國體護持總論
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著書紹介

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利子の禁止

國富本位制から當然に導かれる論理としては、これから説明する利子(利息)の禁止である。利子(interest)とは、一定期間の貸付に對する對價のことを意味する經濟學用語であり、法律一般では利息と呼稱されるが、利子と同じ意味である。また、金利(money rate of interest)といふのは、金融市場での利子又はその利率を指すことがあるので、ここでは統一的に利子の用語を用ゐることとする。


國富本位制における貨幣總量を決定するのは、國家の保有する流通財の價値總額である。

この流通財の價値總量に對應する通貨總量は、流通財の價値總量の增減に伴つて附從的に變動しなければならない。それは、通貨が流通財の影絵のやうな媒介物であることの宿命であつて、これが國富本位制の根幹である。

ある年度末の時點における流通財の價値總量の殘高を算定する場合、この減價分が控除されたものが、將來需要に備へられた遊休資源である「在庫分」となる。そして、これが次年度に繰り越され、次年度での經濟活動によつて流通財が加算され增減する結果として、再び年度末の在庫分が決定する。その殘高の延びが國富の延びである。

さうすると、厳密に言へば、年度末における流通財の殘高評價は、當年度内に生産された流通財の付加價値の總量から減價した價値相當分を控除する棚卸計算と、それ以外の流通財について行ふ減價償却計算によつてなされることになる。


このことは、個別的通貨による認識と全體的通貨による認識の双方において、同じ結論に至る。流通財の多くは、時間的經過によつて價値の減少を生む性質の財なのである。それゆゑに、通貨だけがこれと異なる原理で運用されてならない。もし、さうなれば、通貨が流通財の交換媒介であるとする性質から大きくはみ出すことになる。通貨は、財の性質を越えることはできないし、これを越えれば通貨制度の崩壞を招く。これが「通貨の附從性」である。

また、次年度において流通財の價値總額が增加することがあるのは、新たな流通財が次年度で生産されたことによつて增加するためであつて、既存の在庫分の價値自體が增加するものではない。むしろ、減耗、劣化、消費、償却などによつて減價することはあつても增價することはない。通貨もこれと運命を共にすることになる。


さうであれば、通貨それ自體を流通財とは無關係に貸借したときの利子は禁止されなければならない。流通財を貸借したとき、經年變化による劣化は誰が使用しても發生する固定費であるが、使用による減耗や汚損は使用によつて生ずる變動費であるので、それを補填するために賃料を求めるのは當然である。賃料が歴史的に「損料」されてきた所以である。このことは建物の賃貸についても同樣である。建物は償却資産であるから、減耗や汚損に對する補填を求めることを認めうるからである。


では、不動産はどうか。不動産は非償却資産とされてゐる。不動産借地料は、農地の小作料から發展したもので、その起源は年貢(貢租)である。つまり、小作料は租税から變形したものである。農地は、そもそも収穫物を生む財であるので、農地を小作に出すことは、期待される収穫量を分與することであり、その分與請求が小作料である。明治の地租改正では、國家、地主、小作人の三者の取分比率を定め、地主が國家に納入する地租は金納、小作人が地主に支払ふ小作料は物納となつてゐた。そして、戰後になつて全て代金納制となつたやうに、地租と小作料とは一體的に取り扱はれてきた。そして、これが不動産賃貸一般における賃料として普及したものである。


ところが、財の貸借ではなく通貨の貸借の場合は、これと大きく樣相を異にする。通貨は、損料の性質でもなければ収穫量の分與の意味もない。通貨の貸主は、通貨を貸與することによりその價値が劣化することはなく、通貨を所持してゐるだけで収穫が図れる譯でもない。

個別觀察貨幣の見地においても、通貨が不動産のみに特化して對應してゐるものでもない。また、貨幣總額の見地からしても、全體的には價値減少する特徴のある流通財の性質からして、流通財と運命を共にする通貨だけを特別扱ひすることはできない。


では、利子を禁止する理由についてであるが、大きく分けて三つある。一つは歴史的理由、二つ目は理論的理由、三つ目は政策的理由である。


まづ、歴史的理由としては、キリスト教(カソリック)やイスラム教における利子の禁止の思想である。これは、お金がお金を生むことを生業にすることが社會規範を亂すとする教へである。今日的にも、金融資本主義が暴走して拜金思想を蔓延させてゐる元凶であると看破したことは先見の明と言へる。しかし、單に、道德や心構へを説いてこれを防止できるものではない。すべては利子を禁止する社會の規範認識を形成することであり、それには、以下の理論的理由と政策的理由に基づく必要がある。


では、理論的理由とは何か。それは、これまで述べてきたとほり、國富本位制から當然に導かれる論理であるといふことにある。利子を認めることは、流通財自體は全體として永續性がなく自己增殖しないのに、それを表象する通貨が自己增殖することになれば、流通財の價値總量と通貨總量の對應關係が破壞されるためである。


次は、政策的理由であるが、これは多岐に亘る。まづ、利子の禁止により、貯蓄の認識に變化を生じさせることができる。通貨を保有して貯蓄し續けるよりも、生活必需品などの流通財を備蓄する方向へと向かふことになるからである。特に、籾米の備蓄へと貯蓄性向を刺激することになる。富の認識が、通貨の貯蓄量の大きさではなく、流通財、特に生活必需品の備蓄量の大きさで實感することになる。間もなく到來する世界的に食料難に向けて、健全な危機意識を持てば、自づとその方向へ向かふ。前に述べたが、誰も享保の飢饉で百兩の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人にはなりたくないからである。

付言するに、籾米の備蓄は、備蓄されずに流通して消費される流通米を一定に保つ調整機能を果たすことになる。豐作と凶作の變動があつても、備蓄米の量を調整することで米價を一定に保たせ、米價を物價基準にすることができるといふ利點がある。


また、利子の禁止によつて、貯蓄通貨の流動性が高まることである。通貨の流動性が高まることは、流通財の側面から言つても流動性が高まることになり、内需を擴大させることになる。内需の擴大によつて、新たな雇用を創出し、國内供給力を高めるのである。

さらに、流通財の使用價値とその效用、效率を見直することになり、大量消費、大量廢棄の生活を改善させることができる。奢侈で過剰な消費と無駄で過剰な生産を抑制することができる。これによる消費の冷え込みを批判する者が居ると思はれるが、このやうな冷え込みは、むしろ望ましいことである。つまり、過剰生産と過剰消費に支へられた經濟と、その擴大が經濟成長であるとするGDP至上主義は、資源の無駄遣ひを推し進めるものであるから、一日も早く退場させなければならないのである。

そして、利子の禁止によつて、豫定調和か「見えざる手」のやうに、自づと自給自足體制へと志向して行くことになる。そして、家産の形成を促進するとともに、人々に人生の價値觀を確立し、家族生活の將來設計を可能ならしめ、生きる希望と目標を與へることになる。

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