突」の場面を調整して、いづれかの人權を規制するのが公共の福祉といふ規制原理であるとする見解があることは前に述べたが、これによると、私人間の権利侵害についても占領憲法が直接に適用されることになるはずであるが(直接效力説)、そのやうな見解といへども、この結論を認めずに間接效力説に甘んじてゐる。なぜならば、特定の私人間の権利侵害があり争訟が起こることを想定して裁判制度が設けてゐるのであるから、「人權と人權の衝突」を調整する規制原理としての「公共の福祉」とは裁判制度を意味することとなつてしまふからである。

これに対し、帝國憲法の「法律の留保」の場合は、その授權された法律の守備範圍を「私人間の法律關係」にまで擴張して憲法保障を充實させることは可能である。否、むしろ、これを擴張することが現代では求められてゐるのである。それゆゑ、占領憲法には到底不可能なことが、帝國憲法であればこそ現在の時代の要請に十二分に應へることができる。


ところで、帝國憲法の法律の留保については、次の二箇條についてさらに補足して説明することが必要である。それは、第二十九條と第三十一條である。

まづ、信教の自由について、第二十八條は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めてゐる。これは、「法律の留保」に關する表現がないものの、帝國憲法に貫かれてゐる法治主義の原理からしても、法律の留保による規制方式であることに全く疑問はない。むしろ、この規定は、法律の留保について、注意的に規制原理を憲法上で明示したことに重大な意義がある。「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とは、一言で云へば、規範國體に違背しない限りといふことであるから當然のことである。しかし、占領憲法に基づく現行の宗教法人法第八十一條第一項には、宗教法人が「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたとき」(同項第一號)などを解散命令の事由として定めてゐる。これは、占領憲法では、宗教法人ひいては宗教團體に對する規制を憲法事項とせず、単に法律事項としてゐるのに對し、帝國憲法では、この規制を嚴格に憲法事項とした點において、帝國憲法の方が格段に憲法保障が充實してゐるものと評價できるのである。

次に、帝國憲法三十一條には、「本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とあり、これは、前述したとほり、いはゆる非常大權に關するものとして議論されてきた條文である。前章でも述べたが、およそ憲法に定める權利條項といふのは、原則として「平時」のときに適用があるものであつて、明文規定がなくても、常に「ただし、戰時や災害などの國家緊急事態の場合はこの限りではない。」といふ限定があるものと解釋されてゐるのである。帝國憲法の場合は、これをこの條文によつて明記してゐるのであるが、軍事占領下の非獨立時に制定された占領憲法には、このやうな當然の規定を設けなかつた。否、設けられなかつたのである。これを明記すれば、その當時が「戰爭状態」であつたことから、全ての人權條項は原則として「停止」されてゐると占領憲法の「第十一章 補則」に明記しなければならなかつたからである。つまり、このことを國民を騙す必要があつたから、どうしても明記されなかつたといふことである。

以上のことからして、帝國憲法の復元後になされる人權規定の檢討においては、效用均衡理論に基づく制度の導入のために、法律の留保を全面的に肯定し、そのきめ細やかな規定を設けることが必要となるのである。

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