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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第七回 産声と感謝

うぶこゑを かたじけなくも すこやかに いはひまつりし ひとのよのたび (産声を 忝なくも 健やかに 齋ひ祀りし 人の世の旅)



 殆どの人は、お父さん、お母さんに対して感謝の心を持つてゐます。しかし、持つてゐない人も居ます。それどころか恨みすら抱いて居る人も居ます。私の周りにも居ます。

 何かの事情があつて捨てられて孤児院で生活したり、育児放棄をされたり、虐待を受けたり、一人の子供だけをえこひいきに偏愛することによる兄弟間の憎しみと嫉妬が、その原因を作つた親に向けられて、親に対する転嫁報復(逆恨み)の感情となつたり、介護や遺産をめぐる争ひと不満などで、親を憎んだり恨んだり妬んだりする人が居ます。子供のころは、ほんの些細なことで親や兄弟を恨んだり妬んだりすることがありますが、成長するに従つてそれが無くなるのが殆どですが、中には、それが大きくなつてさらに激しくなる人も居ます。


 愛憎(愛することと憎むこと)は表裏の関係にあり、仏教では煩悩とか苦といふ言葉で説明します。四苦八苦といふ言葉は、仏教用語です。仏教では、論理学的にこれを組み立てて探求します。四苦とは、生苦、老苦、病苦、死苦といふ人生の四種の大きな苦しみであり、さらに、愛別離苦(愛する人と生き別れる苦)、怨憎会苦(憎む人と会ふ苦)、求不得苦(求めるものが得られない苦)、五陰盛苦(心身の働きが盛んである苦)とで八苦です。これらは、煩悩や悪行の報ひとして受ける心身の苦しみとされます。そして、人生に起こるものは、「一切皆苦」、つまり、一切が苦であるとします。その苦の原因は、本能的にもつ欲望であり、それによつて悩むのです。それが煩悩です。その煩悩の原因は、貪(とん)、瞋(しん)、痴(ち)の三惑(三毒)と言ひ、煩悩には至らない軽微なものを「憂(う)」と呼んで居ます。この欲望を抑制することが苦をなくすことであり、それが悟りです。そのためには八正道によるとされ、正しい見解(正見)、正しい思惟(正思)、正しい言語行為(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい想念(正念)、正しい精神統一(正定)によるとされます。

 これは、ため息の出るやうな「苦」に関する精緻といふよりも瑣末な分析学であり、論理学であり、所詮、理性の産物です。「一切皆苦」とし、衆生が生まれることも苦(生苦、しやうく)とすることによつて、「人生は暗い。だから仏教を信じて解脱しなさい。」といふブラフと脅しをかけて勧誘(布教)するのです。しかし、釈迦は、そんなことは言つてゐません。四苦八苦とか八正道とかの細かな分析をするだけでは、人生の根本問題は何も解決しません。欲望を抑へろとか、正しい道を行けと説くだけで、解脱するための具体的な方法を教へないのです。本来であれば、誰でも八正道を極められる方法があれば、それを教へればよいのに、それを勿体振つて教へてくれないのです。といふよりは、解らないので教へられないのです。ですから、こんなインチキな理性による分析で人生の問題が解決できるはずがありません。特別の人だけが悟りに到達できるものであれば、それを達成して悟りを得る人は極少数であるために、その人が社会全体の中に占める割合が小さいので、社会全体がよくなるはずはありません。極少数の解脱者が居たとしても、それだけでは社会全体がよくならないから、いつまでも仏教は生き延びて行くのです。ところが、いつまでも生き延びることはできません。最後は、賞味期限が切れて、末法の時代が来て、仏教は滅ぶのです。ブラフはいつまでも続かないといふことを予言したこの末法思想は、支那で生まれ、唐の時代の道綽や善導らが、仏法の滅亡を再生へと転嫁させて浄土教のみが仏教再生の教法であるとしたのです。それを我が国でも源信や源空(法然)らが受け継ぎました。第四回でも話しましたが、「死と再生」を仏教の教法までに適用した思想が、まさにこの末法思想であつた訳です。そして、浄土教では八正道も悟りも無用となり、念仏とか信心とかがすべてであり、一切余計なことはするなといふことになりました。ですから、これは厳密には仏教ではなく、正確には、仏教滅亡後の教法であり、論理学を捨てたのです。そして、「信じる者は救はれるとする教へ」となり、仏教といふ「解脱の宗教」から「救済の宗教」へと変容しました。救済の宗教であるキリスト教に大きく近づいた訳です。しかし、信じる者が救はれるといふ確証はありません。正確に言ふと、「信じる者が救はれるとする教へを信じる宗教」なのです。


 では、キリスト教の場合はどうでせうか。キリスト教では、神は絶対であつて、信者が救済されるか否かは、偏へに神の思し召しによるものであり、人智の及ぶところではないのです。救済の宗教ではありますが、浄土宗とは異なり、「信じる者でも救はれるとは限らないといふ教へ」、「救はれる者は信じる者の中から選ばれるとする教へ」なのです。これも正確に言ふと、「救はれる者は信じる者の中から選ばれるとする教へを信じる宗教」といふことなのです。そして、アダムとイヴが神に背いて禁断の実を食べた人類最初の罪を「原罪」であるとし、末代までも人類に贖罪を迫ります。我々の素朴な感性からすれば、借金は相続しても罪は相続しないはずです。親が罪を犯したことで、その子孫も同罪となり、その罪に服して刑務所に入るのでせうか。刑務所どころか、死んだら地獄にまで落とされるのでせうか。人類共通の道徳として、親が罪を犯しても、罪を犯してはゐないその子に対して虐めないことを徳目として身につけてきたのではないでせうか。「罪を憎んで人を憎まず」といふのは嘘なのですか。「原罪を憎んで子々孫々も憎まれる」、それが原罪思想です。しかし、イエスはそのやうなことを言つてゐません。これは、ペテロとパウロによつて作られたキリスト教のブラフと脅しに過ぎません。

 これらは、ニーチェのいふ「奴隷道徳」の宗教です。自分を卑しみ(自卑)、自己の活力を自ら減退させること(自譲)に主眼が置かれた道徳体系です。


 そもそも、本能を悪とし、理性を善とすることにおいては、宗教も近代合理主義(理性論)も全く同じです。しかし、理性論が誤りであることは繰り返し述べてきたとほりであり、本能こそが善なのです。正確には、本能に適合すること、本能適合性があることが善なのです。さうすると、煩悩とは、本能に基づく「進歩への模索」であり、決して悪いことではありません。本能適合性があることが善ですから、煩悩は善なのです。そして、その煩悩を解決することも本能のプログラムの中にあるのです。それは、さらに本能を鍛へれば、もつと高次の本能が鍛へられて強化され、その本能によつて解消するといふ仕組みがあるのです。仏教では、「煩悩具足」、つまり、煩悩は本質的に身に備はつて離れないものであるとするのに、その煩悩から解脱できるとするのですから、これは明らかな論理矛盾です。それゆゑに、煩悩から解き放たれるのではなく(解脱するのではなく)、その煩悩を超える、もつと大きな煩悩を持つことによつて、心に占める小さな煩悩の比重を小さくすることが心の安定に至るのです。

 たとへば、親に対する愛憎の葛藤といふ煩悩があるとすれば、それは自己保存本能に基づく煩悩ですから、それよりももつと大きな本能である、家族維持本能や、さらには社会維持本能、民族維持本能、国家防衛本能を強化させて、その本能による煩悩へと転換させて解決するのです。つまり、より強い本能による「進歩への模索」といふ煩悩に転換すればよいのです。親に対する不満があるのなら、その煩悩は自己保存本能によるものですから、自分が親となつたとき、自分の子に同じやうな不満を持たれないやうに子供を鍛へて慈しむことの煩悩、つまり、家族維持本能による進歩への模索に専念することです。また、社会貢献や祖国再生運動に身を挺することによつて、民族維持本能、国家防衛本能による進歩への模索をすることによつて、小さな煩悩は大きな煩悩の前で解消されて行きます。つまり、欲望をなくせといふのではなく、もつと大きな欲望を持てといふことです。「無欲」となることではなく、自己を救ふ「小欲」よりも家族を救ふ「中欲」を、国家を救ふ「大欲」を、そして世界を救ふ「無限の欲」を抱くことによつて魂の安静が得られるのです。「無欲」になることは生命力を完全に否定することであり、「無限欲」を持つことは生命力を完全に肯定することを意味します。

 世界宗教といふのは、その本能原理を知らずして、秩序維持のために精神的な去勢をして「奴隷道徳」を強いるのです。秩序維持は確かに本能の方向ではありますが、その方法論が誤つてゐます。奴隷道徳で無理矢理に抑制するから、却つて個人の自己保存本能が反発的に強く働くことになります。これも本能の働きです。本能を否定する方向に向かへば、それを復元しようとして、その本能がより強化されるからです。そして、この個人個人に向けられた奴隷道徳があまりにも強くなり、がんじがらめになつて身動きができなくなると、本能の健全さは失はれ、個人の自己保存本能は歪んだ方向へと進むことがあります。フックの法則(バネの法則)のやうに、バネの歪みが大きくなれば復元力が強く働きますが、歪みが限界を超えるとバネが壊れるのです。それがルサンチマンです。

 ルサンチマンとは、ニーチェの用語で、怨恨とか復讐感情と呼ばれるもので、奴隷道徳によつて内攻的に鬱積した抑圧心理のことです。本来、道徳とは、生命の根源からくる力強いものであり、本能から生まれる秩序の規範です。家族や社会などの種内秩序は、本能によつて形成されます。そして、秩序は必然的に強者と弱者を形成します。強者は弱者に服従も求め、弱者は強者に保護を求めます。この強者と弱者の相互関係が本能による秩序です。ところが、強者が弱者に絶対服従だけを求めて、弱者への保護が希薄になるか皆無になると、弱者が強者に対する反感を持ち続けます。これがルサンチマンの原型です。ニーチェは、キリスト教が奴隷道徳を押し付け、ルサンチマンを生じさせたと批判しました。ニーチェは、さらに、民主主義をも奴隷道徳の産物であると批判しましたが、永遠回帰(永劫回帰)といふ観念に囚はれたまま、ついに祭祀の視点には到達できなかつたのです。おそらくは、祭祀を重んじたケルト人やゲルマン人が祭祀を否定するキリスト教へと改宗する過程で、祭祀の心も形も忘れてしまつた結果と思はれます。

 キリスト教では、強者(教皇、神父)は弱者(人民)を硬直化した教会組織の序列での最下位に置いて、弱者に絶対服従を求め、信仰に対して一切の疑問を持つことを禁止しました。信仰や救ひに疑ひを持つことは、信仰を否定することだと脅迫するのです。人が物事に疑問を持つことは本能の働きです。その物事が自分にとつて安全で有益なものか否かを吟味することは生命の維持にとつて必要なことだからです。その宗教や信仰のあり方に日々疑問を持つことも健全な本能の働きです。ところが、教へを疑つたり否定すれば地獄に落ちると脅して、疑はないことが強い信仰であるとのブラフと脅しで人の心をつなぎ止めます。つまり、本能の働きである疑ふ心を捨てろといふのです。科学の発達は、この本能の働きである疑ふ心がもたらしたものですが、これとは逆に、疑ひの心を捨てさせ、本能を極度に低下させ抑圧するのです。仏教も、地獄に落ちると脅して、キリスト教とよく似た手法で疑ひを捨てさせ本能を低下させる方法をとります。

 このやうな構造から憎悪や怨念が生まれてくるのです。これは一般的な憎悪や怨念のことですが、とりわけ、近親者に対する憎悪の場合は、愛情の裏返しであり、愛情を受けることの強い期待が裏切られたことなどによつても生じます。親に対しても同様で、事情によつては恨んでも仕方ないこともあるのですが、その恨みが生じるのは、生まれた直後ではなく、例外なく、物心が付いてきてからです。

 人が誕生するとき、仏教では「生苦」にまみれることになりますが、果たして本当にさうでせうか。新生児は、生まれるとき「産声」をあげます。これを「泣く」として、悲しみ、苦しみのためだとして、だから生苦と考へたのかも知れません。しかし、人が泣くのは喜びのときもあります。我が国では、新生児が「泣く」とはあまり言ひません。「産声(初声。うぶごゑ)をあげる」と言つて、喜びと感じるのです。医学的に言へば、出生により母体から酸素供給されなくなると、新生児の体内の血液内に二酸化炭素がたまります。この二酸化炭素濃度の急激な上昇が呼吸中枢を刺激して最初の吸気が起こります。そして、これに続いて呼気が起こります。この呼気が産声となるのです。そして、連続して呼気と吸気を繰り返すためには、呼気を強める必要があります。さうすれば自然と吸気も強まりまるからです。この呼気を強める呼吸方法は泣くときと同じ方法です。泣くときは連続して沢山の呼気が必要となるからです。ですから、呼気を強める呼吸方法の産声が「泣く」ときと同じ行為となるのです。決して悲しいとか苦しいので泣くのではありません。しかも、新生児は、こんな医学的な知識によつて理性的に判断して呼気を強めて産声を上げるのではありません。これは紛れもなく本能の働きなのです。

 人が生まれて初めて行ふこと、それは産声であり本能の働きです。そこに祭祀の原点があります。だから言霊として声を発する必要があるのです。産声こそ、生まれたことの喜びと感謝の祝詞なのです。古事記では、「むす」と「うぶ」といふ言葉が生命力の根源となる言葉として用ゐいられてゐます。いづれも漢字では「産」とか「生」を当てます。それゆゑ、誰であつても例外なく、喜びと感謝で誕生したのであり、怨念や生苦を抱いて生まれた人は誰一人ゐません。怨念や憎悪は後天的なものだからです。これも一つの例外もありません。ですから、この世に生を享けたことの喜びと、その縁起を得た両親への感謝は、仮に、その後に成長して理性の働きによつて怨念と憎悪が生じたとしても、「両立」できる関係にあります。仏教でも、「煩悩あれば菩提あり」と言ひ、迷ひがあつて初めて悟りがあるとしてゐます。感謝と怨念とは別のものであり、怨んでも感謝はできるのです。親を理性的に憎悪する人であつても、本能的な感謝はできるのです。そのやうな人こそ祭祀の神髄が理解できる最も近い立場にあると言へます。


平成二十二年二月四日(立春)記す 南出喜久治


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