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トップページ > 各種論文目次 > H17.01.17 國體護持:革命考3(続き)

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國體護持の危機的情況

「悠遠の昔から国民に其の首長を供給する特権を保有してきた一定の王朝の統治以外には、如何なるものの統治にも進んでは之に服従することを潔よしとしない国民がある。」と英国のジョン・スチュアート・ミルは、その『代議政体論』で述べてゐる。これは、戦前における我が国の臣民意識について指摘したものであつたが、大東亜戦争敗戦後の我が国がGHQの直接統治下におかれたとき、美徳を重んじるがゆゑに恥辱と共に生きることを峻拒した人々の自決が相次いだものの、GHQに対する抵抗運動や独立闘争を継続する人々もなく、大多数の臣民がGHQの「統治に進んで之に服従」し、あるいは抵抗することなく服従した臣民によつて、帝國憲法と正統皇室典範(正統典範)を廃止し、現行憲法(占領憲法)と現行皇室典範(占領典範)を制定したことからすれば、ミルの指摘は買ひ被りであつて正鵠を得たものではなかつた。

つまり、敗戦後の我が国は、GHQの占領政策によつて、確かにルソー系の実証法主義的見地からは、帝國憲法が形式的に改正されて現行憲法が制定され、さらに、正統皇室典範(正統典範)が廃止されて皇室弾圧法としての現行皇室典範(占領典範)が制定されて、象徴天皇制といふ傀儡天皇制の運用がなされてきたものの、この占領憲法と占領典範といふ我が国の歴史と伝統とは相容れない二つの「異体」は、戦後60年を経て一気にその矛盾が吹き出し、國體の免疫機能からこの二つの異体の定着を排除しようとする拒絶反応が顕著に出はじめたのである。そして、徐々にではあるが、戦前の高貴な精神世界の回復に向かつて動きつつあり、この占領憲法と占領典範といふ二つの異体についても、早晩、我が國體の持つ復元力によつて必ず淘汰されるはずである。

このやうな事例は、神話に煙る悠遠の昔から今日までの我が国の歴史において決して希有なことではなかつた。現行憲法(占領憲法)は、律令時代における公地公民制(班田収受制)に相似し、また、占領典範は、いはば江戸時代における「禁中並公家諸法度」と「禁裏御所御定八箇条」に比肩されるからである。つまり、班田収受制については三世一身法(723)と墾田永代私財の法(751)で完全に崩壊するまでに105年間、「禁中並公家諸法度」と「禁裏御所御定八箇条」については寛永6年(1794)に光格天皇によつて尊皇討幕の綸旨の民に下されるまで約180年間の歳月を要したものの、我が國體の持つ復元力によつて淘汰されてきたからである。

このやうに、我が國體からして「異体」の法制度は國體護持の妨げとなる危機ではあるが、國體の復元力によつて早晩破棄されて再生しうる。しかし、最大の危機は、むしろ中心からの崩壊であり、その空洞化、虚無化である。外患に対する防衛措置も当然必要であるが、それ以上の危機的な内憂に立ち向かはなければならない。

先帝陛下の昭和21年元旦の「新日本建設に関する詔書」には、「朕ト爾等國民トノ間ノ組帶ハ終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ天皇ヲ以テ現御神トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。」とあり、これを以て「人間宣言」であると政治的に喧伝されたことよりも、今上陛下が、平成2年11月12日、即位の礼の際でのご発言に、「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」とあり、「日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しました」と「日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い」といふ部分の方が、より強い危機感を抱くことを禁じえなかつた。それは、前者を人間天皇による「人間宣言」とするならば、後者は傀儡天皇による「傀儡宣言」といふべきものだからである。

また、皇太子殿下である徳仁親王殿下が平成5年6月9日に雅子妃殿下とご成婚されるに先立つて、ご成約発表の際の記者会見において、「雅子さんのことは、僕が一生、全力でお守りします。」と約束して雅子妃殿下に求婚されたと知らされたときも、その内容に漠然とした憂鬱を感じてゐたところ、その丁度2年目に当たる平成7年6月9日には衆議院において謝罪決議が強行された。村山内閣は、今上陛下(当時皇太子)の天長節にA級戦犯として7名の死刑執行をしたGHQと同じ手法を用ゐるたのである。

皇太子殿下は、平成16年5月10日、外国ご訪問前の記者会見において、「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。」といふ「人格否定発言」をなされ、それが波紋を呼ぶと、同年6月8日、皇太子殿下のご説明文書により、「(人格否定発言の)記者会見以降、これまで外国訪問ができない状態が続いたことや、いわゆるお世継ぎ問題について過度に注目が集まっているように感じます。しかし、もちろんそれだけではなく、伝統やしきたり、プレスへの対応等々、皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、たいへんな努力が必要でした。私は、これから雅子には、本当の自信と、生き生きとした活力をもって、その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動をおこなってほしいと思っていますし、そのような環境づくりがいちばん大切と考えています。」と釈明されたものの、同年11月25日の秋篠宮文仁親王殿下のお誕生日に際しての記者会見において、同殿下は、この人格否定発言について、「少なくとも記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います。」といふ「残念発言」が続き、同年12月23日の天長節において、宮内記者会の質問に対し、天皇陛下は、「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、まだ私に十分に理解しきれぬところがあり、こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。」と文書でご回答された。

これら一連の発端は、雅子皇太子妃殿下の「適応障害」といふ、理解と判別が凡人では困難な御不例にあることは承知してゐるが、頻繁に私的な外出をなされ、また、外国王室関係者との接見と会食が頻繁になされるのに対し、天皇皇后両陛下が主催される元始祭、昭和天皇祭、春季皇霊祭、春季神殿祭、秋季皇霊祭、秋季神殿祭、神嘗祭、賢所御神楽の儀などの重要な宮中祭祀において、秋篠宮文仁親王紀子妃両殿下、紀宮内親王殿下は熱心に出席されてゐることと比較して、余りにもその欠席が目立つのである。

皇祖皇宗に対し、五穀の豊穣、臣民の安寧、世界の平和に感謝と祈りを捧げる宮中祭祀よりも外国王室との接見や会食を優先させることが病状の回復のためといふのは余りにも理解しがたいことである。これは、占領憲法にいふ天皇の国事行為に何が含まれるのかといふやうな瑣末な議論をしてゐるのではない。皇太子雅子妃両殿下におかれては、果たして「宮中祭祀」よりも優先する「公務」とやらが存在するとされるのであらうか。もし、外交官の公務の延長線上にある外国王室との接見と会食といふ外面だけが最優先の「公務」であり、「宮中祭祀」が淘汰されるべき「伝統としきたり」に過ぎないとの認識しか持たれてゐないのであれば、「宮中祭祀」にご熱心な秋篠宮文仁親王殿下に皇嗣をお譲りされ、皇族の身分から離脱されることを申し出られることが國體護持を放棄された皇太子としての最後の「公務」とご認識されるべきである。

男系男子の皇統護持に関心が薄く、宮中祭祀を疎かにし、ただただ子煩悩なだけのオランダやベルギーの王室のやうなものは我が国には百害あつて一利もない。皇太子殿下には、皇嗣として「全力でお守りすべき」ものは何であるかについてのご自覚を欠き、「お世継ぎ問題」を他人事のやうに表現されたり、「伝統やしきたり」が「プレスへの対応」と同列に、しかも批判的に扱はれることは、まことに慚愧に堪へない。秋篠宮殿下とこれに引き続く今上陛下のご発言の真意は、おそらくこのことを指摘されてゐるものと愚考する。

皇太子雅子妃両殿下がどのやうな皇室改革を目指されてゐるのかは不明であるが、おそらく「経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動」といふ表現から察するに、それは「皇室外交」なるものを最重要の「公務」として位置づける方向であらう。しかし、これには断固として異議を唱へたい。

先帝陛下が皇太子殿下として摂政宮となる直前の大正10年3月から9月までの間にヨーロッパを訪問され、帰国後に直ちに欧風化改革に着手しようとされたとき、貞明皇后が頑強に反対され、それが原因して以後は皇室内で確執があつたとされ、貞明皇后が溺愛される秩父宮殿下を陸軍の一部が強く擁立するといふ秩父宮擁立論に発展するのであるが、今回の天皇皇后両陛下と皇太子雅子妃両殿下との確執は、それ以上の深刻な問題であると推察されるからである。

アイルランド生まれの英国政治家ジェイムス・ブライスは、晩年になつてロシア革命を目の当たりに経験し、その後に日英同盟が解消されるに至る前年の大正11年に、82歳の老躯に鞭打つた渾身作『近代民主政治』の中で、「日本に於ては、その発祥、神話の霧の中に茫漠たる皇室に対する宗教的忠義は、その領主に対する武士の個人的な忠義と結合し、日本軍人に一死報国を特権と心得る国家的及び国民に対する無私の騎士的な忠義を発生せしめた。かくの如く忠義が一様に国民の全階級に旁魄としているように見受けられる国家は他にその例を見ない。」と述べてゐる。一日も早くこのやうな我が国の真の姿に戻るためにも、その中枢である皇室が國體破壊思想に染まつたり、少なくとも國體護持の中核となつて國體破壊を狙ふ勢力と対峙しなければならないはずの皇室自身がオウンゴールの如き愚かしい自滅の方向へ向かふことだけは臣民として絶対に阻止しなければならないのである。もう、黙つてゐるときではない。座して國體の死、すなはち我が国の死を待つことはできない。

平成17年5月15日記す 南出喜久治

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