國體護持總論
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著書紹介

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自立再生社會の諸制度

世界各國が國富本位制を採用して利子の禁止と通貨保有税を實施し、國際社會が金塊本位制と固定相場制による經濟秩序を再構築すれば、世界は、自給率を向上させる國際協調による公正な競爭社會となつて平和を實現する。

FRBを頂點とする一握りの者による國際金融支配から脱却しなければ、世界の人々の平和で豐かな生活を實現することはできない。そのためには、各國の壓倒的多數の人々の政治參加によつて、中央銀行に奪取されてきた通貨發行權を國家に取り戻させ、中央銀行と金融爲替市場を廢止させるなどの法制度を、政治の世界において實現させることが必要になる。この政治的變革によつて、必ず賭博經濟を終焉させることができるのである。


これにより、各國は、自給力を強め自給率を高めて自國の國富を大きくするために、樣々な政策を打ち出し、諸制度を整備することになる。

合理主義、個人主義から脱却して、本能主義、家族主義へと轉換し、個人が財産權の主體となる私的所有制(私産制)から、家族がその主體となる家族所有制(家産制)へと移行する。

家族は、生活必需品を自給するための自給地、自給設備などの家産を取得し、食料などの自給自足生活を目指して協同する。

掛け聲や精神論だけの家族主義ではなく、家産の協同管理によつて自づと家族の絆が深まるのである。家産制度は、家族制度の再構築と、祭祀の道の實踐にとつて不可欠な制度なのである。


家産制度については、その基底となる親族法、相續法の家族法制や相續税制の改正が必要となるが、その概要について素描してみたい。

まづ、個人所有が否定されるので、遺産相續はなくなる。相續放棄も遺産分割もなくなる。そして、家産の代表管理者(家長)制度を設けて、家長の資格要件、喪失要件、家族全員(家人全員)を管理者とする家族會議(管理會議、family council)などの詳細な規定と、分家制度と復家制度を定めることになる。

分家制度とは、家族構成の變更や家産の状況などから、大家族の一部が本家と別れて家産を營む場合の制度であり、復家制度とは、その逆に、分家した家族などが本家に復歸又は歸屬する場合の制度である。前者は會社分割、後者は合併に類似した現象である。


個人所有がなくなるので、遺産分割で紛爭が起こることはない。遺産分割により家産が自立再生機能を失つて切り賣りされることもない。戲け者(田分け者)を見ることもなくなる。

そもそも、家産であることを理解すれば個人所有に拘る必要はない。すべては「家族の自治」で解決できる。身の回りのものや個人とつて精神的な價値があるものなどについては、家族會議で協議し、終身その貸與を受け(終身貸與)、あるいは一定限度と範囲の家族所有の流通財についてその處分權を授與(限定的處分權の授與)してもらふ内容などの「家法」を定めればよい。國家と家族とはフラクタルな關係であり、國家の自治は家族の自治の雛形だからである。

物を大切にする心は、個人所有からは生まれない。すべては「授かり物」であり、自分が手にしてゐるものが御先祖のお陰によるものであつて、それが家族の財産であり、國家の財産でもあるとする意識から始まるのである。


ところで、これまでの個人所有を否定して、家族といふ法人所有に移行させる方法については、まづ、これまでの個人單位の戸籍制度を家族法人單位の戸籍制度に改編する必要がある。そもそも、戸籍といふ言葉からして、戸(家)に屬する家人(家族構成員)の名籍(名前、生年月日、續柄などの台帳)なのであるから、戸籍の元に意味に戻るだけである。ここで家人の範囲が決まる。戸籍が家族法人登記を意味し、戸籍の登載によつて家族法人は成立する。そこで、家人が所有していた積極財産、消極財産のすべてが家族法人に當然に歸屬するものとし、登記、登録の制度がある財産については、その旨の登記がなされて完了する。分家や復家も戸籍の變更によつて行はれ、家人が移動することなる。


家産は家族といふ法人の所有であり、家長の單獨所有ではないので、家長の死亡による家族の代表者の變更(家長の變更)に過ぎないので相續税が賦課されないのは當然であるが、家産を形成しない財産については相續税(家長承繼税)は賦課される。このことは企業の場合も同樣(代表者承繼税)である。ただし、家長や代表者の死亡以外の理由による變更(交替)の場合は課税されない。


企業の場合は、代表者の變更については會社法等の守備範囲であるが、企業の財産は、企業そのものの所有であるから、株主といふ不勞所得者の判斷に左右されない。企業の經營は、その就勞者が貢献度に從つて協議決定すればよく、株式制度は早晩廢止される。資本金を構成する株式は、その保有者が企業の損失補填をしない性質のものであることから、通貨保有税の對象となる貸金として評價される。株式も社債も借入金も、すべて通貨保有税の對象となる。


ところで、家族でも企業でも、家産に課税して家産を縮小させるのは、家産制度の根本を危うくするが、その他の財産(流通財)に對して、死亡による家長や代表者の承繼に際して相續税類似の家長承繼税や代表者承繼税を課税をするのは、所得の再配分の見地からである。課税される家族や企業が保有する家産以外の流通財は、家産になりうるものとさうでないものとがあり、將來において家産とする準備中のものもあるに違ひない。しかし、もし、家族財産のうち、家産以外の一般家族財産が膨大であるときは、そのやうな富が獨占されてゐることによつて他の家族の家産形成が妨げられてゐることになる。そして、これの徴税方法を物納にすれば、他の多くの家族に再分配(有償譲渡)して家産を形成する機會を與へることができる。過度な累進課税にする必要はないが、少しでも多くの家族がそれぞれの身の丈に合つた自給自足生活を實現させることが國家の理想である。すべての家族の家産形成の機會は保障され、形成された家産は保護されるべきである。

「起きて半畳、寝て一畳、天下取つても二合半」と言ふが、身の丈を越えた過大な財産を獨占することは、必ずしも家族の幸せには結びつかない。祖法に照らしても、「長者の脛(ハギ)に味噌を付ける」必要はない。「長者、富に飽かず」と言ふが、「大欲は無欲に似たり」の喩への如く、欲で身を滅ぼす家族を出すやうな社會であつてはならないのである。


財政と税務の改革も必要となる。国家の財政把握について、複式簿記が採用されてゐないのは、驚くべき怠慢である。それゆゑ、まづ、國家と中央銀行の財務處理に關して、複式簿記を早期に導入し、國家と中央銀行との正確な連結財務諸表を作成公開させて精密に檢證することが急務である。これは、政府と中央銀行の合併、中央銀行の廢止その他の方針を決定するために必要な作業となる。

そして、複式簿記が導入されるといふことは、これまでの單年度主義會計を廢止し、一般會計と特別會計を合體して、すべてを審査對象とする繼續度主義會計にすることである。これには、帝國憲法の改正が必要となる。


これにより、これまでの官僚利權の温床である特別會計にメスを入れれば、官僚利權は消滅する。そして、故意又は重大な過失で國家に損害を與へた公務員に對して、民間の場合と同じやうにその公務員に國家に對する損害賠償義務を課す特別法を制定して實施すれば、假に、それ以外の種々の改革が遲延しても、公務員制度改革は大きく前進する。さうすれば、官僚が國家を食ひ物にしてきた不正支配を一擧に壞滅させることができるのであり、財政の健全化が図られ、基礎的財政収支(primary balance)は改善し正常化に至るのである。


また、通貨制度と租税制度の一體化を圖るための豫定申告と確定申告による申告制度を創設する必要がある。これは、通貨總量を算出するための基礎資料となるのと同時に、納税手續を兼ねるからである。これまでは個人單位であつた複雜で膨大な申告制度を統一し、その申告件數は家産單位になることから、申告件數は激減し、處理の事務量も大幅に軽減される。そして、政府紙幣に通し番号を付せば、電磁的技術によつて通貨流通の追跡調査と統計資料の取得を可能とする。


次に、家族の構成員の行つた行爲は、原則として、すべて家族の行爲と看做され、すべての法律関係は、その家族(法人)に歸屬する。ただし、刑事責任などにおいて、財産的制裁(罰金、科料など)以外はその行爲者個人が負ふ。財産的制裁は、家族の代位責任となる。

そして、これまで認められてきた個人の破産と免責は存在しなくなる。また、家族(家産)の破産と免責の制度は認められない。家族は、代々に亘つて無限責任を負擔する。企業についても同樣である。それが家産制度であり、この代位責任の導入こそが、社會秩序の維持と家族の絆を強化することになる。


民度を高め、治安を維持して犯罪を防止するためには、まづは教育の改革が必要となる。家産による食料その他生活必需品を生産するための技術を習得されることが基本となる。そこから、自然の惠みと祖先の知惠と勞苦に感謝する心が養はれる。自然に接し、作物を育て、物を生み出し、知惠と努力によつて食料を得ることを經驗すれば、人間の持つ生命力と本能を鍛へることができる。さうすれば、社會の秩序を維持して自らを研鑽することの大切さが理解でき、人に必要な德目を理解して實踐することができる。

從つて、犯罪受刑者に對しても、家産形成と家産による自給の技術を訓練させて、社會復歸、家族復歸を果たさせることが重要で、これが再犯をなくし再犯率を激減させることに繋がる。刑務所は、統制のとれた優良な職業訓練所であると同時に家産形成を指導する教育機關となり、受刑者の勞働による獨立採算制を導入して運營される。單に罰則強化をしたところで、社會教育や家庭教育が荒廢してゐれば犯罪抑止にも再犯防止にもつながらないからである。


このやうにして、法制と税制の改正がなされれば、通貨の貯蓄から食料の備蓄への經濟動向が生まれ、利子の禁止と通貨保有税の導入によつて、通貨の流動性が高まつて内需が擴大する。これにより、僅かな政府支出による以上の大きな乘數效果が生まれる。政府は、家産形成の優遇措置と、家産制度による自給自足促進の法制と税制を整備するだけで、後は、家産形成と生産活動に勵む家族の活動を見守ればよいのである。


經濟成長をGDPの伸び率で測定する時代は終はつた。これまで、企業の自家消費分を機會費用(opportunity cost)としてGDPの計算に入れてゐたとしても、消費主體の家計(家族)が自家生産して自家消費することまでは參入されない。たとへば、第一次産業に分類される活動をする家族が、自らが生産し、あるいは漁獲した物などを常に自家消費するだけで、外に出荷しないときは、企業として認定されないから、その自家生産分(自家消費分)はGDPには參入されない。さうすると、このやうな自作家族が增加すればするほど、同じ經濟規模であつたとしても、GDPは低くなる。しかし、これは健全な方向なのである。これこそが經濟成長として認識されるべきなのである。

GDPの數値は、分業體制が深化すればするほど大きくなる。たとへば、自分で歩いて買ひ物をすれば濟むものを、わざわざ委託業者に依賴してタクシーを使はせて買ひ物をさせたとする。同じ物しか得られないが、業者に支拂ふ手數料とタクシー代金を拂ふことだけで時間と手間が省けるなどと怠け者の論理で分業を進めて行けば行くほどGDPは增える。つまり、委託業者に支払ふ手數料とタクシー運轉手に支払ふタクシー代金の費用が加算されてGDPが增えるのである。

また、無駄をすればするほどGDPは大きくなる。たとへば、更地に建物を建築し、それを直ぐに解體し、さらにまた新しいも建物を建築したものをまた解體して更地に戻したとする。結局は更地のままになるので、何もしなければよい。何もしなければGDPは增えない。しかし、こんな無駄をすると、二回分の建築費用と二回分の解體費用がかかり、その支出がすべてGDPに加算されて、GDPは膨れ上がる。

何もしなければ流通財の價値に增減はないが、こんな無駄をすれば、多くの流通財が滅失、消費されて經濟的損失を被つてゐる。ストックの視點で見れば、無駄をすれば大きな損失を出し、評價としてはマイナスである。ところが、GDPといふフローの視點で見れば、損失のすべてをブラスに捉へるのである。このからくりは、マイナス(-)を絶對値(absolute value)で認識してプラス(+)にするからである。これは、「得は得、損も得」とするペテン師の論理である。そんなものが經濟規模や經濟成長の基準であると僞つて、その規模と延びに顯を抜かすこと自體が噴飯ものである。


このやうに、GDP至上主義者は、企業は生産者、家計は消費者といふ二分法で分業體制が深化すればするほどGDPが延びることから、それに拍車を掛けるために、過剰消費と無駄遣ひを煽る。不道德極まりないことである。經濟學者らの中で、質素檢約を奬勵して人の道を説く人を見たことがない。居たとすればそれは僞善者である。經濟學者は、すべて背德の人達であると言つて過言ではない。人々が今後の經濟の不安を抱いてゐることを逆手に取つて、現在的な經濟問題の解決策やそのための新しい理論や政策を教へてあげるなどして講演や出版などで講釋するものの、これまでの埃にまみれた陳腐な知識在庫の中から不良品の理論を取り出して來て、それを角度を變へて見せびらかしたり、ジャーゴン(jargon)の呪文を唱へて誤魔化すだけで、何らの解決策も示せない。羊頭狗肉どころか、羊頭を掲げて何も賣らない(賣れない)のである。人の不安に託けて人心を惑はして商賣を續ける。經濟學は、まさに「不安産業」の業者が人を騙すための道具(tool)と化してしまつたのである。


このやうな人達の言葉に騙されてはならない。一刻も早く分業體制に歯止めを掛け、「社會分業」から「家族分擔」へと向かへば、親孝行までも他人任せにして分業することから生ずる医療、介護、福祉などの樣々な問題は一擧に解消へと向かふ。また、家産制度を確立させ、それぞれの家族が自給力を付け、自給率を高めて行けば、それが積算されて國家の自給力と自給率を高めることなる。さうすれば、家産を利用した家族勞働よつて生産が向上し、雇用問題や失業問題を徐々に解決する糸口が見いだせることになるのである。

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