國體護持總論
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著書紹介

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賭博經濟

株價が亂高下し、金融界、證券界などに異變が生じたことで、原油や穀物の價格が高騰し、生活物資の物價が高騰する。これらの原因について、多くの人々は全く無關係であり何らの落ち度もない。どうして眞面目に平穩に暮らしてゐる人々がこのやうな影響を受けるのかについて、爲政者や經濟人たちは、これが理不盡なことであるとは感じない。感じたとしても、誰一人この事態を根本的に改善しようと行動する者は居ない。むしろ、人々はこれに堪え忍ぶことが當然であり、その影響を緩和する對策を政府は講じなければならないと漫然と考へてゐるだけである。無責任な賭博師(賭博經濟のダフ屋と豫想屋)たちは、儲け損なつたことの腹いせもあつて、賭博師に寄生する者や賭博場の出入業者たちと示し合はせて、厚顏にも正義感ぶつて爲政者らの怠慢を非難する。市場原理主義であれば、證券市場などの亂高下も「見えざる手」によるものであつて、政府が市場動向に關與すべきことではない。ところが、それが經濟全體の混亂を引き起こすので政府がその影響を緩和させる經濟政策を講ずるべきであるとの最もらしい詭辯を多くの人々は正論であると信じ込む。賭博經濟によつて經濟全體に影響が出るといふのは、經濟全体が賭博經濟の構造に組み込まれてゐることを實證してゐるのであるから、社會經濟構造自體に致命的な缺陷があることを踏まへて対策を講ずる必要があるとは誰も感じてゐない。怠慢を非難されて狼狽しながら云はれるままの經濟政策を實施する爲政者らも、經濟數値や指標だけで經濟を見つめるだけで、何も解つてゐない。

記憶力偏重の考査における偏差値だけで學力評價を行ひ、さらにその偏差値だけで人の總合的能力を評價する偏差値教育制度によつて培養された偏差値秀才が國家の樞軸を埋め盡くした結果、獨創性も創造力もない活力に乏しい偏差値秀才の官僚と政治家たちが、顏の見えない數値と指標だけで經濟全體を評價し、全く血の通はない等閑な經濟対策を立案するのである。

そして、このやうな局面にあつても、爲政者や事業家たちは、それでも賭博經濟を維持する方向へと進み、賭博をし續けるギャンブラー(賭博師)の味方となつて賭博場を守り續ける。汗を流して生活の糧を得る健全な人々の美風を崩壞させ、濡れ手に粟の賭博に多くの人々を引き込み、「國民總博打ち」への道へと誘ふのである。これが世界的な傾向となつてさらに世界を混亂させてゐる。

昔、マルクスは、産業革命の進展に伴ふ勞働者の窮乏に胸を痛めて、共産主義を提唱した。その良心的な動機に誤りはない。ただ、その構築した理論に致命的な缺陷があつただけである。ところが、その理論が世界を席卷し、いまもなほそれによる後遺症が餘りにも甚大であつたことから、人々は世界思想自體の出現を敬遠してゐる。まさに「羮に懲りて膾を吹く」が如くである。

しかし、今こそ、マルクスの時代以上に世界思想が必要な時代ではないのか。一握りの金融・證券の關係者でなされる「賭博經濟」によつて、實體經濟に影響を及ぼしてゐる。これは、環境問題以上の問題であるのに、毎日毎日、株價や爲替相場の推移などがリアルタイムで報道されて、賭博經濟が正しいものであるとの「刷り込み」がなされてゐるために、誰もこの矛盾を意識できないでゐるが、人々が覺醒して、後に述べる方向貿易理論による政策を實踐して行けば、豫定調和として、この賭博經濟は徐々に終息していくことになるのである。

そもそも、株式制度を理論的に考察すると、證券取引所で賣買の對象としてゐる株式(株券)とは、會社が既に調達し終はつた資金を株式として表象する有價證券にすぎず、その株式の價格が調達後に變動したとしても、そのことは、會社としては本來なにも關係がない事情なのである。不穩當な喩へかも知れないが、離婚した元妻(會社)が慰謝料を支拂つて別れた元夫(株式)の評判を聞くやうな話である。元妻としては痛くも痒くもないはずなのに、その元夫の評判で元妻の評判が決まるやうなものである。全く迷惑な話である。株式といふのは、會社にしてみれば、既に資金調達が濟んてしまつたことを示す切れ端で、それを所持してゐる者を會社としては株主として取り扱つたら良いだけである。株主として株主總會に出てきてとやかく言はれたりすることはあつても、それに誠實に對應すればよいだけである。「金を出したから口を出す」といふことなのである。株主がその地位を證明する株券を賣つたりするのは自由であり、その賣買價額をどうするかについても自由ではあるが、そのことは會社側には無關係なことである。會社としては、財務諸表に基づいて算定された株式評價額のみがその株式の評價額である。ところが、財務諸表の内容や利益配當の金額などを基礎として、純資産價額方式や配當還元方式などで客觀的に算定される株式評價額とは全く無關係に決まつた證券市場での「株價」によつて右往左往させられる。それは、その會社が證券取引所といふ賭場に「上場」することによつて、その賭場に出入りしてしまつたことの自業自得ではあるが、會社の財務内容とは無關係に、博打相場で決定した株價によつて會社の評判や値打ちが決まるといふのは極めて理不盡なことである。ましてや、會社が自社株を保有してゐたとすれば、會社の財政状態には何の變化もないのに、それによつて會社の資産總額が亂高下するといふのも不可解な話となる。會社の保有する自社株が、會社とは關係のない事情からくる評判の影響で大きく値を下げて會社資産の價額が低下したとしたら、それはまさに「風評被害」の類である。

そして、さらに云へば、この株式取引の前提となつてゐる現在の株式會社制度自體も既に歴史的役割は終はつてゐると云へる。株式會社制度とは、事業實績がないために銀行などの金融機關から大きな資金を借り入れるだけの信用がない起業家が、大衆から廣く薄く資金を集めて、それが大きな資本(自己資本)となつて起業資金を調達し、大きな事業を立ち上げるための制度として發足したものである。ところが、我が國の株式上場に至る現状は、殆どが個人の零細企業から立ち上げ、銀行はすぐには貸してくれないので、株式は身内や友人知人に引き受けてもらつて、資金調達は事業が軌道に乗つてから銀行に依賴する。それも、會社には信用がないとして、個人で借り入れしたり、連帶保證人にさせられる。そのやうに苦勞した後に事業が大成功すれば、株式上場して、創業者利益として莫大なキャピタルゲインを得るといふサクセス・ストーリーの事例が殆どであつて、本來の制度目的とは餘りにも大きなズレがある。銀行(金融業者)は、起業資金の必要な創業時には融資せず、事業が成功を收めてから融資する。雨の日には傘を貸さず、晴れの日に傘を貸す。銀行が雨の日に傘を貸さないので株式會社制度ができたのに、それも充分な役を果たさないのなら、この制度の必要性はないのである。

苦勞して成功させた事業を、創業者の名譽と體面、それに上場によるキャピタルゲインのために上場すると、今度はハゲタカに狙はれる。本來であれば、ハゲタカが企業買收をしてくる危險から上場會社を防衞するための最強かつ最良の方法は、會社側が株式を買ひ集めて上場基準を滿たさなくさせて上場廢止にすることである。世界において眞に優良な企業で「非上場」の會社も多く、その理由は、その方が企業買收される危險がないので、その安心と安定が經營者の活力と勞働者の意欲の源泉となつてゐるからである。そのことからして、我が國のみならず世界において、起業方法としての株式會社制度は、外にも樣々な理由も勘案すれば、もはや有害無益となり歴史的役割を終へたと判斷できる。

いづれにせよ、このやうな理不盡な博打經濟は、方向貿易理論による自給率向上政策の實施によつて段階的に終息することになるが、賭博經濟がなくなつても、博打打ち以外の株主には全く何の不都合もない。現在のやうな情報化社會にあつては、「投資株」として、あるいは會社經營のための「支配株」の取引は、規制緩和がなされば不都合を生じさせることなく行ふことができるからである。

ただし、「投資」と「投機」の區別については、前者を是とし、後者を非とするやうな單純なものではない。ともに、利益を求めて購買し、その後に利益を得るために賣却することについては共通するからである。當初は長期保有による配當利益を目的としてゐたか(投資)、初めから保有する目的ではなく早期に賣却して利益を獲得する目的があつたか(投機)といふ主觀的事實で區別することは、その認定が困難である。事後に事情が變更することもありうるからである。それゆゑ、この區別は、ワン・イヤー・ルール(一年基準)か、あるいはそれ以上長期の年數基準といふ客觀的基準によらざるをえない。一年ないしは數年の期間内になされる購買と賣却の事實があれば「投機」として累進課税(懲罰的課税)を行ふことになる。評價規範において、その投機によつて得る利益を認めないといふことであり、實質的な權利否定である。濡れ手に粟の投機利益に對しては、累進課税を適用すればよい。

また、これまで證券取引所での取引が會員制といふギルド制であつたことにも問題があり、規制緩和と新規參入を實現するためにも證券取引所などは早晩解體させなければならない。そもそも、證券取引所といふのは「博打場」である。博打打ちは堅氣に迷惑をかけてはいけないといふ規範を再度確立させ、博打打ち(投資家)とダフ屋(證券會社、證券マン)と豫想屋(證券アナリスト)に振り回されてゐる「虚業」の經濟を續けて行けば、全うな社會全體が崩壞してしまふとの素朴な危機感を人々が持たなければ、人類の將來は危ふいのである。

しかも、この博打場では、株式以外にも、樣々な金融商品を編み出し、先物取引が頻繁になされる。また、穀物、原油などの商品取引所もこれと同樣の「博打場」と化してをり、博打場に出入りして取引をすることを「投機」といふが、この「投機」を容認する經濟とは、まさに「賭博經濟」なのである。

ましてや、その賭博も、いかさま賭博である。マスコミの取材とインサイダー取引の不可分性、官僚による祕密漏洩、企業スパイや企業經營者による情報漏洩によるインサイダー取引やノミ行爲(呑み行爲)などは、不可避的に常に病理的なものとして付きまとふ。絶對になくならない。こんな生き馬の目を拔くやうな賭博に、企業自體が振り回される。いつまで經つても、經濟も精神も健全にはならないのである。

その上、利益追求のために、商品の僞裝は宿命的になる。食品僞裝、耐震構造僞裝のみならず、すべての商品の僞裝の原因は、過當競爭とマネーゲームに由來するものであつて、このままでは今後も絶對になくならない。

商品取引所に關して言へば、世界の穀物輸出國(米國、カナダ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンなど)の穀物の輸出を取り仕切るのは、大手穀物取引商社(穀物メジャー)であり、生産者から海外消費者までの集荷、規格品設定、貯蔵、加工、輸送などの穀物パイプライン全體を支配してゐる。これは、オイル・メジャー(石油メジャー)と類似したものである。ただし、石油メジャーが生産者もこれに加はるのに對し、穀物メジャーはこれに參入してゐない。價格變動や天候異變などによるリスク回避するためとされてゐる。

前章でも述べたが、昭和四十七年にソ連が凶作となり、それが今後慢性化すると豫測したアメリカは、急遽、餘剰穀物を戰略兵器とする構想に基づき、ソ連へ緊急輸出し始めたが、翌四十八年四月、今度はアメリカが異常氣象による凶作となり、トウモロコシ、大豆がアメリカでは絶對量が不足した。その結果、食肉物價の高騰を招き、同年六月二十七日、アメリカは、大豆の我が國向けの輸出を停止したのである。この事件は丁度、第一次オイルショックの時期と重なり、この輸出禁止が長期化すれば、我が國から豆腐や醤油や納豆などは高騰し、最後には消えてなくなる運命であつた。しかし、同年九月には、幸ひにも輸出停止が解除となり難を逃れたのである。この時、アメリカがソ連に大量の穀物を緊急輸出したときに關與したのが穀物メジャーであり、その後、その地位を確立して行つたのである。

世界にある食用植物は約三千種類とされてゐるが、そのうち、穀物メジャーが商業主義によるスケールメリットがあるものとして取引對象とするものは、いはゆる「六億トン作物」とされる米(コメ)、小麥、トウモロコシ、ジャガイモ(根菜類)、大豆の五種類だけである。これが世界の食料生産總量(總供給量)の約四十億トンの約半分を占めてゐる。これまでの農業の歴史は、「植物の單純な相を作ることを目指してきた歴史」(柴田明夫)であり、植物遷移の若い相の特性を利用することで生産性を高めてきた。そのため、自然環境の變化に對しては脆弱となり、雜草と一緒に生産した場合とハイブリッド(高收量品種)の大規模生産の場合とでは氣候變動の影響を受ける程度が異なるのである。

しかも、農畜産物の生産に必要な地球上の淡水量の少なさを考慮すると、ロンドン大學のトニー・アラン教授が提唱した「バーチャルウォーター」(假想水、間接水)といふ認識が必要となり、これは、水と食料の世界的な爭奪の危險を孕んでゐることを自覺せねばならない。そして、この食料のうち、世界の穀物の約半分を穀物メジャーに依存してゐることから、商品取引も賭博經濟で支配され、石油と同樣に、買い占め、賣り惜しみによる價格の高騰に見舞はれることになるのである。

さらにまた、人口問題の一つである環境問題を過剰に強調して不安を煽り、そこには新たに規制利權を生じさせる。しかし、規制するだけでは根本的な解決案にはならない。温室效果ガスの規制についても、排出權といふ金融商品を生み出してマーケットで取引する。しかも、先物取引などで完全にこれも賭博の對象とするといふ自滅的な強かさである。

また、環境が大變だ大變だと騷ぐ者は多いが、それではどうすればよいのかについて、誰も具體的かつ實現可能な方向性を提示しえない。それ以外の時事問題についても、次から次とモグラたたきのやうに、その都度大騷ぎして追ひかけるだけで、しばらくすれば忘れ去つてしまふ。さうかうしてゐるうちに、事態は一層惡化するのであるが、それを「持續可能な」といふ呪文にも似た掛け聲だけで誤魔化して終はらせてしまふだけである。

この賭博經濟を支へてゐるのは、確かに貨幣制度ではあるが、貨幣制度が賭博經濟を生み出した原因ではない。では、その原因は何か。この根本的な原因は、「信用取引」である。物々交換の時代は、交換する物自體が相互の手元に「現存」することが雙方が同時に交換し合ふことの動機付けとなつてゐた。現物取引の時代である。ところが、繼續的にその取引をすることになると、あるとき、一方の手元に交換物がなくても、これまでの取引實績を信じて、直ぐに調達することの確約があれば、他方が交換物を先に渡して、事後に引き渡しを受けることが生じる。それが「信用取引」の原型である。これまでは、交換物の「現存性」を踏まへて取引してきたものが、交換物の「未來性」を踏まへて取引するのである。いはば、「現存交換物」の取引から「未來交換物」の取引をするのである。「現在」を賣るのではなく、「未來」を賣る。そして、その「未來」は「豫測」することによつて、いくらでも無限に擴大して生まれてくる。現在は物がなくても、將來これが調達できるとの豫測だけで、「未來」を取引できるのである。その豫測が確實であらうといふのが「信用」である。そして、その信用は、個々の取引の都度に生まれるのではなく、經濟社會において制度化する。たとへば、繼續的取引における掛賣り、掛買ひ、請負代金の後拂ひ、賃金の日給制度から月給後拂制度など、その對價として貨幣での支拂ひは、對價としての財貨を將來に調達することの見込み(調達可能性)といふ未來豫測に基づくものであつて、すべて「未來」を取引対象としてゐるのである。特に、食料生産物などの基幹物資に關しては、實體經濟の基礎は、現在交換物に置かなければならないのに、その未來豫測が樂觀的になればなるほど、「現存交換物」の數倍、數十倍、さらに數百倍の「未來交換物」を生み出すことができる。見込み違ひによる調達不能や空約束による破綻の類は、信用取引制度の不可避的な現象であつて、これがバブル經濟を生み出す祖型となつてゐる。

そして、この信用制度がさらに一層擴大してくると、對面的な取引のやうに、相手方の顏が見え、相手方の素性が見える場合の具體的な信用だけでなく、抽象的な信用も取引対象となる。つまり、個別取引による具體的な信用を法的に構成した「指名債權」を、第三者へ讓渡しうる流動化を圖り、相手方の顏の見えない抽象的な「證券的債權」へと轉化させ、手形、小切手、抵當證券、金融派生商品(デリバティブ)その他金融樣々な「證券」を出現させて、それが「貨幣代用物」となつて信用取引の主流となる。この貨幣代用物としての機能によつて、通貨總量を超えた假裝の通貨量となつて過剰流動性を引き起こし、そして、その金融證券は、さらに樣々で複雑な組み合はせによる金融商品へと變容し擴大して經濟社會を支配席卷する。貨幣への信用が極大化して證券化され、先物取引などの時間を超えた未來の取引へと擴大する。ここまで來ると、信用の擴大といふよりは、未來豫測(期待と悲觀)の擴大であり賭博である。「先物」の取引は「未來」の取引であり、それを使つて賭博をしてゐるのである。

さらに、消費生活においても、この信用制度が浸透し、信用販賣とローンなどが一般化するクレジット文化を生む。「buy now,pay later(直ぐ買ひなさい。支払ひは後で)」といふアメリカ文化は、フォーディズム(Fordism)による自動車の大衆化(モータリゼーション)と呼應して、大量生産、大量消費による資源浪費、環境破壞を生み、それを世界に擴散させるとともに、虚業經濟、さらに、飽くなき欲望の追求による賭博經濟を蔓延させる原動力となつて、大きな弊害を生み出すことになる。

このやうに、賭博經濟は、不確實、不安定に膨大に擴大した「未來」を取引対象として擴散させ、それが際限なく發展上昇するものと欺罔する。欺罔しなければ「未來」取引は成立しないからである。そして、この「未來」を高度の分業體制下でさらに分業化、細分化させ、その膨大に膨れ上がつた取引總量を賄ふだけの通貨を湯水の如く追加供給して過剰流動性を高めて增殖させることでしか賭博經濟體制を維持することができないのである。自轉車操業が賭博經濟の宿命である。

現存する物(現存物)と未來に得られるであらう物(未來物)との實際的な價値を比較するとすれば、未來物は無價値であることが緊急時に判明することになる。たとへば、脱水症の患者や飢餓症状の者の現状を救ふためには、株券や現金では何の役にも立たない。一滴の水でも一口の食物でもよいが、現存物としての水と食料が必要である。株券や手形、小切手や現金などの未來物は、それが交換價値としては如何に高額なものであつても、使用價値はない。證券などは紙切れに過ぎず、これ自體を食することはできない。水や食料との引換券があるとしても、それは現物ではなく、未來物であるから今の餓ゑを凌げない。物の價値とは、使用價値(消費價値)であつて、交換價値は、未來があることを前提としなければ無價値なのである。「資産家の餓死」といふパラドックスは、未來を過信することの危険性を證明するものである。餓死した資産家としては、悪夢(未來を過信する妄想)を喰ふ「獏(ばく)」を飼つて置きたかつたであらう。

多くの人が、未來は際限なく豫測可能であり實現可能であると過信すればするほど、その連鎖によつて社會全體がバブル經濟(賭博經濟)の集團催眠に陥るのである。そして、バブルが膨らみ、賭博師のしくじりによつてバブルが彈けて集團催眠が解ける。ところが、その學習效果のある免疫世代から次世代に移ると、再び同じやうなことを繰り返す。

これまで、世界的なバブル經濟は、オランダのチューリップ・バブル(1637+660)といふ世界初のバブルから、幾度となく繰り返された。ドル安政策に轉ずる昭和六十年のプラザ合意による我が國の内需擴大政策によつて昭和六十年代から平成初頭における我が國のバブル景気とその崩壞、平成十年前後に起きた米ITバブル、そして、その崩壞に對應するために平成十三年ころから始まつた政策金利の引き下げなどによる金融緩和によつてサブプライムローンなどの證券化商品への投機流入がなされ、これによる平成十五年から十九年までの米不動産バブル、これと同時進行的に起こつた平成十八年から二十年までの原油などの資源バブル、さらに、これに對應するためになされた金融引き締めと金利上昇による景氣減速によつて一氣にバブルが彈け、證券化商品の信用崩壞と投資銀行の破綻を招き、次いで、平成二十年三月のベアスターンズの破綻、同年九月のリーマンブラザーズの破綻に至つて、世界は金融危機に陥り、カンフル劑的な財政出動を各國が協調するも、これらのバブルの發生とその崩壞の周期が短期化し頻繁化してゐる。そして、最終章としての世界的金融クラッシュが早晩起こることにならう。

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