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ルソーの正体とその影響

この思想的政治的潮流の源泉となつたのが、ホッブスやロックを受け継いで徹底させたのがルソーの思想である。ルソーは、『社会契約論(民約論)』(1762)を書き、その理論の教育的展開として同年に『エミール』を著した。『エミール』が革命前に広く読まれたが、『社会契約論』は革命前にはほとんど読まれなかつたものの、革命後にこれを忠実に実践したのがロベスピエール率ゐるジャコバン党であり、ロベスピエールは、最も急進的に独裁的恐怖政治を暴力的に強行した。  そして、カール・マルクスとその共産主義思想もまたルソー思想の派生であり、その後のロシア革命(1917)を率ゐたレーニンとその後継であるスターリンらもまたルソーの思想に染まつてゐるのである。

バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命についての省察』(1790)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、1789年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判した。

そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子5人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾した。また、イボリット・テーヌは、「ルソーは、奇妙、風変りで、しかも並すぐれた人間であったが、子供のときから狂気の芽生えを心中に蔵し最後にはまったくの狂人となっている」「感覚、感情、幻想があまりにも強すぎ、見事ではあるが平衡を失した精神の所有者であった」と評価した。

このルソーの人格の著しい歪みと人格の二重性は、ルソーが重度の精神分裂症と偏執病(パラノイア)であつたことによるものであり、犬猫の仔が親に棄てられても立派に育つので人間の子供も同じにするとのルソーの信念は、11歳から16歳にかけて親のない浮浪児であつたために窃盗で生活してきたことの経験からくる怨念による転嫁報復の実行であつたらう。

いづれにせよ、ルソーの歪んだ人格から生まれた思想は、ホッブスの考へを更に発展させた社会契約説である。これは、私的な利害を持つ個々の人民の意志の総和(全体意志)ではなく、個々の人民の私的な利害を超えた公けの利益を目指す意志(一般意志)に基づく一体としての人民がなした社会契約に基づくものとし、一般意志の行使が主権であり、一般意志は主権の作用の基礎とするのである。そして、「政治体または主権者は、その存在を社会契約の神聖さからのみ引き出す」として、社会契約は「神聖」なものとするのであるが、ここにそもそも論理破綻がある。まづ、私的利害の総体である全体意志から抽出されるはずの一般意志がなにゆゑに「公的」な性質に転化するのか、ましてや、それがなにゆゑに「神聖」なのかといふ素朴な疑問について何も説明されてゐない。否、できないのである。

多数決原理は、「数の多さ」は「質の高さ」を推認させるとの仮説によつて支へられてゐるものであつて、全体意志から抽出される一般意志であつても、その数の多さは共通した私欲の数の指標でもあり、決して質の高さの指標ではない。前述の10人と90人とのそれぞれの人格を比較したとき、数の力で10人を抹殺しようとする90人の意志のどこが「神聖」なのか。ましてや、仮に、数の多さが質の高さを導くものとしても、それが最高の質を意味する「神聖」であると断定することは論理の飛躍も甚だしい。つまり、ルソーは、その狂つた思考過程により、「一般意志」を「神の意志」とし、神の意志を体現した「主権」は、「絶対」、「最高」、「無制限」であるとする一神教を創り出し、その教祖におさまり、人民全体を有無を言はせずに強制的に信者とし、絶対服従を強要した。それゆゑ、ルソーの言ふ「市民的自由」とは、主権に基づいて付託された「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死ななければならぬ」「市民の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの賜物なのだ」と言ひ切るのであるから、「奴隷の自由」といふパラドックスにより、結果的には、自由はないとするのである。これがルソーの狂つた思想の正体なのであるが、このことを我が国で知る人は少ない。

このやうなおぞましいルソーの思想は、我が国以外では概ね否定され、その思想からの脱却がなされてゐる。ところが、我が国では、明治中期に中江兆民がルソーの『社会契約論(民約論)』を翻訳して解説を加へた『民約訳解』を著し、これが急進的な自由民権運動の理論的指導書となつたのである。中江兆民は、晩年になつて、ロシアとの開戦を主張する近衛篤麿が主唱する「国民同盟会」に参加して懺悔改心し、ルソー教から離脱しようとしたものの、それは時すでに遅しの感があつた。また、戦後においても桑原武夫が『ルソー研究』などでルソーを好意的に評価したために、ルソー教の信者(患者)が再び多く出現した。その中で最も影響力のあつたのは、ルソー思想に基づいて造られた占領憲法を支持し、我が国の憲法学界を「ジャコバンの群れ」にした変節学者の宮沢俊義である。そして、今もなほ、これと同じやうなルソー教の信者(患者)は法曹界に多く蔓延し、その影響を受けてゐる者は多い。

しかし、世界は、むき出しの法実証主義からも主権論からも脱却して、君主制国家も共和制国家も、そのそれぞれの歴史伝統を重視する傾向にある。そして、我が国においても、やうやく国家の中心を皇統に見出し、歴史伝統に回帰する兆しが徐々にではあるか出始めてゐるのである。

伝統国家と革命国家

國體の内容は一律ではなく、その国家の成り立ちと性質によつてそれぞれ異にするものであつて、君主制国家のみに國體があるのではなく、共和制国家にもその成り立ちと性質と伝統に根ざした國體が存在するのである。

そのため、国家の種類と性質を分類するについて、君主制、貴族制、共和制などに分類する方法があるが、これは、統治態様による分類であつて、このやうな分類は、今ではさほど有用とは思はれない。それよりも、國體の視点から、國體の継続及び存在を肯定する国家(伝統国家)とこれらを否定する国家(革命国家)とに分類することの方が、国家の連続性の有無を判断するについて有用である。

革命国家は、例外的なものであつて、革命国家でなければ伝統国家であることになる。そして、革命国家の性質は、その国家成立の契機となつた「革命」の性質を検討することによつて明らかとなるはずである。

ロベスピエールが言ふやうに、「新しい人間からなる、新しい国」として、それまでの国家との連続性を断ち、それまで存在した國體を否定して全く新たに成立した国家を革命国家と定義したとしても、その「革命」の在り方によつてその革命国家の性質は一律ではない。つまり、革命国家と言つても、その革命前と革命後の比較において、それまでの國體との断絶が完全なもの(真正革命国家)と、それまでの國體の一部については承継され残部については断絶するもの(不真正革命国家)とに分けられるが、さらに、この不真正革命国家の態様は千差万別のものがある。

すなはち、不真正革命国家とは、たとへば、君主制国家の革命において、その國體のうち、君主の地位と辨へ(分限)の世襲といふ点については否定され断絶された上で共和制国家となりあるいは新たな君主制国家となつても、臣民の保有する財産や社会的地位と辨へ(分限)の世襲(相続)といふ点については従来通りの状態が承継することが認められる場合(フランス革命、アメリカの独立、支那の易性革命など)、あるいは君主の地位と辨へ(分限)の世襲といふ点については承継されたが、人民の地位と辨へ(分限)の世襲(相続)が否定される場合(大化の改新による公地公民制の律令国家体制など)であるから、國體の一部が承継される点において伝統国家の側面を有し、また、残部については断絶する点において革命国家の側面を有することになる。

これに対し、真正革命国家とは、たとへば、君主制国家の革命において、君主の地位と辨への世襲も人民の地位と辨への世襲(相続)も一切否定される場合(ロシア革命、中共革命など)であるから、まさしく真正革命国家なのである。

ところで、一般的に「革命」といふ言葉は、憲法レベルにおいて主権論による定義を用ゐるとすれば、憲法制定権力(主権)の帰属主体が変更された結果として憲法が変更される現象を意味するとされる。しかし、それは当該国家の対外的独立(不可侵状態)を維持してゐることを前提要件としてをり、あくまでも、国家内の「自律的変革」を意味するので、外部的権力によつて侵害されてゐる状態(征服状態)における「他律的変革」を意味しない。ところが、國體承継の有無及びその態様と程度を問題とする限り、自律的変革の「革命」の場合と他律的変革の「征服」の場合の区別はさほど有用なものでなくなるのである。

この基準によれば、我が国の明治維新や英国の名誉革命は、原則として國體の承継が維持された点において、「真正革命」とは対極にある「非革命」であつて、特に、明治維新においては、それを推進した武士階級が自らその既得権を放棄ないしは剥奪したといふ希有な改革であつたことが浮き彫りになつてくる。また、大東亜戦争敗戦後のGHQによる完全直接軍事占領下の改革は、原則的かつ制度的に國體の承継が維持された点において、「非革命(非征服)」といふことになるが、皇位の世襲は維持されたものの、正統皇室典範の廃止、宮家の解体、占領皇室典範の強制などの著しい制限が加へられ、また、臣民の地位と辨への世襲(相続)についても農地改革、財閥解体、極度の累進課税による高額相続の実質的否定などの著しい制限が加へられたことから、実質的には「真正征服」に限りなく近いのではないかとの評価も可能である。

といふのも、農地改革及び財閥解体は急進的な共産主義政策の断行であり、また、過度の累進課税による高額相続の実質的否定についても、これらは、まさに、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に明記されてゐる共産化のための10の方策のうちに含まれてゐた重要方策だつたからである。

すなはち、『共産党宣言』によれば、その諸方策とは、「①土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。②強度の累進税。③相続権の廃止。・・・」とされてをり、②の「強度の累進税」は、①と③の目的のために存在する手段たる政策であると位置付けられてゐた。そして、GHQの占領下において朝鮮戦争が勃発し、いはゆる東西冷戦構造が生まれ、サンフランシスコ講和条約と旧日米安全保障条約によつて資本主義の西側陣営に組み込まれた我が国は、その赤化を防止し、共産主義勢力の伸張を阻止しようとするアメリカなどの西側陣営の強い要請を受けて、「修正資本主義」による立法と政策が実施され、共産党宣言の方策を先取りして採用することになつた。つまり、資本主義から生ずる矛盾を緩和し、富の偏在からくる国民の不満を共産主義勢力拡大の口実とさせないために、そして、西側陣営の経済的な要である我が国に共産革命やこれに準ずる暴動、政治的不安定による経済的混乱を起させないために、富の平準化を短絡的に実現しうる様々な施策として、資産家を生け贄としてその高額相続を実質的に否定する強度の累進税制度といふ社会主義的施策を推進してきたのである。その税制における施策の中心が、「強度の累進税」の採用であつた。我が国は、共産主義の施策を採用した西側陣営の堡塁に仕立て上げられた。そして、その堡塁が強固であつたことと、国際経済の強力な牽引力を持ち続けたことが、冷戦構造の崩壊へと導いた。このことは、ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日の際、共産主義が世界で唯一成功した国が我が国であると褒め称へたことからも、東側から見た国際政治分析として正鵠を得てゐたものとされてゐる。ところが、冷戦構造の崩壊によつて共産革命の危惧がなくなつたにもかかはらず、我が国は未だに70パーセントといふ相続税の最高税率の引き下げがなされないまま今日に至つてゐる。これは、高額相続を悪とし、最終的には相続自体を否定する共産主義思想が政策として依然存続してゐることを意味するのである。

國體の規範的根拠

ともあれ、これまでの論述からして、国家の性質が君主制か共和制かを問はず、それぞれの国家特有の國體の具体的内容がどのやうなものであつたとしても、その共通した規範的根拠としては、「法の支配(國體の支配)の法理」及び「世襲(相続)の法理」が存在することになる。

このうち、法の支配(國體の支配)の法理については前に詳述したが、ここでは、「法の支配」と「法治主義」との相違について述べたい。「法の支配」の概念用語は英国から生まれたが、この法理は、言挙げしない我が国の古来から伝はる美意識の原理でもある。これに対し、ドイツで生まれた「法治主義」の概念は、法律によつて行政、司法の権力の行使を限定し支配する原理であつて、立法を制限し支配する原理でない点において「法の支配」と本質的に異なる。「法治主義」においては、「悪法もまた法なり。」であり、「法の支配」においては、「悪法は無効なり。」である。

次に、世襲(相続)の法理について少し敷衍すると、これは、およそ全世界のあらゆる地域において、歴史的にも確立された公理であることは誰も否定できないものである。

世界の一地方で、その限定された一時期だけ私有財産制を否定する手段として世襲(相続)を否定し、その後も私有財産制を否定し続けた事例は僅少あつても、しかも、それには普遍性がない。

それゆゑ、世襲(相続)の法理は、君主制国家での君主の地位と辨へ(分限)において、また、君主制国家または共和制国家での臣民(国民)の地位と辨へ(分限)において、いづれも伝統的、歴史的な公理としての國體の一要素を形成してゐることに疑ひはない。

そして、さらに、これに勝るとも劣らない國體の規範的根拠がある。それは、「時効の法理」である。バークは言ふ。「英国憲法は時効の憲法である。その唯一の権威は、それが時代を超えて長年にわたって継続してきた、という点に尽きる。」「英国の政府のような時効的存在は、絶対に、ある特定の立法者が制定したものでもないし、既成の理論に基づいてつくられたものでもない。」と。

この「時効の法理」といふのは、その具体的な内容については多様性があるものの、ローマ法以来すべての成文立法例に認められてきたものである。一般的に「時効」とは、一定の事実状態が一定の期間中継続したことにより、法律上一定の効果、すなはち権利の取得、権利又は義務の消滅を生ぜしめる法律要件ないしは証拠方法であるとされてゐる。この時効制度の存在理由としては、社会秩序の維持、権利不行使の懲罰性、挙証の困難さの救済、真実合致性の推定など様々なものが指摘されてゐるが、このやうに多彩な理由が挙げられるのも、この法理が歴史的、伝統的な公理であることの証左でもある。そして、この時効の規定の適用については、当事者の意思にかかはらず適用される強行法規とされてゐるのであつて、その制度は強固なものとなつてゐるのである。

それゆゑ、この「時効の法理」を國體に関して適用すれば、いにしへより歴史的、伝統的に確立して運用されてきた諸制度に対する事後的改革又は廃止は、この「時効」を理由に禁止されるといふことである。このことが「時効の法理」の核心理論である。また、この「時効の法理」もまた歴史的、伝統的に確立して運用されてきた制度であるから、これもまた「時効」を理由に事後的改革又は廃止が禁止されるといふことである。

これにより、世襲(相続)の法理、法の支配(國體の支配)の法理、時効の法理は、それぞれが独自に「公理」としての規範性を有するのみならず、これらすべてについて時効の法理によつてもさらに規範性は強化される。ここでいふ「公理」とは、数学、論理学、哲学などの科学分野において、証明不可能であるとしても、証明を必要とせず直接に自明の真理として承認され、他の公式、原理、法理などの命題の前提となる根本命題とされてゐるものである。つまり、世襲(相続)の法理、法の支配(國體の支配)の法理、時効の法理がいづれも「公理」であるといふことは、それぞれこれらが真実であることの証明責任が免除され証明不要とされてをり、その意味からしても真実であることが確定したことになる。

よつて、それぞれの国家ごとの國體の具体的な内容を吟味するまでもなく、一般に國體の規範的根拠は証明されたことになるのである。

そして、我が国の國體は、天壌無窮の御神勅に示された民族の理念である、惟神の道、万世一系の皇統連綿、皇位の世襲、國體の支配、君臣の辨へに加へ、臣民の家系的地位と辨への相続、君が代、日の丸、やまとことのはにより表現される文化総体である。

伊藤博文の「憲法義解」によれば、「天地剖判シテ神聖位ヲ正ス」「其天皇ハ天縦惟神至聖ニシテ臣民群類ノ表ニ在リ」「恭テ接スルニ神祖開国以来時ニ盛衰アリト雖、世ニ治乱アリト雖、皇統一系宝祚ノ隆ハ天地ト与ニ窮リナシ本条首メニ立国ノ大義ヲ掲ケ我カ日本帝国ハ一系ノ皇統ト相依テ終始シ古今永遠ニ亘リテ一アリテ二ナク常アリテ変ナキコトヲ示シ以テ君民ノ関係ヲ万世ニ昭カニス」とあり、さらに、「皇室典範義解」によれば「祖宗国ヲ肇メ一系相承ケ天壌ト与ニ無窮ニ垂ル此レ言説ヲ仮ラスシテ既ニ一定ノ模範アリ以テ不易ノ規準タルニ因ルニ非サルハナシ」「恭テ接スルニ皇位ノ継承ハ祖宗以来明訓アリ。和気清麻呂還奏ノ言ニ曰、我国家開闢以来、君臣分矣、以臣為君未不有也天之日嗣必立皇緒ト」あることから、これらの國體が「不易ノ規準」であることは疑ひの余地すらなく、前述の規範的根拠により、皇統護持、國體護持には明らかに法的根拠を有することが証明されたのである。

これに関連して附言すれば、国旗及び国歌に関する法律(平成11年8月13日法律第号127)第1条第1項に「国旗は、日章旗とする。」とあり、同第2条第1項「国歌は、君が代とする。」とあるが、この表現は、「確認立法」ではなく「創設立法」の表現である。国旗は日の丸、国歌は君が代と古くから國體の内容として決まつてゐたのだから、この法律でそのことを確認すれば足りるのである。「・・・とする。」とは、「(この法律によつて)・・・とする。」といふ意味で、この法律によつて初めて決められた(創られた)ことになる。本来ならば、「・・・とする。」ではなく、「・・・である。」とすべきであつた。つまり、「(この法律で決める以前に)・・・である。」といふ確認的な意味とすべきであつた。ことからして、我が国は、國體に属する君が代、日の丸の認識において、未だ実証法学的な法治主義から抜け出せてゐないと言へるのである。

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