國體護持總論
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著書紹介

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自立再生論と新保護主義の相違點

では、この自立再生論と前に紹介した新保護主義とは、どこが同じでどこが違ふのか、といふことについて説明したい。

まづ、方向貿易理論を採用してゐる點は完全に一致してゐる。そして、グローバル化こそ世界滅亡の道であるとの認識や、輸出入を制限していくなど、その前提となつてゐる自由貿易と國際金融資本の認識などについてもほぼ一致してゐる。また、GATT(WTO)の解體など既存の國際組織を解體させる方向は熱烈に支持できるし、その他指摘された七つの具體的政策提案についても、以下に述べる點を除き、さほど大きな異論はない。

しかし、まづ、大企業の解體については、これを強制的に行ふことには絶對に反對である。方向貿易理論に適合しない企業は、その大小を問はず自然淘汰されていくとするのが自立再生論であつて、新保護主義のやうな政策は、方向貿易理論の實踐にとつては完全にマイナスになる。企業の産業的牽引力に信賴を寄せるべきであり、ましてや、大企業には一般的にはスケールメリットによる技術とノウハウの集積があり、何よりも雇用の確保と擴大がなければ、産業構造の變革は實現できない。大企業の解體政策は、これらを否定して、失業を增やし、技術とノウハウを散逸させて國内經濟全體を沈滯化させ、自給自足體制へ移行するために大きな桎梏となつてしまふからである。

このやうな「大企業の解體」の主張は、マルクス主義の亡靈である。企業は惡、大企業は巨惡とする考へに根據がないことは明らかである。企業(會社)が惡であれば、その相似形である家庭も國家も惡であり、人間自身も惡となる。それは本能を否定する性惡説である。道(規範)を踏み外すことがあつても、必ずまた道に戻ることも本能による規範意識による。江戸中期に、石門心學といふ獨自の學派を拓いた石田梅岩は、武士に武士道があるのなら、商人にも商人道(商道)があると説いた。まさに雛形理論である。そして、利を求める商人にも人としての義(士道)を守ることを求め、利と義とは兩立するとし、その序列を「先義後利」とした。これが我が國の「あきんど」の魂として定着し、今日に至つてゐる。道を外すことを「外道」といふ。秩序と規範の投影である禮がないことを、無禮、非禮、失禮といふ。禮に始まつて禮に終はる。それが道である。その意味では、「柔道」や「空手道」などがスポーツとなつたときに、その武道は死んだ。試合終了の禮を濟まさないうちから、勝つて小躍りしてガッツポーズをする姿は見苦しく、外道の野蠻人と成り下がる。これと同じで、儲かつたことを世間に誇示するだけで社會奉仕をしないのは商道から外れる。

このやうな「商道」の思想は、共産主義者からすれば「理外の理」なのであらうが、いづれにせよグリンピース・インターナショナルの經濟擔當者コリン・ハインズがこの新保護主義の主唱者の一人であつたことからすれば、冷戰構造崩壞後、マルクス主義者ないしは共産主義者の多くが環境保護思想へと轉向して行つたことと無縁ではないと想像できる。そして、そのためか、この新保護主義には決定的に缺けてゐる「視座」があることに氣付くのである。

それは、第一に、新保護主義が打倒しようとする現在の國際體制が大東亞戰爭の戰後體制であるとする認識が完全に缺落してゐる點である。

新保護主義を育んだ土壤は、まさに大東亞戰爭を「惡」として斷罪した歐米思想であり、大東亞戰爭による大東亞共榮圈といふ經濟ブロックを壞滅させるために歐米が構築した經濟ブロックによる「保護主義」をそのまま承繼したのが「新保護主義」であるといふ思想的系譜がある。もし、新保護主義が自己の正當性を主張するのであれば、我が國に對し、安政の假條約によつて、保護主義の極地であつた鎖國主義を放棄させた歐米の誤りに對する歴史的な懺悔から出發しなければならないはずであるが、やはりこの新保守主義なるものは、白人至上主義を一歩も出られない普遍性のない思想といふことである。

第二に、新保護主義には、自立再生論のやうな「閉鎖循環系」の思想がない。自給自足はしても、循環型の社會構築の提案が全くない點である。

これでは、前に述べた「修正主義(福祉主義)」の單なる亞流であつて、淘汰される運命しかない。それは、「資源税」といふ考へ方に集約されてゐるのかも知れない。この資源税については具體的な説明がないが、おそらく資源の費消に賦課される税制であらう。そして、課税者は、「大企業」を惡とする思想からして、生産活動に課せられることにならう。しかし、これでは産業構造の劇的な轉換を生まない税制になる。これは、生産者に對する課税であり、消費者に對する課税ではない。さうすると、生産者は、何とかして消費者に消費性向を掻き立てさせるために、技術と廣告宣傳を驅使し、資源税を上乘せしても利潤を確保できる商品(殆どが奢侈な高級品)を制作して消費者に提供することになる。消費者もこれに迎合して買ひあさる。そして、小規模ではあつても、奢侈商品の擴大再生産が循環されるのである。これでは本來の目標には到達できない。さうではなくて、自立再生論に基づき、奢侈品には累進的に大きな税率の資源税を課すとの流通税(消費税)方式とすれば、家計との關係で買ひ控へが起こり、過剰消費が抑制される。

新保護主義の資源税の構想は、過剰生産を惡と見るが、過剰消費を惡と見ない考へに支配されてゐる。資源を使用して利益を得る資本家による生産は能動的な惡であり、それを購入する労働者の消費は受動的な善であるとして、資源税の擔税主體を生産者とする。これは共産主義の亞流である。しかし、現在の高度分業體制の社會では、生産者は一部であり、消費者は、この生産者を含めた全ての人々となる。さうであれば、過剰生産のみを惡とする教育は、一部の生産者を惡として指彈するだけで、消費者に自らの生活を自戒させる契機を失ふ。これに對して、過剰消費をも惡とする教育は、それ自體が眞理であることもあるが、誰もが例外なく消費者であることから、一部の誰かを惡者として指彈することによつて自己滿足して傲慢になることはなく、全員が自らの生活を自戒する機會に直面することになるから、教育的効果においても絶大なものがある。

第三に、新保護主義は、規制の具體的な七つの方策を示すものの、その規制によつて達成する理想社會の具體的なありさまが全く論じられてゐない點である。

單に、「秩序ある資本主義」として規制するとしても、その内容と方向に具體性がない。これだけの規制を一度にすれば、資本主義は完全に失速し、經濟破綻を招來する懸念がある。この七つの方策は、政策論として體系化、序列化されてをらず、到達すべき理想社會の方向も提示されてゐない。手段だけは掲げられるが目的と方向は掲げられてゐないのである。そのために、世界的な金融危機や恐慌が起こると、從來までの金融と財政の缺陥システムをそのまま維持しようとする者たちから、「このままであれば保護主義が台頭し、世界は戰爭の道へと轉落する。」といふ常套文句が語られる。保護主義は戰爭の代名詞として利用し、この缺陥システムを守らうとするのである。確かに、世界が保護主義へ向かつて戰爭に至つたといふ歴史的な事實が過去にはあつた。それは、保護主義へと向かふ目的が「戰爭」の準備にあつたためである。しかし、自立再生論の目的は、「平和」の創造と繼續にある點で全く異なるのである。自立再生論とは、その究極が方向貿易理論による政策を推進して「閉鎖循環系の自立再生社會の極小化」を實現するといふ明確かつ具體的な理念とその實踐であるが、新保護主義にはこれに相當する理念と實踐がないのである。自立再生論からすると、新保護主義のいふ「秩序ある資本主義」の「秩序」を具體的に説明することができる。それは、まさに自立再生論によつて規律された秩序といふ具體的秩序である。

第四に、これは經濟効果において最も重要なことであるが、自立再生論による自給自足領域の極小化は、内需擴大を推進することになるとの點である。ところが、新保護主義には全くこのやうな經濟學的視點が缺落してゐる。

生産至上主義は、徹底した分業體制によつて經濟規模を極大化し、ワン・ワールド化することにあつた。分業を限りなく細分化することによつて、雇用、消費、内需、外需をいづれも擴大させて「無限大方向への發展」を目指すことである。しかし、經濟世界は地球規模を超えることはできないし、分業にも費用對效果(コスト・パフォーマンス)といふ限界がある。そして、擴散すればするほど生活は確實に不安定になるのである。これに對し、自立再生論は、後述するとほり、單位共同社會の極小化を目指すものであるから、自給率向上のための技術革新とその新製品の製造販賣などによつて、外需の縮小と内需の擴大が相關關係となつて、單位共同社會の極小化、つまり「無限小方向への發展」が可能となる。これは、各國が自立する方向であり、しかも、各國が内需を擴大し續けて經濟規模を擴大させる方式である。雇用は、單位共同社會に吸收され、奢侈な過剰消費はなくなり、適正な消費によつて經濟を安定させる。方向貿易によつて縮小して行く外需依存の體質を内需依存へと改善させることができる。基幹物資の自給率向上のための極小化の方向は、技術革新による新商品の開發とその販賣、それを購入して活用することによる自給率の向上による利益獲得といふ好轉的循環を生むのである。いはば、極小化政策とは、内需擴大モデルの永久運動となる。しかし、新保護主義によると、外需規制だけで、内需擴大の施策がないので、資本主義は失速して經濟は停滞する。これに對し、自立再生論によれば、方向貿易理論によつて外需規制を内需擴大へと轉換させ、自給自足體制による自立再生社會の實現へと向かふ牽引力として資本主義活動を效率よく誘導することができるのである。

第五に、自立再生論と異なる點は、「政府の再強化」といふ點にある。

この「政府の再強化」といふのは、中央集權の強力な政府を出現させることを意味する。確かに、中央と地方と多層構造による「大きな政府」とか、發展途上にある國々において、富國強兵政策を推進するために「開發獨裁」といふ政治形態がある。それゆゑ、この「政府の再強化」とは、これらと類似して、經濟生活環境を保護する政策を推進するために「環境獨裁」とでもいふべき政治形態を目指してゐることにならう。しかし、これは、權力を不用意に肥大化させ、生活のあらる面において取り締まりを強化させることになる。しかも、この再強化は、理想社會を實現するための過渡的な手段として、一時期的なものではなく、恆常的な再強化によつてしか理想社會が維持できないことを意味してゐる。永久に強權獨裁状態を維持しなければならない構造となる。これは、まるで「プロレタリアート獨裁」の理論と似てゐる。

マルクスは、「プロレタリアート獨裁」とその頂點に存在する「共産黨獨裁」といふ政治形態は、革命の完成によつて消滅し、政府自體も消滅するとした。ところが、これまでの共産主義國家においては、政治學的には、共産黨幹部といふ特權階級の「專制政治形態」であることが例外なく證明されてゐる。「獨裁權力はその目的が達成した暁には消滅する。」といふロジックは全くのマヤカシであり、眞の目的とは、獨裁權力を維持すること、つまり、獨裁權力の自己保存であり、たとへ表向きの目的が達成したとしても、今度は、それを維持するために獨裁權力の存續が必要であるとの口實を與へることになる。絶對的權力は絶對的に腐敗するのであつて、その盛衰の歴史の中で、人々に再び共産主義の惡夢に勝るとも劣らない大きな犠牲を強いることになる。したがつて、新保護主義の「環境獨裁」は、「開發獨裁」や「共産黨獨裁」と同樣、「大きな政府」の出現により人類のさらなる悲劇を生む危險思想となりうる。

第六に、この思想について憂慮すべきは、現在、地球環境が危機的状態にあることから、地球滅亡か環境獨裁かの二者擇一しかなく、その選擇を迫られるとする虚僞の論法を用ゐてゐる點である。

本當にさうであれば、環境獨裁しかないが、果たしてさうか。否。斷じて否である。自立再生論は、第一章において、法の支配としての「國體の支配」を説いて主權論を排し、規範國體の法體系を明らかにしたうへ、統治原理においても、第五章で述べたとほり、政治的効用の均衡を實現するために、利益と權限の公平な分配と腐敗防止を同時に實現しうる「羊羹方式」と「燒き魚方式」とによつて構築された效用均衡理論を採用し、經濟においても、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」といふ方向貿易理論と、再生産業を産業構造の基軸に置いた再生經濟理論による政策の實踐に集約される體系的理論である。その實現のための手段としても、そして、その目的としても「小さな政府」しか必要ではない。「小さな政府」になること自體が目的であるといふよりも、自立再生社會が實現すれば、自づと政府は小さくなるといふことである。ただし、この「小さな政府」といふのは、財政規模と財政作用においてその範圍が小さいといふ意味であつて、地域的な範圍についてではない。このやうな全國的規模や世界的規模の方向性を打ち出すためには、各地方で格差や政策の相違があつてはならず必ず中央集權的でなければならない。

このやうな政治經濟社會構造を構築する方向に、金融、投資、生産、消費などの經濟活動を國内閉鎖系に限つて開放し、自由活發化させればよいのである。各國が、それぞれ自給率を高めるために國際的な技術協力を行ひ、貿易、資源活用、生産、消費、公害發生などの經濟活動に關して、それが自立再生社會を實現する妨げとなる方向での活動に對しては懲罰的課税を導入し、さらに關税障壁を設けて保護主義的傾向が增せば、その國がたとへ自由貿易を採用してゐたとしても、そのうち「見えざる手」の作用により自づと自立再生論を無理なく選擇することになるものと考へられる。自給率の向上を政治目標とするならば、關税などの貿易税は、當然に引き上げ方向になることは自明のことである。

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