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トップページ > 各種論文目次 > H17.08.09 國體護持:続憲法考3(続き)

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続き

有効説の潮流

憲法改正に限界はあるか。これについては、戦前戦後を通じて、これに限界があるとするのが通説である。なぜならば、限界があるとする根源には、「國體論」があるからであつて、限界を認めない無限界説は、実は「主権論」であり、「國體論」を否定する見解である。無限界であるから、國體の破壊も許されるとするのであつて、仮に、主権論ではなくても、少なくとも反國體論である。このことを自覚的に議論されたことは過去に一度もなかつた。それどころか、未だにこの無限界説を放棄せずして國體護持を叫び、しかも、國體と政体とを分離して、國體規定とされる帝國憲法第1条ないし第4条前段と政体の基本原則規定とされる同第4条後段の改正を否定して改正限界があるとする自家撞着の言説も残存するが、これらは既に学問的には破綻を来たして淘汰されてゐる。

従つて、現在では、その理由は様々であるとしても限界説が定説となつてゐるが、占領憲法時には学説的な異変が起こつた。それは、限界説に立つた革命有効説の登場である。当時は多くの賛同者を得たものであつて、いまではこれも学説的に淘汰されたのであるが、この革命有効説が制定時において政治的に占領憲法の制定を推進させた原動力となつたもので、その及ぼした影響は極めて大きいものがある。

この革命有効説が制定時に賛同者を増やしたのは、当時の国際情勢、社会情勢、政治情勢などの背景があると思はれるが、学説にも影響を及ぼした理由は、先に述べたとほり、この革命有効説が主流であつた限界説から生まれた点にある。つまり、革命有効説は、帝國憲法の改正としては「絶対無効」であるが、「革命憲法」としては「有効」であるとする点にある。それゆゑ、帝國憲法の改正法としては無効であるとする点においては、無効説の範疇に入る。これが限界説の学者の心を揺るがし、形式的には変節せずに実質的には変節を果たすといふ学者の保身に寄与した。

つまるところ、形式的には「限界説」に立ちつつ、「革命」といふものを媒介させれば、実質的には「無限界説」へと変節するための方便とトリックを編み出したのがこの革命有効説である。

それは、要約すれば次のとほりの見解であつた。ポツダム宣言の受諾により帝國憲法の根本規範に変更が生じ、「天皇制の根拠が神権主義から国民主権主義に」変化して「革命」が起こつたとするのである。

しかし、ポツダム宣言の受諾は、帝國憲法第13条の講和大権に基づくものであつて、明らかに帝國憲法による統治行為であつて、この時点で根本規範の変更はありえない。終戦の詔書にも「茲ニ國體ヲ護持シテ」とあり、ポツダム宣言においても根本規範の変更を求めてゐなかつたこと、さらに革命の概念についても矛盾があることなどは既に詳述したとほりである。

そもそも、「神権主義」といふ概念は不明確であり、仮にこれが「國體論」を意味するものとしても、それが何ゆゑに「主権論」へと変化するのか。しかも、「天皇主権」を経由することなく一足飛びに「国民主権」なのかといふ点において論理の飛躍がある。

革命有効説は、「根本規範の変更を規定する憲法が有効たりうるのは、『革命』によつてである。」とする命題を示したが、これを踏まへて、「革命」とは何か、との問ひ対し、それは「根本規範の変更をもたらすもの」と答へ、ならば「根本規範の変更をもたらすもの」とは何か、との問ひに対しても、それは「革命」と答へるのである。これは循環論法であつて、論理破綻の典型である。

いづれにせよ、根本規範の変更である「革命」がポツダム宣言の受諾といふ講和大権の行使によつてもたらされたと認めるのであれば、それは帝國憲法下の合法的な行為でなければ保護されない。そもそも「憲法」と「革命」とは対立概念として用ゐられるのであつて、これを「革命」と呼称するかは用語例の問題であるとしても、この「革命」が有効であるとされるためには、これが帝國憲法体制下の法秩序において合法的(合憲的)な行為でなければならないことは当然のことである。通常の違憲行為であつても無効であるとされるにもかかはらず、それ以上の違憲行為である國體変更を目的としたこの「革命」が有効であるはずはないのである。

帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある点について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」とする天皇機関説からの見解(美濃部)があつた、と前述したが(クーデター考)、この「革命」なるものが体制内変革としてのクーデターに該当するとしたら、天皇大権を行使しうる天皇の側からのクーデターですら禁止されてゐるのであれば、GHQといふ外国勢力はいふに及ばず臣民の側からもクーデターも当然に禁止されるのである。

ところで、この革命有効説の変形として、占領憲法が制定されることを解除条件として主権が国民に移つたとする見解(ただし、これは解除条件ではなく停止条件と表現すべきであらう。)、占領から解放されることを停止条件として占領憲法が制定されたとする見解などがある。しかし、これらの条件付国家行為をなす時点において占領下にあり、誰が誰に対してこの条件付国家行為を行つた(合意した)のかについて全く説得力のない虚構の産物である。

ともあれ、革命有効説は、限界説に立つがゆゑに、占領憲法は帝國憲法の「改正」としては「無効」であることを前提に、これは改正ではなく「革命」であるとして「有効」になるとするのであるから、この「革命」が否定されれば、占領憲法は「無効」として確定することになる。そして、この「革命」は、現在においては完全に否定されたため、破綻した革命有効説は、占領憲法が無効であることを証明する学説となつたのである。

正当性説の登場

このやうに有効説である無限界説と革命有効説とは、その論理を破綻させて今日に至つてゐる。無限界説は死滅したが、革命有効説については、限界説と無限界説との対立、違憲と革命との相克から逃げ出して、その後、その土壌から新たな有効説(らしきもの)を出現させた。革命有効説の逃げ場所、それが正当性説である。

それは、憲法の名に値するものは、その出自や来歴、歴史や伝統によつて決定するものではなく、その内容と価値体系(国民主権主義、人権尊重主義、戦争放棄平和主義など)の優越性を意味する「正当性」によつて決定するといふ見解である。

しかし、ここでは、効力の要素である妥当性とは異なる「正当性」といふ概念を定立し、効力論に直接には言及しない。つまり、正当性即妥当性ではなく、正当性説即有効説ではないことを自覚するからであるが、占領憲法の効力論とは別個に(むしろこれを度外視して)占領憲法に正当化に成功すれば、これによつてあたかも占領憲法が有効であるがこどき印象を与へることができるからである。それゆゑ、これは法律学といふよりも法社会学の範疇における革命有効説の変形であり、有効説らしきものなのである。

確かに、カール・シュミットがいふやうに、憲法についても、「合法性」と「正統性」legitimacyの二つ観点を検討する必要があり、いままで述べてきたのは、主として占領憲法の合法性に関する有効説と無効説の議論であつた。他方、正統性の概念は、論者によりまちまちであるが、それが政治学、歴史学、文化論など広範な領域を守備範囲とするために多岐に分かれてゐるものの、少なくとも、その憲法が国家の歴史、伝統、文化などに合致し連続性を有しているか否かといふ要素を含むものであることには疑ひはなく、占領憲法が正統性を満たさないことは多言を要しないものである。なほ、ここでは、「正統性」と「正当性」とを音読で区別するために、前者を北畠親房の『神皇正統記』に倣つて「ショウトウセイ」と音読し、後者を「セイトウセイ」と音読して区別したい。

ともあれ、正当性説は、憲法の名に値するものは、その出自や来歴、歴史や伝統によつて決定するものではなく、その内容と価値体系の優越性を意味する「正当性」によつて決するとするのであるから、「正統性」とは別に「正当性」があるとする。否、むしろ、「正統性」がないことを前提として、それに代はる「正当性」があれば充分であるとするのである。

しかし、これは言葉の遊びにひとしい。ここでの「正当性」の概念は、本来は「正統性」の内容を検討するところから出発した議論であつたはずなのに、歴史、伝統、文化など、正統性の中核に位置する伝統性を全く排除し、単に内容だとか価値体系などの優劣を議論することにすり替へてゐるだけである。そもそもこのやうな内容と価値の優劣に関する判断は千差万別であつてなんら普遍性はない。正当性説の主張する価値判断に時代を超えた普遍性があるといふのであれば、その証明がなされなければ意味がない。しかも、これが普遍的なものであるといふのは、結局のところ、将来に向かつての時間的な永続性があることを前提とするものであつて、それならば、過去からの永続性を根拠とする歴史、伝統、文化などに依拠した正統性の主張を排斥することはできないはずである。

そして、なによりも、内容や価値体系の優劣によつて正当性を決定するといふこと自体に致命的な陥穽がある。それは、北朝鮮によるいはゆる拉致事件といふ国家犯罪などを題材として考察することで解るはずである。

たとへば、仮に、我が国において極貧の生活をし、仕事もなく社会的には全く活動の場が与へられなかつた人が拉致の被害者となつたとする。しかし、拉致された後には工作員指導教育などの任務が与へられて極めて富裕な生活待遇を受け、本人も拉致によつて我が国で生活する自由が損なはれたことの不満はあつたが、極貧生活からの解放とそれなりに仕事と社会的地位を与へられたことを事後になつて好意的に受け入れた。そして、いつしか、拉致されたことへの不満も薄らぎ、北朝鮮で一生暮らすことを決意したとしよう。この場合、正当性説と同じ論理によれば、それまでの経過はどうであれ拉致の前後における生活の内容と水準を比較すれば、拉致後の生活の内容の方が決定的に勝つてゐるので、我が国としても、これを北朝鮮の犯罪だと批判せずに、逆に、北朝鮮に感謝して被害者が拉致されたことを大いに祝福すべきであり、「拉致」には「正当性」が認められるといふことになる。また、もつと単純な例とすれば、親から虐待され、しかも貧しい家庭の子供を誘拐し、この子供に愛情をそそいで裕福に育てた誘拐犯についても同じことが云へる。この陥穽はどこにあるかといふと、それは、犯罪の成否と斟酌すべき情状とを混同したことにある。正当性説は、斟酌すべき情状があれば犯罪は成立しないといふ、本末転倒の見解なのであり、まさに「無理が通れば道理が引つ込む」といふ理論なのである。

やはり、このことからしても、別稿『原状回復論』の正しさが再認識されるとともに、正当性説の論理破綻が明らかとなるのであるが、正当性説からは、このやうな批判に対する反論を一切行はうとはしない。正当性説は、いまや革命有効説に代はり、有効説(側)の主流となつてゐる感がある。正当性説の企ては、占領憲法の効力論争を真摯に行へば無効説の勝利となるのは必至であるから、効力論争を沈静させて決着をつけさせないやうにすることにある。そのために、効力論争に全く参加せずにこれを黙殺することによつて無効説を封じ込め、あたかも占領憲法が有効であるかのやうな風潮を生み出すことに懸命である。そして、正当性説に立たない全ての憲法学者もこれに同調する。それはなぜか。それは、占領憲法の効力論争をすることは、占領憲法のコバンザメとしてその解釈で生計を立ててゐる憲法学者全体の利益に反するからである。これはまさに憲法学の自殺行為であつて、今や憲法学は、曲学阿世の処世術を駆使する法匪の道具となり果てた。

占領憲法の効力論争といふのは、純粋な法学論争であつて、「占領憲法が好きだから」とか「占領憲法が嫌いだから」といふやうな感情論や趣味の問題であつてはならない。「占領憲法は好きだけれども、占領憲法は無効なのでこれを否定する。」といふ、泣いて馬謖を斬るが如き態度こそが法学者たるものの矜恃でなければならない。その意味では、我が国に憲法学者は皆無にひとしい。

有効説が復活しうる唯一の論理的な選択肢としては、革命有効説が絶滅したと思はれた無限界説を抱き込んで、改正無限界による「合法的革命」として有効であると主張することである。これは荒々しい主権論同士の結合であり、新たなジャコバンの群れとなる。しかし、これは後出しのジャンケンであり、法匪のなす変節の極みである。

憲法は、法匪の専有物ではない。占領憲法の効力論争に怠惰であつた法匪には、憲法学全般においては専門性を持ち合はせてゐたとしても、占領憲法が無効であるとする論拠に反論するだけの知識を持ち合はせてゐない。素朴で健全な批判的精神があれば、必ず法匪の邪論を打ち破ることができるのである。

平成17年8月9日記す 南出喜久治

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