國體護持總論
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著書紹介

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國富本位制の提唱

このやうに考へてくると、貨幣總量は、國民經濟において流通しうる財の價値總量に對應することになる。この流通財の價値總量は、一定時期(決算期末)における流通財の殘高といふことになる。これは、フロー(flow)とストック(stock)の區別としてはストックであり、損益計算書(profit and loss statement P/L)と貸借對照表(balance sheet B/S)の會計學的區分からすると、B/S勘定(accounts)なのである。フロー(P/L勘定)は一定期間の變動を測定する動的觀察であるのに對し、ストック(B/S勘定)は一定時點の存在(殘高)を測定する静的觀察である。


社會全體の總需要價格と總供給價格とが恒常的に一致するとのワルラスの法則(Walras' Law)や、年間に生み出された付加價値の總量を示す國民總生産(Gross National Product GNP)や國内總生産(Gross Domestic Product GDP)について、生産と分配と支出の各視點からそれぞれ測定しても一致するとする三面等價の原則(principle of equivalent of three aspects)などは、すべてがフロー(P/L勘定)の視點であるから、理論を構築する手法に矛盾はない。


しかし、これまでの經濟學が貨幣數量について論ずるとき、ストック(B/S勘定)の領域として認識すべきものをフロー(P/L勘定)の領域で論じたり、これらを混在させて論じてきたといふ、初歩的で致命的な誤りを犯してきた。

たとへば、物價水準は、流通貨幣量によつて決定するといふ貨幣數量説(quantity theory of money)や、ハイパワードマネー(high-powered money)の增加が何倍のマネーサプライ(通貨供給量、money supply)の增加となつてゐるか、その倍数である貨幣乘数(money multiplier)の理論によると、T(財の取引總量)、P(物價水準)、M(流通貨幣量、貨幣需要、通貨供給量)、V(流通速度)、Y(實質所得)、k(比例定數)、H(ハイパワードマネー)、C(現金)、D(預金)、R(準備預金)との關係を

   ① PT=MV
   ② M=kPY
   ③ H=C+R
   ④ M=C+D

と假定するが、このやうな假定が現實に成立してゐるかには大きな疑問がある。k(Marshallian k)が定數であるとの證明はされてゐない。つまり、MがPとYの關數であるとしても、それ以外にMに影響を與へる變數がないことが證明されてゐないからである。その證明がない限り、これを定数とする根據はない。現實においてもkが定數でないことは明らかになつてゐる。

さらに、H、C、D、Rはストックであるが、それ以外はすべてフローであるし、Mはフロー(②)とストック(④)の双方の意味で用ゐてゐる。

速さの數値(フロー)と重さの數値(ストック)とは關連しないし、その數値比較に全く意味がないのと同じやうに、フロー(P/L勘定)とストック(B/S勘定)の數値の間に直接的な關連性はない。ストックの財を表象する通貨をフローで認識することの前提が誤つてゐる。通貨をフローの視點で認識するとしても、まづは通貨をストックで認識した上で、それがフローの視點からの觀測結果とどのやうな關連性があるかといふことを考察するのが順序である。

それゆゑ、このやうな誤つた前提と手法で觀測することは、「當たるも八卦、當たらぬも八卦」の世界なのである。經濟學者や經濟評論家などの經濟動向豫測がいつも外れるのは、彼らがその世界の住人だからである。

そのために、合成の誤謬(fallacy of composition)とか、流動性の罠(liquidity trap)、「貨幣錯覺」(money illusion)などいふ、「理論通りにはならない理論」を編み出し、擬似科學へと堕落したのである。


ストック(B/S勘定)の領域である通貨總量の認識に關して、金本位制、銀本位制の時代までは、ストックの視點に立つてゐた。金銀の保有量といふストックの視點だつたのである。ところが、管理通貨制(無本位制)に移行すると、いきなりフロー(P/L勘定)の視點に變更してしまつた。管理通貨制でも、原則として發行限度を決めたのであれば、ストックの視點は維持しなければならない。ところが、前述のとほり、實質的には發行限度を設けなくなり、青天井になつた途端に、通貨に關して專らフローで測定することにした。どのやうな理由によるものか、何の説明もないが、この程度でも素人を騙せるといふことである。

しかし、これは、學問の自殺行爲であつて、そのやうにしてまで誤魔化さないとドル體制を維持できないといふことである。


やはり、經濟を健全にするためには、通貨についてはストックの視點を物差しに使ふ「本位制」によるべきである。ところが、金本位制などはストック視點ではあつたが、金(gold)の價値總量と國富(national wealth)の價値總量とは一致しない。ここで言ふ國富とは、國家の保有する流通財の價値總量であるから、國家の金(gold)保有量は國富の一部を構成するに過ぎないので、常に、

    國富>金(gold)

の不等式となる。金本位制が崩壞した原因は、結局のところ、絶對に克服できないこの不等式のためであつた。


ところで、通貨を保持してゐることは、自己が欲するものが見當たるかは解らないが、どこかにこの通貨と交換できる何かしらの流通財が存在してゐるといふ信賴がなければならない。これが通貨制度を維持するについて必要なことである。その信賴を維持するためには、もう一度アダム・スミスの「國富」の意味を思ひ出せばよい。金銀を保有することが國益ではなく、人々の生活に必要となる豐かな流通財が存在することなのである。つまり、國家の保有する流通財の價値總量である「國富」が、貨幣總量を決定づける本位でなければならないのである。


この國富本位制(national wealth standard system)を實現するためには、政府の外に存在する中央銀行に委ねられてきた通貨發行權を國家が取り戻すことから始めなければならない。シンガポールや香港のやうに、通貨發行權が政府にあつて中央銀行にはない國家や地域もあるが、殆どの國家はFRBや日本銀行などのやうに政府の外にある中央銀行が通貨發行權を持つてゐる。そこで、中央銀行から國家へと通貨發行權を返還させ、中央銀行の一般銀行化、公的清算、政府への吸収合併などの措置を講ずることが必要となつてくる。過渡的には、子會社化による連結決算處理が必要となる。


そして、最終的には、銀行券(日銀券)と政府紙幣(国内通貨)とを一對一の交換比率で等價交換する措置がとられることになる。等價交換される理由は、經濟的混亂を回避するためでもあるが、これにはもつと深い意味がある。

國富本位制といふのは、國富の價値總量を發行する通貨總量と同等にすることが基本であることは、これまで述べてきた。

ところが、財の價値を評價するとしても、それには絶對的基準がなく、他の財との交換比率を相對的に決定して決めることになる。個々の財には、絶對的な不動の價値といふものはない。常に、他の財との交換比率によつて相對的に價値が決まるのである。そして、その交換比率によつてそれぞれの價値が相對的に決定したときに用ゐられる価値單位が通貨であつて、通貨それ自體に獨自の價値が設定されて一人歩きするものではない。

試合競技(match)における審判員(referee)は、試合競技の判定をする立場であつて、試合競技自體には決して參加しないし、參加しては試合競技は成り立たない。通貨が流通財の交換經濟といふ試合競技に加はつたことは、審判員が試合競技に參加することと同じことであり、これによつて貨幣經濟の自己矛盾が起こつたのである。


從つて、流通財の價値總額を評價するときは、形式的な價値尺度(通貨單位)を設定し、その單位を物差しとして、膨大な種類の流通財の相對比較を網状的(network)に均衡させて名目的な價値が決定されるのである。

流通財を鏡に映した姿が通貨であるから、流通財が全體として大きくなれば通貨の單位も大きく映る。小さくなれば小さく映るのである。同じ速度で併走してゐる二台の車に乘つてゐる観測者(國民)からすれば、二台の車(流通財と通貨)の相對速度は零(zero)となり、止まつて見えるのである。

それゆゑ、通貨量をその都度數量調整などする必要がないといふ亂暴な議論も出てくる。それは、現在發行されてゐる通貨總量はそのままにして、その單位を流通財の價値總量と同じになるやうに、年度ごとの變動比率で通貨單位を切り上げ、切り下げすることで足りる。つまり、流通してゐる通貨の單位を比率換算で讀替へて修正して使用すればよいことになる。發行通貨の單位で測定すれば、流通財の名目的な價値總額が九十(90)であり、その時點での發行通貨の總合計が百(100)であるとすれば、發行通貨の單位を一割(10%)切り下げればよい。たとへば、一萬圓札を九千圓に換算して流通させればよいといふことである。


しかし、このやうなことは、國民にとつて大きな負擔を強いることになり、周知されないところで經濟的混亂が生じるし、そして何よりも繁雜である。そこで、銀行券から政府紙幣へ切り替へする初年度において、價値水準(物價水準)を基準として價値尺度を固定し、今後の變動率修正で通貨制度を運用して行くことなるのである。

さうすると、發行切替の初年度における等價交換による通貨切替措置よつて、銀行券と政府紙幣との發行數量に差異が生ずることが想定されるので、その交換よる差益又は差損は、國家の貸借對照表上に反映されることになる。中央銀行の清算時の非常貸借對照表と国家の貸借對照表その他の財務諸表及び財務諸表付属明細書(schedule)などにより、財務内容の開示(disclosure)された段階で判斷されるが、最終的には、合併ないしは清算よる差益又は差損と連結させて處理がなされることなる。もし、大きな差損が生じたときは、後に述べるとほり、支分徴税權を相手勘定として處理されることなる。


このやうに、國富本位制は、單に通貨制度の改革だけにとどまらず、後に述べるとほり、これまでの政治制度、經濟制度、法制度などの大轉換を迫るものである。この大轉換を行ふことの困難と苦労は確かにある。しかし、それは、現在の經濟制度機構の矛盾を小手先の彌縫策を講じて修正し續けても、將來の展望が開けずに、賽の河原での石積みのやうな苦勞をし續けなければならないことと比較すると、取るに足らないものである。

現在の經濟制度機構は、原子力發電所のやうな、巨大で複雜な機械装置に似てゐる。周期的又は突發的に常に必ずどこかで綻びが生じ、それが慢性化しながら惡化させて、經濟制度機構の根幹を揺るがす大事故を起こし、世界の人々を混亂させ、平和と秩序を破壞する原因ともなりうるからである。


このやうな現在の經濟制度機構は、到底長続きしない。一刻早く解體して退場させなければならないが、これに代はる制度は單純かつ簡素で、誰もが理解できる堅實なものでなければならない。現在のやうに、專門家と稱する一握りの者が、自分でも説明できないやうな專門的で譯の解らない言葉(ジャーゴン、jargon)を使つて經濟を語り、一般の人が付いて行けないものであつてはならない。

普遍性のある制度理論は、常に單純なものでなければならず、それに基づく具體的な制度は簡素なものでなければならない。財(流通財)と貨(通貨)を均衡させる「財貨均衡原則」に基づいて、國富を本位とする「國富本位制」を實現こそが我が國だけに留まらず世界各國で採用されるべき唯一の通貨制度であるとする理由はここにある。

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