國體護持總論
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汚水處理

また、このやうな廢棄物(拜歸物)一般について考察するに、廢棄物處理の全般について、以下に述べるとほり、現在では有效な改善策と技術が存在してゐるのである。廢棄物は、その發生の種類によつて一般廢棄物、屎尿、産業廢棄物、放射性廢棄物などといふ法律行政的分類があるが、ここでは、廢棄物が水を媒體とするか否か、即ち、汚水處理とそれ以外の廢棄物處理とに區分して考へる必要がある。

地球上の水質汚染は、淡水・海水の區別なく極めて深刻な事態となつてをり、地球上の總水量の數パーセントにすぎない淡水においても、その惡化は、とりわけ地上生物の生命の維持に直接影響を與へるために一層深刻である。水は、生物全部の共有財産(公共財)であつて、産業全般と生活を支へる基幹物資であるから、汚水處理といふ「再生」に要する費用負擔については、汚水量と汚水濃度に比例した「汚染者負擔原則」が妥當するはずである。

しかし、生産至上主義に基づく我が國の法制度は、この原則には程遠いものである。『水質汚濁防止法』第一條によれば、その立法目的は、「公共用水域及び地下水の水質の汚濁(水質以外の水の状態が惡化することを含む。)の防止を圖」ることにある。從つて、排水基準の設定は、生態學的見地から、さらに水質が汚濁されず、かつ、水質以外の水の状態が惡化しない基準でなければならない。假に、同法が施行された後にも、さらに水質汚濁が進み、水の状態が惡化するのであれば、同法第三條第一項に基づく『排水基準を定める總理府令』(昭和四十六年六月二十一日總理府令第三十五號)の排水基準が誤つてゐた(甘すぎた)ことになることは當然である。現に、同法及び總理府令が制定施行されて久しく、その排水基準が現行の排水基準に改正施行された後も水質汚濁惡化が進行してゐることは公知の事實である。ところが、政府は、このやうな事態に全く對應してをらず、總理府令の現行の甘い排水基準をそのままにして放置し、全國的な水質汚濁の進行を認識してゐながら、排水基準の強化をはかるなどの水質汚濁を防止する施策を講じようとせず、このやうな違法の措置をとり續けてゐるのである。これでは、まるで「水質汚濁放置法」又は「水質汚濁推進法」である。

その上、さらに決定的なことは、總理府令排水基準においては、業種別の區分を設けてゐることである。業種別に、排水基準(處理水基準)を異にすることは特定業種を特別に保護することであり、その緩和措置に對して、汚水處理の目的税をも賦課しないことは、占領憲法第十四條の法の下の平等に違反するのみならず、この考へ自體が生産至上主義政策を顯現してゐるのである。共有財産である水を借りて自己の生産・消費など經濟活動を行ひ、これによつて汚染したのであれば、それが誰であつても、元の綺麗な水にして返すことは、幼兒期のしつけの部類に屬する普遍の道理である。家庭排水、都市産業排水、農業排水などの汚水處理において、今や下水處理場や屎尿處理場での活性汚泥法による一括處理が限界に達してをり、その處理によつて生まれる餘剰汚泥といふ第二次的産業廢棄物の處理の費用が汚水量の增大に伴つて增加し、國家財政と地方財政とを壓迫する。これらの「産業固定費」を輕減する各種技術が開發されてゐるにもかかはらず、行政官僚に群がる利權集團の妨害と省益を堅持する政策によつて「汚染者負擔原則」による水の地域的再生循環が實現されるに至つてゐないのである。

そもそも、汚水處理について、汚水を「排水」として、排除の對象と認識する點において思想の缺陷が露呈してゐる。淨水を汚して汚水としてしまつたものを再び再生させる使命があることを忘れてゐる。水は、禊ぎ、灌頂、洗禮などに用ゐられることはもとより、生命と共にあり生命を支へ續ける普遍的なものであるがゆゑに「聖」なるものである。それゆゑ、生命維持のために汚してしまつた水の役割と貢獻に拜謝する意味で、これを「排水」ではなく「拜水」と認識し、それを淨化再生をする使命感を鞏固にしならなければ自立再生社會が完成しないのである。

このやうに、政治的・法律的・行政的障害は大きいが、技術的な障害は比較的小さい。汚水處理については、汚染者單位又は地域・集落單位で技術的に處理が可能であり、その處理費用も節約しうるまでの技術開發がなされてゐる。このやうな根本的改革を行ふについては、汚染者負擔原則による税制の拔本的改革が前提になることは當然である。

この汚水處理と關連するものとして、述べておかねばならないのは糞尿處理のことである。まづ、人糞尿について、『古事記』では、「屎に成れる神の名は、波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)」として神格を備へてゐた。また、天照大御神が速須佐之男命のなされた行爲を「惡しき態」とされたとほり、田畑に排泄物を撒き散らすのは律令制度においては重罪とされた。そして、武士の世(中世)からは自家肥料として、戰國時代以降の近世では、火藥原料(鐵砲火藥の硝石の生産)となり、江戸期では人糞が肥料用商品として賣買されるに至つた。近代(明治以降)でも肥料として商品とされたが、現代では殆ど廢棄物とされてゐる。しかし、將來においては、糞尿に神格があることを踏まへて、この有效活用が重大な課題として託されてゐるのである。

GHQの占領下では、これまで農業で用ゐてゐた人糞肥料は禁止の方向へと向かひ、これに代へて化學肥料に依存することとなつた。しかし、これまで人糞尿(下肥)は、肥溜で嫌氣腐敗させて基肥や追肥として用ゐられてきたし、人糞は、汚泥を混ぜて発酵させると「堆肥」に近い有機質肥料になる。また、家畜糞尿に稻藁や乾燥させた草を混ぜて發酵させると堆肥になるのである。確かに、生の糞尿を撒いても作物は育つが、無発酵人糞では土壤に細菌や害蟲(線蟲など)が繁殖して土壤に棲む土着菌などの土壤菌を死滅させたりする。そのため殺菌と殺虫のために農薬類を使ふことによつてさらに土壤汚染と土壤菌に影響を與へ、農薬類の周囲への飛散や地下水への浸透などの二次被害を生むことになる。つまり、農薬類のため土壤菌などが死滅するので地力が低下し、その分だけ化學肥料を大量投與することになり、そのことからさらに地力が低下するといふ惡循環を生んでゐるのである。

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