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トップページ > 自立再生論目次 > H22.02.11 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第八回 礼と楽」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第八回 礼と楽

はれとけと うやとゆるとの あはひとり みだれなきよの ことなるもがな (晴れと褻と礼と緩(楽)との間(調和)取り 乱れなき世の事成る(成就)もがな)



関西のある高校の卒業式に関して実際に起こつた話です。ご多分に洩れず共産党員の教師が多いことから、卒業式を教師たちがボイコットすることが内々で密かに話し合はれました。しかし、ボイコットせずに、自分たちが卒業式の主導権を握るために卒業式に参加することになつたのです。そして、その式次第をどのやうに演出(妨害)するのかについての協議が続きました。

ある共産党員の教師は言ひました。「日の丸は掲げさせないし、君が代も歌はせない。そして、校長の祝辞の時も生徒に起立させない。」と。すると、別の共産党員の教師が意見を述べました。「しかし、保護者も参列するので、校長の祝辞のときの初めに起立させないとしたら、卒業式の威厳がなくなるのではないか。」といふ疑問を投げかけました。

ところが、その教師は、この発言によつて全員から一斉に白い目でみられ、その後は、他の共産党員から危険人物扱ひされて、卒業式が済んでから、この発言が原因で共産党を離党することになりました。しかし、その離党した教師(離党教師)は、決して前言を撤回しなかつたのです。ですから、離党せざるをえなかつたのですが、一体、離党教師のどこが問題だつたのでせうか。

それは、他の共産党員の教師たち(共産教師)は、卒業式をボイコットするのと同じ程度に無力化し、次年度以後の卒業生の卒業式を中止させるための演出(画策)をしたいのに、卒業式の意義を認めてそれを支持する方向で離党教師が意見を述べたことにあります。

しかし、離党教師が卒業式の意義を認め、素朴な気持ちでその威厳を守らうとしたのは、祭祀の重要性につながる大事な事柄に気付く糸口となつたのです。


それは、礼と楽の調和といふことです。歌舞伎などの演芸の世界で言へば、「メリハリ」を利かせることを意味します。極小の世界から極大の世界にかけて共通してゐるのは、いづれも調和と安定てふ(といふ)均衡が保たれてゐることです。分子などの極小の世界では、微少な振動や回転などが一見不規則に見えても全体的には調和して安定してゐます。また、独楽(こま)の運動についてもさうです。回転軸がゆつくりと方向を変へて回転する首振り運動は誰でも知つてゐます。これと同じやうに、地球の時点軸が約二万五千八百年の周期で首振り運動をしてゐるのです。これを歳差運動と言ひますが、事物が安定的に存在してゐるのは、周期的な回転や振動があるためです。手のひらの上に長い棒を立てて、これが倒れないやうにするとき、じつと静止してゐる状態では安定しません。手のひらを前後左右に動かして手と棒とのバランスを取つた方が棒が倒れずに安定するものです。つまり、形を収縮させる方向と拡散させる方向、陰と陽、緊縮と緩和、収束と拡散といふやうに、中心軸又は中心点から対照的に存在する両極への反復振動によつて動的平衡(振動的平衡)が生まれるのです。回転したり振動してゐる状態の方が、停止したり静止してゐる状態よりも安定した力と姿が保てるといふことです。

実は、儒教でいふ、「礼」と「楽」の考へ(礼楽論)も、同じことを説いてゐるのです。礼儀とか規範てふ(といふ)形による人の行動の戒めが「礼」であり、和歌(長歌、短歌など)と音楽(歌舞音曲、楽曲歌唱)などによる心の和らぎが「楽」です。つまり、緊張と緩和の節度ある営みによつて「忠恕」(まごころとおもひやり)を得ようとする智恵なのです。このことを「礼記」では、「楽は内を修むる所以なり。礼は外を修むる所以なり。」とか、「仁は楽に近く、義は礼に近し。」とか、「楽は同を統べ、礼は異を弁つ。」などと説明してゐますが、つまるところ、「礼」と「楽」が対極に位置しながら相互に作用し合ふ関係であるといふ意味なのです。もつとやさしく言へば、人は、気持ちを張り詰め続けることも、気持ちが緩んだままの状態でゐることも、どちらも能力を出して活動できないので、緊張と緩和をバランスよく調和させることによつて力が発揮できるといふことなのです。

このやうに、礼と楽は、緊張と緩和、ハレ(晴)とケ(褻)、静と動、陰と陽、月と日、外と内、義と仁、異と同、統と弁、理(理性、思想)と情(本能、情感、情念、心情)といふ対極関係のことであり、しかも、それは静止した状態で存在してゐるのではなく、あたかも時計の振り子の如く中心から左右に振幅し続ける動的平衡によつて調和と安定を保つてゐるのです。これらは、魂振(たまふり)による振動的平衡の雛形となつてゐます。


では、このことを踏まへて、先ほどの卒業式のことに戻つて考へてみます。離党教師は、「校長の祝辞のときの初めに起立させないとしたら、卒業式の威厳がなくなるのではないか。」と発言しました。このうち、「校長の祝辞のときの初めに起立」させるといふのは、祝辞が始まるときだけで、その後は着席させるといふ意味です。校長の祝辞が述べられてゐる間、ずつと起立させるといふ意味ではありません。ところが、それすらもダメだと共産教師は言ふのです。尤も、そのやうに明確に反論したのではなく、全員が白い目で見て離党教師の意見を黙殺するといふ陰湿な方法で示したのですが、どうしてそれすら認めなかつたのでせうか。


それは、この礼楽論から説明ができます。むしろ、共産教師の方が正しく礼楽論を理解してゐたとも言へます。「校長の祝辞のときの初めに起立」させることは、「校長が祝辞してゐる間、ずつと起立」させることよりも「卒業式の威厳」を保つことになるからです。共産教師は、それが許せなかつたといふことです。

このことについては、「ずつと起立」させた方が「威厳」をよりよく保つことになるのではないか、といふ疑問があるでせう。ところが、その威厳は、「校長の威厳」を保つことにはなつても、「卒業式の威厳」を保つことにはならないのです。「ずつと起立」は、校長に対する卒業生徒と列席保護者の「礼」ではありますが、「祝辞」を述べる人としては、祝辞の性質からして、「楽」の要素がなければ祝辞の真意が伝はりません。ですから、礼と楽とを調和させて卒業式といふ儀式の威厳を保つことになるのです。校長だけの威厳が突出すれば、儀式全体の均衡が失はれ、ひいては卒業式の威厳を損ねます。祝辞の中で、卒業生徒に対し、将来の生き方に対する箴言があつたとしても、祝辞であることに変はりありません。卒業式は、校長の独演会や生徒を叱責したり説諭するための集会ではないのです。そのやうな集会の場合は、着席させることは不要なことが多いのです。儀式や祭礼などの性質によつては、礼のみで貫かれれることも、礼楽均衡の一つとなります。

これと同じことは、結婚式の祝辞のときにも見られます。新郎新婦やその両家が来賓から祝辞をたばる(賜る)とき、新郎新婦と両家の関係者は起立します。これは来賓への礼です。しかし、大抵の場合、来賓は、新郎新婦らに着席を促し、新郎新婦らはそれに応じて着席するといふ光景を目にします。これも祝辞といふ場面での礼と楽の調和なのです。その配慮をすることが祝辞を述べる来賓の品格を示すことになるのです。

これは、祝辞を述べる時間が長いか短いかの問題ではありません。短いから起立したままでよいといふ便宜的なものでもありません。祝辞の性質からして、冒頭での起立、その後の着席といふことで礼楽の調和が保てるのです。そして、祝辞が終はれば、新郎新婦と両家の者が起立して礼を示すことによつて、式典に参加した人々の間に麗しい関係が築けることになります。そして、このやうな濃やかな配慮を重ねることによつて、全体としての卒業式や結婚式が、礼楽の絶妙の調和と均衡によつてその威厳が保たれることになるのです。


もし、生徒が一切起立しないとしたら、楽の要素だけになつて礼を失し、卒業式全体の威厳が損なはれることになります。逆に、卒業式の始めから終はりまで、生徒のみならず父兄などの参加者全員を起立させたままで挙行したとすれば、過度の礼と楽の皆無といふ歪なものとなり、これも結果的には卒業式の威厳を損なふことになります。

このやうに、礼楽の均衡は、祭礼や儀式などの調和と安定のために不可欠なものであり、その調和と安定によつて祭礼や儀式などの威厳が保たれるのですが、祭礼や儀式などは、その性質や目的などが様々であり、礼の内容も楽の内容も一様でなく、どのあたりが調和点であるのかについても一律ではありません。それぞれの時と場合によつて、それこそ模索的に振動的均衡によつて保たれるものです。


それでは、その後、この離党教師がどうなつたかの話をします。離党教師は男性ですが、その妻は看護婦であり、共に学生時代からの民青会員で早くから共産党に入党した共産党員夫婦でした。離党教師が離党したときと前後して、その妻もある事情で離党しました。詳しくは言へませんが、夫の離党教師の離党とは全く無関係に、これも他の共産党員の陰湿な策略によるものです。共産党では、一般党員の場合には滅多に除名することはありません。除名は社会的な波紋を広げて内部矛盾が露呈するからです。そのため、殆どは陰湿なイジメによつて離党を余儀なくさせるのです。このやうにして、離党教師の夫婦は、離党したのですが、その後は、自発的に共産思想を懐疑的に再検討し、私の助言にも大いに耳を傾けて、今では、日の丸と君が代の大切さも理解できるやうになりました。特に、妻の方は、祭祀の理解を深め、今では明確に反共の闘士として生まれ変はつてゐるのです。


ところで、今日は紀元節です。紀元節とは、いまでは建国記念日と名前の祝日となつてゐる日のことですが、これは、神武天皇が橿原の宮で践祚された神武肇国についての日本書紀の既述部分、「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」に由来します。「春正月庚辰朔」に肇国(建国)されたとあります。この「春正月庚辰朔」がどの日に当たるのかについては諸説ありますが、一般には、太陰太陽暦の正月朔日(元旦)であるとして、その日を太陽暦に置き換へて二月十一日とされたのです。そして、今日から三日後の二月十四日は、太陰太陽暦では正月(元旦)に当たります。ちまたでは、この日は太陽暦ではバレンタイン・デーだと大騒ぎして、キリスト教殉教者の記念日を祝つて、「にはかキリシタンごつこ」をしますが、その実質は、女性が男性にチョコレートを贈つて愛を告白するといふ日になつてゐます。いかにも軽薄で即物的な風習であるため民度がますます低くなる傾向へと向かふ現象です。大量消費に拍車をかける業者がこの日に便乗して過度の消費を煽る日でもあります。祭祀を重視するのであれば、このやうな軽薄な時流に竿を刺して、しつかりと紀元節と元旦の祭祀を実践してみてください。

アステカではメキシコ一帯で自生するカカオの実から採取されて作られるチョコレートは王侯貴族だけにしか口にできない稀少物として珍重され、これが貨幣としても用ゐられたことがありましたが、今では稀少物でもありません。しかし、我が国ではカカオの自給は全くできないのです。ですから、そのことを自覚し、自給率の向上を誓ふ日にしてもらいたいです。これ以上自給率は下がらず、これからは自給率が向上して行く日、いはば「自給率の冬至祭」にしてほしいものです。きつと、この離党教師の夫婦もそのやうに自覚して祭祀を行ふものと信じてゐます。みなさんも、バレンタインデーの大騒ぎといふ「楽」だけに流されることなく、厳かな祭礼といふ「礼」との調和を保つて、紀元節と旧正月のお祝ひと祭祀をしてみてはいかがですか。

平成二十二年二月十一日(紀元節)記す 南出喜久治


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