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トップページ > 各種論文目次 > H17.08.09 國體護持:続憲法考2(続き)

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追認

これは、「破棄」のところで述べたとほり、私法の領域でいふ「取消」の対極にある概念である。つまり、GHQの強迫により国家の自由意思を抑圧してなされた立法行為(占領憲法の制定)に瑕疵があり、「不確定的に有効」と評価されるものについて、それを将来に向かつて「確定的に有効」であることを承認する行為のことである。つまり、二度と取消をすることができないといふ意味では「取消権の放棄」である。

また、前述したとほり、その瑕疵の程度がさらに著しいときは、「取消しうべき行為」ではなく「無効」であるが、この場合にも「追認」ができるとされてゐる。つまり、「無効行為の追認」である。ただし、「取消しうべき行為の追認」の場合は、行為時(立法時)に遡つて確定的に有効となるのに対し、「無効行為の追認」の場合は、追認時から有効となつて遡及効がないといふ違ひはある。

占領憲法の効力論において、有効説の一種にこの追認を契機とする見解(追認有効説)がある。また、この変形として、民法第125条の法定追認の規定を借用し、追認の意思表示がなされなくとも、追認をなしうる時以後に、占領憲法が有効に存在してゐることを前提とし、占領憲法を踏まへた更なる立法行為や行政行為などの国家の行為がなされたときは、追認したものと看做すといふ見解(法定追認有効説)もある。

しかし、「無効行為の追認」については法定追認の制度自体がないので、法定追認説では、取消うべき追認の場合に限定されることになると思はれるが、追認説では、「取消うべき行為の追認」とするのか「無効行為の追認」とするのかについて明確ではない。

いづれにしても、これらの見解の骨子としては、占領憲法が憲法として無効であつても、将来に向かつて憲法としての適格性があるとして追認すれば、以後は憲法として有効となるとする論理であり、これについては、前章でその批判の概要を述べたが、これらの見解とこれに類似する言説の矛盾についてさらに敷衍する。

この追認有効説の変形は多く、60年も占領憲法が施行されてきたから、仮に無効であつても、その後に占領憲法に基づく法律が制定されてきたといふ「既成事実」が形成され、その事実を以て有効の根拠とする見解(既定事実有効説)、世論調査などからして占領憲法が国民の意識の中に国民の憲法として「定着」したことを有効の根拠とする見解(定着有効説)、さらには、前章で述べた「時効の國體」を逆手にとつた烏滸の至りともいふべき「似非時効」を根拠とする見解(時効有効説)などがある。

これらの見解は、おそらく、占領憲法は始源的(制定時)には瑕疵(無効を含む)はあつたが、後発的(事後的)には確定的に有効となつたとするものであつて、その意味では「後発的有効説」であつて、ポツダム宣言の受諾を以て革命と評価しそれに有効性の根拠を求める見解(革命有効説)、「承詔必謹論」により先帝陛下の「公布」を有効の根拠とする見解(承詔必謹有効説)などの「始源的有効説」とは異なるものの、これら「後発的有効説」に共通するものは、その裏付けとして、イェリネックの「事実の規範力」の理論を援用する点にある。

しかし、「事実の規範力」とは、法が守備範囲としてゐなかつた領域において、当初から違法性の意識がなく形成された事実たる慣習が法たる慣習(慣習法)となる成立過程の説明には適しても、それ以外の異質な事象と領域について適用させることは甚だ無理があり単なる虚構にすぎない。前述したとほり、法の「効力」の要素としての法としての「妥当性」と「実効性」の二つの要素において、そもそも「違法」と評価された実力が反復継続してきたとする「事実」は、仮に、事実的要素としての「実効性」を満たしたとしても、価値的要素としての「妥当性」を満たすものではなく、その「効力」としては常に無効である。違法な実力の行使による事実の反復継続に法創造の原動力を認めることは、事実と規範、存在と当為を混同し、「暴力は正義なり」を認めることとなり、社会全体の規範意識を消失させて法秩序は破壊される。

古今東西を問はず古来から殺人、売春、賄賂、政府権力による人権弾圧などの行為は継続反復されて存在してきたし、不幸なことに将来も反復継続するであらう。しかし、この反復継続する「事実」を以て法創造の規範力を認め、殺人、売春、賄賂、政府権力による人権弾圧などを正当であると許容する「法」となつたとして合法化とすることは法の自己否定となる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」といふ諧謔があるが、これは「怖い」といふ「違法性の意識」を群集心理で鈍磨させようとする「不道徳」を説くものであつて、「赤信号、みんなで渡れば青(信号)になる。」といふ「違法性の消滅」を意味するものではない。ところが、有効性の説く「事実の規範力」の援用は、その本来の守備範囲を逸脱して「違法性の消滅」を説き、法の破壊につながる牽強附会の禁じ手を用ゐたことになる。これは法律学の自殺行為であり、これを主張するものは法律学者としての資質を疑はざるを得ない。

ともあれ、後発的有効説のうち、追認有効説及び法定追認有効説以外の見解は、時間の経過などの「事実」を主な根拠とするのに対し、追認有効説及び法定追認有効説は、追認又はこれに準ずるなんらかの国家行為ないしは立法行為の存在を根拠とする点に相違があるので、これについて以下に言及する。

そもそも、追認といふためには、帝國憲法の改正手続を行つた「帝國議会」その他の国家機関が、その改正手続と同様の手続と要件に基づいてなされるものであつて、少なくとも帝國議会などが機能停止してゐる状況下では、帝國憲法下の帝國議会とはその存在根拠を異にする占領憲法下の「国会」で事後承認したとしても、これを以て追認とすることはできない。

平易に言へば、泥棒の被害者がその泥棒が盗んだ品物を返還しなくてもよいとして事後に宥恕することによつて泥棒はその品物を正式に自己の所有とすることができるが、被害者は何も言はないのに泥棒自身が「これは俺の物だ」と勝手に宣言したとしても、決してがその品物は泥棒の所有とはならないことは誰でも解る。この「泥棒」が占領憲法下の「国会」であり、その「被害者」が帝國憲法下の「帝國議会」である。この泥棒の国会については、占領憲法第41条により「国会は、国権の最高機関」であるとして自画自賛するものの、未だに気恥ずかしいのか、泥棒の国会において「占領憲法は有効である」との有効確認決議(追認決議)をしたことすらないのである。「追認」は、あくまでも追認の意思が客観的にも表明されることが要件であるから、現在に至るも「泥棒の宣言」すらなされてをらず、追認有効説が有効の根拠とする「追認」それ自体が存在しないので、この説はそもそも成り立ちえないのである。

また、追認がなされるためには、原状回復がなされた上でなければならないことは既に別稿『原状回復論』で述べたとほりであつて、北朝鮮に拉致された犯罪被害者が無条件かつ無制約の帰国の実現と強迫観念からの解放による自由意思の保障がなされた環境が与へられるといふ「原状回復」が実現しない限り、仮に、再び北朝鮮で生活するといふ選択をさせてはならないのと同様、独立後も日米安全保障条約といふ方式による占領政策の継続し、かつ、戦勝国による国際連合体制が継続してゐる現在の情況では、未だに原状回復が果たされたといふことはできない。それゆゑ、「追認ハ取消ノ原因タル情況ノ止ミタル後之ヲ為スニ非サレハ其効ナシ」(民法第124条第1項)とあるやうに、その時期において、未だ追認をなしえないのである。

そして、このことは、仮に、追認がないとしても追認がなされたと看做すべき行為があつたとしても、民法第125条の法定追認を主張する法定追認有効説についても同様である。つまり、「追認ヲ為スコトヲ得ル時」に至つてゐないからである。

もし、追認をなしうるとすれば、その時期は、現在の国連体制と日米安保体制からなる占領継続体制が解消した後のことである。具体的には、日米安保条約が対等双務条約と変更されるか、あるいは解消されるかのいづれかとなり、国連が解体され、あるいは我が国が国連を脱退して自立し、または、戦勝国のみで構成する非民主的な常任理事国制度と敵国条項が廃止され、少なくとも戦勝国ではない中共や共和制ロシア(ソ連崩壊後の新国家)が常任理事国から排除され、北方領土が返還されて分断国家状態が終了してからのことである。

ところで、前述したとほり、追認有効説は、占領憲法を「取消しうべき行為」であるとして追認するのか、あるいは「無効行為」であるとして追認するのかが定かではない。しかし、帝國憲法の改正行為が「取消しうべき行為」であるとするのは、そもそもその根拠に乏しいので、やはり「無効行為」として追認を想定してゐるのであらう。また、法定追認有効説は、おそらく「無効行為の法定追認」を主張するものと思はれるが、無効行為の追認にはそもそも法定追認の規定はなく、類推適用もされない。この法定追認の制度は、取消しうべき行為といふ不確定な法律状態を速やかに解消するために、たとへ追認の意思表示がないとしても、これと同視できる行為や表示があれば、それを追認と看做すことによつて利益衡量を実現するための規定であるから、初めから無効であるものを特段の意思表示もなしに殊更に有効とすることは私的自治の原則に違反し、当事者にとつては不意打ちとなるからである。

このやうに、無効行為の追認を想定して構築された追認有効説や法定追認有効説は、その出発点において論理破綻を来してゐることになる。

さらに、本質的な問題として、「無効行為の追認」が絶対に不可能であることの理由がある。つまり、民法第90条によれば、「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」と規定し、いはゆる公序良俗違反の行為は絶対無効であるとするのであつて、このことは占領憲法の効力論においても妥当する。公序良俗違反の典型例として、人身売買の例で説明すれば、これは人権の否定であり違憲の行為であるから許されないのであつて、人身売買の行為は無効であるといふことである。そして、この無効といふのは絶対無効であつて、事後に追認することも許されない。もし、これを許すのであれば、結果的には公序良俗違反を肯定することとなつて法の趣旨に反するからである。それゆゑ、追認自体が無効であり、追認しても人身売買は有効とならない。これが絶対無効といふ意味である。

このやうに、憲法の条項に違反する行為が絶対無効であるのであれば、憲法自体を否定した上で憲法の条項にも違反する行為は、さらに違法性が著しいので絶対無効であることは当然のことである。占領憲法の制定は、帝國憲法を否定し、その条項(第75条)にも違反する行為であるから、占領憲法の規範定立行為(制定行為)は絶対無効であつて、帝國憲法の改正行為として追認することも絶対にできないのである。

従つて、追認ないしは追認と同視しうるとする「法律行為」を以て有効とすることはできないのであるから、ましてや、追認有効説及び法定追認有効説以外の後発的有効説のやうに、「既成事実」とか「定着」、ないしは時間の経過といふ「事実」を以て有効化しうる根拠はない。

似非「時効」の主張は重ねて云ふに及ばず、また、「既成事実」の正体は、違法な実力(暴力)の連鎖的継続状態であつて、これが法創造の原動力たりえないことは前述したが、それに加へて、国民の意識が定着したとする点については、むしろ次のとほり、逆に「不定着」の事実が継続してゐることを指摘したい。

すなはち、占領憲法の要諦である第9条が実効性を保つてゐた期間は、施行された昭和22年5月3日から昭和25年7月8日までの僅か3年余に過ぎないことに留意すべきである。つまり、昭和25年7月8日は、マッカーサーが、朝鮮戦争を契機として警察予備隊7500人の創設と海上保安庁8000人増員を許可したときであり、このときから再軍備が実現し第9条の実効性は否定された。そして、同年10月には、米軍の上陸作戦を支援するため、海上保安庁の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷処分に投入された。これは、戦闘地域での日米作戦の合意に基づくものであつて、同月には海上保安庁の掃海艇一隻が機雷に触れて沈没し、18人が重軽傷、1人が死亡(戦死)した。そして、湾岸戦争、カンポジアPKO、イラク戦争などを経て、完全に第9条は死文化し、再軍備が国際的に認知された。イラクのサマーワが戦闘地域か否かといふ議論は、過去の歴史的事実を知らない者の戯言であり、空虚で欺瞞に満ちたものに過ぎないのである。

それゆゑ、占領憲法第9条は、再軍備の実現によつて憲法としての実効性を既に喪失してゐると評価される反面、この再軍備の実現は、逆に帝國憲法第11条の実効性が復活して現在も存続してゐると評価される。また、第9条以外の占領憲法の各条項について実効性があるとされる事象についても、それは同時に、概ねこれに対応する帝國憲法の各条項によつても説明できるものであつて、帝國憲法の実効性が継続してゐることの証明となるのであつて、未だに帝國憲法はその実効性を喪失してゐないことになる。

つまり、帝國憲法は法としての妥当性と実効性が存在し、占領憲法にはそれが備はつてゐないので、憲法としての効力を有してゐるのは帝國憲法しかありえないのである。

附言するに、そもそも定着有効説が、国民の意識として「定着」したといふ点も単なる虚構にすぎない。この「定着」については世論調査などに準拠するのであるが、そもそも世論調査なるものは、その目的、項目、対象、範囲などにおいて恣意的な要素が入りやすく、世論誘導の手段として用ゐられてゐることは公知の事実である。にもかかはらず、この世論調査等を根拠として国民の意識なるものを推定することは統計学的な正確さを備へてゐない危ふい言説である。

さらに、この定着有効説は、重大な点を欠落させてゐる。占領憲法制定時から現在に至るまでの「憲法教育」の実態についてである。義務教育に用ゐられる教科書には、占領憲法の出生の秘密を記載してゐないし、無効説の存在とその内容や論拠に至つては全く記載されてゐない。検定基準自体にもその項目がない。このやうな教育実態は、義務教育のみに限らず、その他の公教育や社会教育においても同様であつて、現在もなほその状況は継続してゐる。このことは、無効説を排除する思想統制が行はれ、占領憲法が「有効」であるとする洗脳教育であつて、その教育を受けた者が成人して国家の意思形成に参加したとしても、その意思形成は、詐欺、強迫に基づくものであるから、この呪縛と強制から解放されない限り、「不当威圧」undue influenceの法理は適用され続ける。洗脳された者の多数決なるものは、「大衆の喝采」を擬制した全体主義国家の行ふ手法であつて、これを以て「定着」といふことは断じてできないのである。

それゆゑ、占領憲法の制定経過事実が記載され、占領憲法の効力論争の存在とその内容について両論併記された教科書による教育(真の憲法教育)がなされて教育の正常化が実現し、このことが遍く周知された状況になつた後でなければ、定着有効説はその論拠の前提を欠くことになるのである。

効力論争の鳥瞰

以上の考察で明らかとなつたのは、占領憲法の効力論争が多面的、多元的なものであり、その争点についても、占領憲法の、①目的、②主体、③内容、④手続(手段、方法)、⑤時期などの各事項について様々な主張がなされてきたことが解る。

占領憲法は、無効説からすれば、①日本弱体化、國體破壊といふGHQの目的によるものであり、動機の不法、不正の目的によるものであること、②制定の主体は、実質的にはGHQであり、我が国の自主性は奪はれてゐたこと、③内容においても、國體の変更を伴ふものであつて、改正の限界を超えてゐること、④手続(手段、方法)においても、著しく審議不十分であつたこと、⑤時期においても、帝國憲法第75条に違反し、ヘーグ条約にも違反してゐたことを理由に無効であると主張するものであるが、これに対し有効説は、必ずしもこれに一対一に対応して反論してゐない。ただし、ヘーグ条約違反であるか否かについては論争がされてゐるが、最も重要な帝國憲法第75条(類推)違反については全く反論がない。

また、このこととの関連で、いつの時点における効力の有無を論ずるのかといふ点(効力時点)についても、無効説は、憲法改正に内容的な限界があるとする見解(限界説)に立ち、概ね「制定時」の効力を問題とし始源的に無効であるとするのに対し、有効説は、憲法改正に内容的な限界がないとする見解(無限界説)と革命有効説を除いて、概ね「現在時」の効力を問題とし後発的に有効であるとする傾向にある。

そして、これに加へて争点としなければならないのは、失効説の説明でも触れたが、次々章(条約考)で詳述するとほり、占領憲法の法的効力について、占領憲法の名称が「憲法」であるとしても、はたしてこれが真の「憲法」なのか、それとも「法律」又は「条約」その他の法令といふべきなのか、といふ法の「領域」の問題が横たはつてゐる。

これに関する私見は、結論を言へば、占領憲法は「条約」、しかも「憲法的条約」の限度でその効力を認めなければならないとする見解に立つてゐる。その意味からすれば、占領憲法は「憲法」の領域では「無効」であるが、「条約」の領域では「有効」とすることとなり、無効説と云つても、正確には「相対的無効説」と名付けるべきかも知れない。これに対し、従来までの無効説(旧無効説)も有効説も、失効説を除き、法の領域としては「憲法」だけに限定し、他の領域についての言及はない。失効説を除く旧無効説は、おそらく一切の法の領域において無効とするものであつて、その意味では「絶対的無効説」と呼称すべきかも知れない。ただし、失効説は、制定時は憲法としては無効で管理基本法としては有効とする点において相対的無効説であり、これが憲法的条約であるとする私見と共通するところがあるが、現時点(占領終了)では失効してゐるとすることからして、現在時評価からすればこれも絶対的無効説であり、現在時においても憲法的条約として効力を有するとする私見とは異なる。よつて、失効説を含めて従来までの無効説を「旧無効説」とし、私見を「新無効説」とした所以はここにある。

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