國體護持總論
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貨幣制度の本質

レーニンは、大正七年(1918+660)のロシア共産黨(ボリシェヴィキ)第二綱領で貨幣制度を戰略目標として廢止した。貨幣制度は、資本主義の要諦であり、これによつて私有財産制による富の蓄積を生み、富の遍在と生産財の獨占、階級形成の原因であるとするのがマルクス・レーニン主義の根幹理論であつたからである。ところが、レーニンは、翌年(1919+660)にこれを放棄してしまつた。これによつて、經濟理論としての共産主義は放棄されたことになつた。

嚴密にいふと、私有財産制と資本主義とは同じではない。ところが、資本主義の否定のためには、私有財産制と貨幣制度を否定することにあるとした短絡的な認識にマルクス主義の根本的な誤りがある。私有財産制とは、そもそも財産を家族が家産として使用收益することを保護する制度であり、いはば「使用價値の保護制度」である。家族主義、同族主義を基底として、その生活を維持する「恆産」としての家産を所有することである。「恆産なければ恆心なし」として、これが確保されるがゆゑに民度を維持しうるのである。幕末のころ、歐米では、賣却が禁止され、これに對する強制執行も禁止される土地等の特別財産として出現したが、我が國では、古來より、「身代」とか「身上」と呼ばれてきたものである。幕藩制では幕府から領主は「所領安堵」され、家來の家産の承繼が「本領安堵」されてきた。これは、個人所有が原型ではない家産制度である。土地を主とした家族共同體の共同生活基盤となる特別財産であつた。貨幣によつて蓄財するといふことは家産制度にとつて本質的なものではなかつた。

これを法制度の觀點から考察すると、家族や同族(大家族)を「法人」と捉へて、その法人(家族法人、同族法人)の所有する財産が「家産」といふことになる。家族を法人とし、家族の構成員である個人に變動があつても、家族は「動的平衡」を保つて不易であり、家産は恆産となるのである。個人が土地建物などの恆産を所有することをせず、全て家族法人が所有することになる。家産は、個人の所有ではなく、祖先から受け繼いだ家族法人の生活基盤となる財産であり、それを子孫に承繼させることからして、恆産の個人所有を否定することは當然のことである。

これに對し、資本主義は、家族所有ではなく個人所有を原型とする。私有財産制と契約自由の原則を前提とするものではあるが、財貨を使用收益することに目的があるのではなく、それを生産要素として商品を生産し、賣却による利潤の獲得に目的がある。いはば「交換價値の保護制度」である。土地も資本も勞働も全て生産の要素として、すべては利潤の獲得のためにある。勞働力も商品と看做す。そこには家産といふ認識は全くない。貨幣によつて蓄財することは、利益の蓄積として資本を形成し、新たな利潤追求のための投資準備となるもので、資本主義の本質的なものである。經濟價値を抽象的に集約した貨幣によつて蓄積した資本は、それ自体が生き物のやうに自己增殖を圖るのであり、これが、資本主義の本質であり原動力となるのである。そして、資本主義は、商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義へと變容を遂げ、家産保護のための私有財産制の守備範圍から遥かに遠いところに行つてしまつたのである。資本主義といふよりも「利潤主義」と言つた方が適切である。

物(商品)には、物の有用性と效用に着目した使用價値と他の財貨との交換によつて認識しうる交換價値の雙方があるとされるが、金融資本主義の主役となる貨幣や證券化商品などには、そもそも使用價値はなく、交換價値しかない。これを商品と呼ぶことに概念の混亂を生んでゐる。このことからしても、金融資本主義は、本來の資本主義(商業資本主義、産業資本主義)から遊離した存在であることが解る。

このやうに、私有財産制と資本主義、貨幣制度の關係を認識すべきなのであるが、マルクスがこれらを一體のものと認識し、貨幣制度の廢止によつて資本主義が否定できるとしたにもかかはらず、どうしてソ連では貨幣制度の廢止ができなかつたのかについては、まづは貨幣制度の本質についてさらに考へる必要がある。

一般に貨幣の機能には、①決濟手段、②價値尺度、③價値貯蔵手段の三つがあるとされる。富の蓄積が諸惡の根源であるとしたマルクスは、このうちの③に着目したためである。しかし、現實の交換經濟社會は、①と②によつて支へられてゐるために、貨幣制度の廢止は物々交換を餘儀なくされ、經濟の停滯を生んだからである。ここに共産主義の未熟さがあつた。

その點に關しては、ロバート・オーエン(Robert Owen)の方が論理的であつた。勞働の對價として有價證券としての勞働券(勞働證券)を取得する。それを貨幣として流通させようとするのである。ウィリアム・ペティが提唱した、勞働のみが經濟價値を生み出す源泉であるとする勞働價値説を前提とすれば、それなりの論理性はあるが、具體的に、その勞働價値の單位は、提供された勞働時間なのか、勞働の結果(成果)なのかといふ點が解明されてゐない。勞働時間は客觀的に數値化が容易であるが、勞働成果の數値化は困難である。勞働時間が長くても未熟練であつたり勞働内容に瑕疵があれば勞働の成果は少ない。これに對し、短い勞働時間でも絶大な成果を上げることもある。これは、勞働のみが價値の源泉とする假説の危うさと、勞働の時間(量)と效率(質)、完成品の精度(品質)の差異を價値的に區別しえない致命的な缺陥があるといふことであつた。

これらの點をそれなりに深く考察を試みたのがマルクスであつた。しかし、資本主義の問題點の指摘と問題意識についてのマルクスの方向性は正しかつたが、労働力が「價値」を生む源泉であつたとしても、そのことだけが「價格」の決定要因ではないこと、労働力といふ供給側(生産側)の側面だけで價格を考察し、需要側(消費側)の事情を無視するために、絶對的剰餘價値、相對的剰餘價値、特別剰餘價値などの難解で不明確な概念を定立しなければならなかつたこと、償却資産である機械や建物を不變資本としたこと、同じく不變資本とする原料の減耗損を考慮してゐないこと、これらの價値減少分を労働力(可變資本)の剰餘價値から控除してゐないことなど、精緻な會計學などによる論理的な分析からすれば餘りにも稚拙な理論であつた。

そもそも、勞働が經濟價値の源泉であり、それを有價證券化したのが通貨であるとすれば、富を生み出す者が通貨の「發行權」を有するものでなければならない。國家が發行權を持つことの根據が見いだせない。貨幣價値の基準が勞働總量とは無縁の金(gold)の量と結びつけた金本位制度ではなく、國民の勞働總量と結びつけた勞働本位制度でなければならないはずである。ところが、勞働價値説に立ちながら、個々の勞働者に通貨發行權を認めず、國家にそれを獨占させ、しかも、勞働總量とは無關係に貨幣價値を金本位制に結びつけたのは決定的な矛盾であつた。

勞働總量に貨幣價値の基準を求めるとすれば、勞働總量に對應する貨幣總量が一定であるはずがない。勞働總量は日々增減する。そして、勞働總量は、勞働の集約である財貨(商品)の總量に對應するが、財貨は生活や産業活動によつて費消されるので、費消分の貨幣總量は減少させなければならない。たとへば、農業勞働によつて食料が生産されたとする。すると、食料生産總量に對應する勞働總量によつて貨幣總量は決定する。ところが、食料が費消されると、その分だけ貨幣總量を減少させなければ、勞働總量と貨幣總量との均衡が壞れるが、それでも貨幣總量は當然には減少されない。そこに、經濟の基礎的條件(fundamentals)からかけ離れた水增しの貨幣經濟が一人歩きする原因が生まれる。

この點に關して、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell)は、『自然的經濟秩序』(1914+660)といふ著作の中で、あらゆる財貨が費消されたり減耗して減價するのに、その價値尺度である通貨だけが減價しない矛盾を指摘して、金利の徴收を否定し、貨幣の退蔵化を防止する提案をした。しかし、この著作はマルクスの『資本論 第一卷』發刊から約半世紀後であつたことから、マルクスは、勞働價値説と貨幣制度との關係について、ゲゼルの見解を受け止めて考察することができてゐなかつたのである。

人の營みに必要な財貨は、主として勞働によつて增加するものの、それが消費され、あるいは事件、事故、災害などによつても減少する。異種の財貨を物々交換することが交換經濟の原型であるから、貨幣が財貨の代用であれば、江戸時代において基幹物資であつた米(コメ)に通貨代用機能を持たせた米本位制度の方が、經濟の基礎的條件(fundamentals)を滿たしてゐたはずである。

ところが、財貨總量とは無縁に機能してゐる現在の世界における貨幣制度は、その後に、金本位制度からも離脱し、金融政策を擔當する通貨管理當局の自由裁量によつて通貨總量を增減する管理通貨制度に移行することによつて、益々虚構の經濟を生み出す元凶となつてゐるのである。いまや、貨幣(通貨)には、その裏付けとなる價値の源泉は存在しない。通貨とは、通貨發行權を有する國家や團體が氣儘に印刷すればいくらでも流通する時代となつたのである。通貨に對する人々の「信頼」といふのは、通貨には安定した價値の保証がなければならないとして金本位制度が實施されてゐた時代の「殘像(幻想)」である。いはば、「パブロフの條件反射」のやうに、現代人の通貨に對する「信頼」といふのは、通貨には安定した價値はないのに(餌は出てこないのに)、通貨を見れば(ベルが鳴れば)、それに價値があるものと錯覺する(ヨダレが出る)といふ信仰的な幻想なのである。この信仰心は、無神論者と雖も例外なく持つてゐる極めて鞏固なものであつて、この「通貨教」は最大・最強の世界宗教であると云つても過言ではない。

そもそも、金本位制度といふのは、金(gold)が世界的な稀少物であり、その生産量が急激には增加せず、また、費消による減少もあつて、その總量が安定してゐる上に、それ自體が高い使用價値を備へ、しかも、永久に變質しない耐久財であることによるものである。世界的な稀少物としての耐久財を貨幣にした試行錯誤の結果である。アステカではメキシコ一帶で自生するカカオの實から採取されて作られるチョコレートは王侯貴族だけにしか口にできない稀少物として珍重され、これが貨幣としても用ゐられたことがあつたのも、その一例である。ともあれ、金本位制度が長く維持されたのは、やはり金(gold)の生産量が世界的に急激には伸びず、しかも、それ自體の使用価値があることによる費消量との關係で、その總量に大きな變動がなかつたことにある。つまり、これに對應する貨幣總量も大きく變動させないことが通貨制度についての國際的な基本的認識であつたからである。

そして、そのことを前提として、國際通貨が流通した。當初は、世界を席卷した大英帝國のポンドであり、その國家的衰退とともに、次に登場したのがドルである。しかし、現在、國際通貨とされてゐるドルは、米國が國家として發行してゐる通貨ではない。平易に言へば、民主的に選任されない者が支配する連邦準備制度理事會 (Federal Reserve Board  FRB)といふ私的機關である民間銀行が發行する債權證券であり、これを米國政府が發行した米國債と引き替へに買取つて流通させてゐるものである(文獻197)。米國政府は、FRBの株式を一株も保有してをらず、FRBは米國政府の會計監査も受けない完全な民間企業である。そして、米國政府は、FRBに對し、ドル紙幣の購入費と米國債の金利を米國民から徴收した連邦所得税から支払ふ。しかし、アメリカ合衆國連邦憲法の第一章第八条第五項には、「合衆國議會は貨幣發行權、貨幣價値決定權ならびに外國貨幣の價値決定權を有する。」としてゐるので、この制度は完全な憲法違反状態である。そのため、これを違憲であるとして訴訟を起こして勝訴した相當數の米國民は、その連邦所得税の支払を免除されてゐる始末である。

このやうな事態となつてゐるのは、米國が獨立戰爭に勝利して獨立したものの、國家經綸の財源が脆弱であつたことから、米國政府は、歐洲の民間銀行から借財し、實質的に通貨發行管理權を賣り渡し、經濟的獨立(經濟主權)を喪失したことによるものである。

そして、米國のこの屈辱的な金融制度を全世界に廣めさせ、米國の金融制度こそが世界基準であるかのごとく喧傳し、世界に向かつて「金融と財政の分離(金財分離)原則」を唱へた。つまり、米國政府は、經濟政策の二つの柱である財政政策と金融政策のうち、金融政策をFRBに奪はれたことを正當化し、他國も同樣にさせることにより、他國の經濟主權を減殺させて世界を均一化させることによつて相對的に米國の國力を浮上させようとする畫策である。本來、金融と財政の一體性(金財一體)を維持することが經濟的獨立(經濟主權)を確立させることであるにもかかはらず、米國政府(その背後者であるFRB)の口車に乘つて我が國も日本銀行法を制定した。そして、その第一条で、日本銀行を中央銀行として通貨發行權を與へ、同第八條で、日本銀行の出資金は政府と民間とが出資して金一億圓とし、その内の政府の出資金は、金五千五百万圓を下回つてはならないとして、これに基づき、現在、政府(財務省)は金五千五百四万五千圓を出資してゐることになつてゐる。しかし、民間の出資者は公表されてゐない。いづれにせよ、これは、金財分離による經濟政策の不統一が生まれる第一歩であつた。そして、さらに、米國政府とFRBに隷從する者の畫策によつて、金財分離を完璧にさせるため、日銀の出資と人事及びその金融政策を政府から完全に分離獨立させる「日本銀行民營化」の方向に進む懸念がある。

加へて、國際收支の赤字を補填するための外貨流動資産である我が國の外貨準備高の九割以上が外國爲替であり、その殆どが米國債であるが、それを賣却することを決して許さないFRBとその傀儡である米國政府の壓力によつて、金(gold)は一パーセントに過ぎないため、經濟的獨立(經濟主權)に乏しい米國にさらに追随する我が國には經濟的獨立(經濟主權)はおろか國家の獨立(國家主權)なるものが無きに等しい現状にある。

さらに、前述のとほり、現今の通貨制度に依據した國民經濟計算(SNA)において、經濟の規模を測定するについても、財貨の減少といふ、本來であれば負(マイナス)の値として認識しなければならないものも、正(プラス)の値として「絶對値」で認識して計算をする。消費、減耗、減價などは財貨の減少、つまり、有り高計算(ストック)では減少してゐるのに、延べ計算(フロー)では二倍に增加したものと認識するのである。プラス・マイナスでゼロのものを二倍(twice)と計算するのである。そこに財貨の有り高と貨幣の有り高、さらに經濟規模の認識とがさらに乖離し續ける原因がある。そして、過剰な生産、流通、消費、そして大量廢棄といふ無駄の增大を「經濟成長」と錯覺し、このやうな貨幣制度による徒花にも似た經濟構造において、アメリカを主賓にして花見酒で遊興するといふ極めて不健全な世界に陷つてしまつてゐるのである。

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