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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十回 祭祀と家族

おやこまご たちかはりたる よゝやから かはらぬものは いへのとこしへ (親子孫 立ち替はりたる 代々家族 變はらぬものは 家督の永遠)



家族の範囲と規模は、昔と比較すれば随分小さくなりました。昔と言つても、そんな遠い昔でなく、戦前と比較してでもさうです。江戸時代と比較すれば、さらに小さくなりました。しかし、江戸時代といふと、多くの人が想像するのが江戸の町です。ところが、江戸の庶民の暮らしは、特に、棟割り長屋での暮らしは、家族のあり方を考へるについては例外としなければなりません。江戸時代の家族のあり方については、江戸の庶民生活以外と江戸の町以外の全国における家族のあり方を参考にすべきです。


では、江戸の庶民の暮らしとはどんなものであつたかを簡単に説明します。

落語に出てくる八つぁん、熊さんが登場する長屋は、いはゆる「棟割り長屋」です。これは、一軒の家の棟木の下を壁で前後に分け、さらにこれに交差させて細かく仕切つた長屋のことで、殆どが平屋建であり、十戸から二十戸程度の住居に仕切つた集合住宅です。玄関の前には、長屋に平行して「どぶ板」があり、その下は洗ひ物の下水を流す掘り割りになつてゐます。便所は共同便所で、長屋の隅に一つあります。各戸を仕切るのは、薄い板壁か土壁で、多くは天井がない吹き抜けの構造です。間取りは簡単で、一枚戸の玄関を入ると、狭い土間の横に台所(かまど)があり、かまちを上がれば一部屋あるだけです。いはゆるワンルームです。間口が九尺(約二・七メートル)、奥行が二間(約三・六ロートル)のものです。九尺店(くしゃくだな)とも言ひ、「九尺二間(くしゃくにけん)に戸が一枚」と言はれたものです。

これは、「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれたやうに、火事が多く、木と紙の多い密集の住居は瞬く間に延焼するので、仮住まひのやうな粗末な建築しができなかつたのです。火事になつて大名屋敷や邸宅、そして長屋などが焼ければ、再築に必要な木材の需要は高まります。そこに目を付けて、木材を買ひ占めて売り惜しみし、値を吊り上げて暴利を貪つた紀伊国屋文左衛門(紀文)などの悪徳商人がはびこります。そのため、長屋の建築木材が、あまりの高値になるためにどうしても安普請になるのです。その悪循環によつて棟割り長屋は建て続けられました。なんとも「紀文(気分)」の悪い話です。

この安普請の狭い住まひでは、親子三人までの核家族が限界で、家族の会話も隣近所に筒抜けとなり、夫婦生活もままならないのです。もちろん、このやうなところで住むのは、そもそも貧しいからで、子供ができても満足に育てられません。ですから、独身生活者が多く、世帯持ちでもほとんど子供は居ません。これは、現代において、暴力的に金融資本主義が席捲して貧富の差が拡大し、プレカリアート(伊precariato)といふ造語で呼ばれる絶対的貧困層と似たもののやうに思はれるかも知れません。結婚、出産、育児といふ過程を経て、次世代の労働者を社会に送り出す基盤となるのが家族ですので、その家族生活をすることが経済的貧困のためにできない事情があることは同じです。しかし、この問題は、現代では、将来における労働の供給不能といふ危険をはらんでゐますが、江戸時代では現代とは大きく事情が異なりました。

それは、人口と寿命と職業についてです。我が国全体の人口もさうですが、人口が集中した百万人都市の昔の江戸と一千万人都市の現代の東京とでは十倍の開きがあります。また、職業については、現在ほど多種多様ではないとしても、就業率とか失業率について現在と比較して特段に異なる要素はありません。ところが、江戸に限らず、病気や飢饉などの食料事情のため、今よりも人の寿命は遙かに短いものでした。現在の平均寿命が八十歳とすれば、このころはその半分程度です。さうすると、転職、昇進といふ職業的流動性は現在よりも二倍程度あつたことになります。上役や親方などの職業的上位者が早く死ぬと下の者が昇格するので、その流動性が二倍程度大きかつたことになります。死亡で就業できなくなるだけでなく、隠居とか、病気などで就業できなくなることも多く、このことを考慮すると、さらに流動性は高かつたと思ひます。すると、九尺二間の住人にも早くお鉢が回つてくる機会が多くなります。つまり、江戸では、貧困層の底上げを円滑にする社会構造が出来てゐたのです。その点が現代のやうに殆ど流動性のない固定的な階層社会とは異なります。そして、九尺二間では住居に密閉性がないことから、そこから脱却したいといふ向上心を生む気風があり、徒弟修行にも身が入りました。プライバシーが守れない分だけ、「向三軒両隣」の近所付き合ひが濃厚となり、地域的な共助も生まれます。しかし、現代の密閉性に優れたワンルームマンションでは、快適さを感じて、そこから脱却したいといふ向上心を奪ひ、「隣は何をする人ぞ」となつて、無縁社会となり地域的な連帯はできません。そのことも大きな違ひです。比喩的に言へば、江戸の全体が「共同生活」の町であるのに対し、東京はその全体が「孤立生活」の集積地なのです。

棟割り長屋では、その土地と建物を所有する地主や大家(おほや)が居ます。地主や大家は、管理人である家主(やぬし)を雇つて、棟割り長屋の九尺二間を店子(たなこ。賃借人)に貸して店賃(たなちん。賃料)を集金し、その中から手間賃(報酬)を貰ひます。これだけなら家主には特段の利益はありません。ところが、家主には、棟割り長屋の共同便所(厠。かはや)の糞尿を売却する権利があります。当時、糞尿は今のやうに廃棄物ではありません。下肥(しもごえ)と呼ばれる肥料原料で、それを近郊の百姓や取引業者に売つて儲けます。それが家主の大きな収入源であり、この家主になる権利も高値で売買されたくらいです。当時の農業では、下肥以上に価値のある肥料はありませんでした。それほど貴重なものでした。いはば、江戸は、下肥の最大の生産地、肥料の供給地だつたのです。それを買ひ取つて池袋などの郊外地の畑に運び、肥壺に寝かせ嫌気腐敗させて肥料として使つたのです。ですから、下肥は江戸の特産品であり、その商品にも等級があつて、値段にも格差がありました。尿や雨水が多く混ざつたものは値段が低く、人糞でも、胃腸が丈夫で屈強な男子の人糞は完全消化してゐるので嫌気腐敗の速度が速いので高い値段がついたのです。

このやうに下肥を使ふ農法は、戦前まで続いてゐました。ところが、GHQの占領下では、これまで農業で用ゐてゐた人糞肥料を禁止し、化学肥料に依存させて、肥料の自給率を極端に下げることになつたのです。

ともあれ、池袋などに運ばれた下肥は、良質肥料として野菜を育て、収穫した野菜を持つてまた江戸へ出かけて売り捌いたり、糞尿と物々交換もしました。そして、畑の野菜を収穫した後の残渣などは小鳥たちの豊富な餌となり、小鳥たちがそれを啄み、ねぐらにしてゐる武蔵野の森や高尾山に帰つて、そこに大量の糞を落とします。それが森をさらに豊かにし、水を涵養しそれを江戸へ運びます。そして、棟割り長屋のドフ板の下を流れる生活排水は、江戸湾に流れ込み、食物連鎖によつて江戸湾の魚を育て、それが江戸前寿司の豊富なネタになるなど、水と物質の循環が実現してゐたのです。まさに、ここに「まほらまと」の原型がありました。

 しかし、欧米では、そのやうな環境モデルはありません。パリの町は、ナポレオンの都市計画によつて生まれた町です。町中の住宅街の中には一軒家の豪邸がありません。すべて画一的なアパートです。そこに住み着いて住居を移転することが少なく、家族が代々そこで暮らすので、生活費に占める住居費の割合が低いために、我が国のやうに、住宅ローンの返済で一生が終はるといふやうなことがなく、その分、生活の水準を高められるといふ利点もあります。しかし、パリの町では、効率化を求めるために、浄水と排水を一括的に供給して処理することとなり、生活排水と屎尿とはすべて廃棄物として一括処理するのです。便所が水洗便所となりました。それまでは、糞尿や汚物を窓から捨てるので、道は糞尿で埋め尽くされ、かかとの高い履き物でなければ、足やスカートにも汚物が付くのでハイヒールの靴が考案されたくらいでしたが、糞尿が水洗で流されるやうになつても、ハイヒールは履き続けられました。このやうに、糞尿や汚物を道に捨てるのは、李氏朝鮮の末期も同じです。ソウル(漢城)の町は、汚物とその悪臭で満ちあふれてゐたのです。江戸だけが世界的に見て、例外的にきれいで清潔な町だつたのです。ところが、我が国もまた、欧米の近代都市計画を猿真似して「文明」とやらに追随し、糞尿は廃棄物として無価値物となり、いまでは有料便所までができました。糞尿を提供する方が金を払ふのであり、金を貰ふのではありません。糞尿は有価値物から無価値物となり、そして、江戸が東京となりました。まさしく、これは「農村の都市化」といふ「文明」の野蛮さを示してをり、これを一日も早く方向転換して「都市の農村化」を実現しなければなりません。それが「まほらまと」の実現なのです。


余りにも前置きが長くなりましたが、棟割り長屋の生活は例外として、江戸時代もその後の明治時代も、家族の範囲と規模は、今よりも大きいものでした。それは、法制度と密接な関係があります。フランス民法を基礎としたボアソナード草案による「(旧)民法」を、明治二十三年に公布し、同二十六年から施行しようとしましたが、「民法出でて忠孝滅ぶ」との大論争の結果、その施行が無期延期(実質的な廃案)となり、今度はドイツ民法を基礎とした「(明治)民法」が明治三十一年に公布・施行されました。これには「家」の制度が取り入れられたのですが、それでも伝統に適さないとの批判があり、大正時代に改正が企てられたものの成功しませんでした。しかし、不十分ながらも、「戸主制度」といふ「家族秩序」と「家督制度」といふ「家産秩序」の概念がありました。「家」といふ概念であり、家名、一門、家督、家系の家族団体のことです。家には秩序と財産(家産)が必要です。個人的な所有権などの財産を認めることは個人主義です。そして、この個人主義により家の制度を完全に崩壊させたのが占領憲法であり、それに基づいて占領下に生まれた現行の「(占領)民法」です。

しかし、個人として自立できる期間は極めて短く、その期間がない人も居ます。そのため、家の秩序と財産があることによつて家族全員を代々支へることができます。ですから個人主義から脱却して家族主義へと転換する必要があります。個人所有から家族所有(家産、家督)へと移行することです。これによつて、刹那的な個人所有から永続的な家族所有へと収束して安定するのです。そして、家族単位で、食料、エネルギー、基幹物資の自給率を高めれば、社会と国家の自給率も高まつて、国家が安定し、世界は平和を実現できます。個人主義なら、家族も他人も同じとなり、助け合ふことや人に挨拶したり礼儀を尽くすことを求めることはできません。それを求めることは、個人の完全自立を意味する個人主義と矛盾するからです。しかし、家族主義なら、他人である隣人もまた、遠い祖先を共通する兄弟姉妹であるとの思ひから、助け合ひ、礼儀を尽くすことが自然にできます。家族内で秩序が必要なやうに、その雛形として連続してゐる社会内でも国家内でも秩序が必要であることが判ります。棟割り長屋に住む人々が貧しいながらも助け合つて心が豊かだつたのは、長屋の住人全部が一つの大きな擬似家族になつてゐたからです。このやうに、家族、社会、国家への雛形の構造を理解すれば、他人の誰に対しても、卑屈にならず尊大にならず、中庸を心がけて接することができるのです。これも祭祀の実践なのです。

平成二十二年二月二十二日(竹島の日)記す 南出喜久治


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