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トップページ > 自立再生論目次 > H22.03.12 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第十三回 本能と理性」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十三回 本能と理性

わけしるも いのちをすぶる わざはなし こゝろとさがは いきるいしすゑ (訳知るも(理性でも)命を統ぶる(支配する)技は無し 心と性(本能)は生きる石据へ(礎))


 明治の末期に生まれた流行歌に、「デカンショ節」といふのがあります。丹波篠山かいわいの盆踊りの歌が変化したもので、デカンショとは、「出稼ぎしよう」の意味だとか、いろんな説がありますが、それが旧制一高(東大教養学部の前身)の学生から全国に広がつたことからすると、このデカンショの意味には何か別の意図があつたと想像できます。その中には、デカルトの「デ」、カントの「カン」、ショーペンハウアーの「ショ」をつなげた名前だとする説があり、当時の思想的潮流をよく反映したものと今に伝はつてゐます。明治といふ時代は、デカルト、カント、ショーペンハウアーなどを主流とした欧米の合理主義(理性論)による啓蒙思想によつて日本の文化伝統が破壊し続けられてきた時期でもあり、デカンショ節は、その合理主義と啓蒙思想を象徴する時代のものだからです。


我 合理主義(理性論)とは、本能が悪で、理性が善であるとし、理性で本能を抑へることが人間の正しい生き方であるとするものです。また、啓蒙思想とは、その合理主義を啓蒙して、理性的判断と矛盾する因襲や迷信、既成の権威を否定し、人間性を尊重して新秩序を建設するのだとする思想運動のことです。フランス革命を肯定する啓蒙思想に染まつて行く我が国の状況を憂慮して、帝國憲法施行前に教育勅語が渙発されますが、それでも啓蒙思想の流れは激しくなり、ついにロシア革命までが起こりました。ソ連が崩壊した現在においても、この合理主義と啓蒙思想の勢力は強く根深いものがあり、これを淘汰しなければ世界の平和な未来は開かれません。


 では、この合理主義の誤りはどこにあるのでせうか。いくつもその根拠をあげることができますが、ここでは、簡単に三つのことをお話します。

 まづ、第一に、合理主義の誤りは、本能を悪、理性を善とした二分法の愚かさにあります。人の体の中に善をなす機能と悪をなす機能といふ二つの機能やその機関が分離して共存してゐるはずがないのです。ある人が利き腕の右手で人の物を盗んだとします。すると、悪いことをしたのは右手が悪いのであつて、左手は悪くないと言ふことができるのでせうか。そして、右手を切り落とせば二度と人の物を盗むことはなくなるでせうか。そんなことを肯定するやうな愚かさが合理主義にあります。本能も理性も、一つの心の作用で統一されてゐるもので、善と悪とに乖離させて区別できるものではありません。

 本能が悪ならば、本能だけで生きてゐる他の動物は悪事を重ねて自滅するはずですが、さうではありません。人間以外の動物は、生きるための糧を得るために殺生はしますが、それ以外のために殺生はしません。しかし、人間はそれ以外の場合でも無益な殺生をします。それは本能のためではなく、理性が正常に育たずに歪んだものになつたことが原因なのです。他の動物と異なり人間だけに理性があり、しかも、人間だけが無益な殺生をするのであれば、理性こそが無益な殺生をする悪の根源といふことになつてしまひます。少なくとも理性を持つ動物である人間だけが無益な殺生をするといふことの自覚が必要となり、理性を神聖視することの危うさを感じなければなりません。本能も理性も、一体として人間の心に作用するものですから、これを善と悪に峻別することは、どだい無理なことなのです。


 次に、理性ではコントロールできない事柄が余りにも多くあることです。理性には普遍性がないといふことです。人の心臓は休みなく働いてゐますが、これは本能中枢にある自律神経によるものです。理性といふ意識世界で考へて、意思によつて心臓を働かしてゐるのではありません。また、意思によつて心臓の鼓動を止めることもできません。外の臓器のすべてについて同じことが言へます。咄嗟の危険を回避する反射神経の働きについても同じです。私たちは、理性や意識を失つた者も生き続けてゐる事実を知つてゐますし、理性的に人格を完成させた聖人であつても、本能機能を失へば身罷ることも知つてゐます。本能が悪ならば、本能によつて生かされてゐる人間は、いくら物心が付いて理性を高めて善行を積んだとしても、やはりいつまで経つても悪の存在です。そんな悲しいことでは生きる勇気を失ひます。キリスト教の原罪の思想は、そのことを求めてゐるのです。禁断の果実を食べたのは、本能によるものではないはずです。自覚的に判断した結果ですし、それが原罪ならば、理性は悪になります。そこにも矛盾があります。もし、なによりも本能が悪として否定されるものであるなら、人間を含めその他の動物は、もつと早く自然淘汰されて自滅してゐたはずです。したがつて、心臓が働き続けることを悪としないのであれば、理性以外にも善なる働きをするものがあることを認めることになります。これによつて、本能=悪、理性=善、といふ図式は崩壊します。尤も、善悪の区別は、これまでも述べてゐるやうに、宗教的価値判断ではなく、本能適合性の有無を基準としますので、心臓が働き続けることは本能論からすると当然に善です。しかし、これを悪としない限り、合理主義の唱へる善悪二分論は成り立たないことになつてしまふのです。


 最後に、これらと関係することですが、本能と理性とは、その機能範囲が異なつてゐるのに、合理主義は、これを単純に比較してゐる点にあります。理性は意識世界に限られますが、本能は、それのみならず、広く不随意の無意識世界に根を張つてゐるます。しかも、無意識世界と意識世界とは峻別できず、相互に影響してゐます。そして、本能の無意識世界は、意識世界で制御しうる本能の領域のみならず、理性の領域にも影響を与へます。そうであれば、理性だけを抽出して善とし、それ以外を悪とすることは、分析学的手法においても完全に誤つてゐるのです。


 このやうな合理主義(理性論)は、必然的に「個人主義」に到達します。家族といふものは、合理主義からすると、理性的判断と矛盾する因襲の組織であり、既成の権威であつて、人間性を尊重して新秩序を建設するために否定すべき対象になるといふことです。実のところ、この個人主義は、宗教から生まれたものです。絶対神とご本尊の前では、個人個人の信仰が個別に問はれるのであつて、家族が一体となつて信仰することではありません。絶対神とご本尊の前では家族は意味を持たず、信仰については家族の秩序は無視されます。家族の秩序を持ち出して個人の信仰に口出すことはできず、信仰上では家族は解体されます。家族の絆は、ばらばらになつて一律に横並びとなり絶対神と向き合ふことになるからです。ここに個人主義の源流があります。


 なほ、日本仏教には、檀家制度といふものがありますが、これは布施をする信者の集団として家が単位として便宜的に使はれたもので、あくまでも信仰は個人単位のもので家族単位ではありません。特に、我が国では江戸時代に檀家制度が生まれますが、これはキリシタン弾圧の手段としての寺請制度と五人組制度と並ぶ監視制度によつて、事実上、仏教を国教化したことによる政策的なものですから、これも仏教の個人主義の教へとは何の関係もありません。


 以上のことからすると、この合理主義といふのは、宗教と哲学の思想の殆どに巣くふものであることが理解できると思ひます。ところが、現在の論壇の中には、特定の宗教的思想に基づきながらも、同じやうに合理主義を否定するする人が見受けられます。しかし、それは矛盾した偽物の批判に過ぎません。「宗教的判断」では家族を否定し、「世俗的判断」では家族を否定しないといふ二枚舌です。その宗教を布教するための方便として言つてゐるだけです。「嘘も方便」であると割り切つてゐるだけです。彼らは、仮に合理主義を否定しても、個人主義を自制させる程度のことしか言ひません。合理主義に代へて、家族主義の完全復活を主張しないのです。ましてや、最も重要な祭祀の復活は全く主張しないのです。このやうなハーメルンの笛吹き男のやうな言説に乗せられて、祭祀を否定する誤つた道を歩んではなりません。


 人は生まれてから死ぬまでの間、個人が一人ひとりで誰にも頼らずして自立して生活できる時期は殆どありません。あつたとしても極めて短いのです。完全な自由と人権なるものを保有する「全人」なるものは存在しえないのです。もし、それが存在するとしても、生まれながらに富裕であり、高度な教育を受けた者が成人に達して自立した状況になつて「全人」が初めて誕生するのであり、それも、老病によつて介護を受けることになつて死亡するに至るまでは「全人」ではなくなります。つまり、ほんの一時期しか「全人」では居られません。しかも、それは全人になるための教育と環境に恵まれた富裕者かつ健常者に限られてきます。貧困者又は障害者には法律的、政治的、現実的にその機会がありません。そのために、その機会を政府が保障して保護して底上げするといふのは、不平等社会を肯定した上での福祉主義であつて、個人主義の観点ではありません。個人主義とか、それに基づく現代人権論といふのは、生まれながらにして何人も完全な自由と人権が与へられてゐるといふ天賦人権論に基づくものであつて、完全な福祉的保障が与へてゐるといふこととは全く異なります。むしろ、天賦人権論と福祉主義とは矛盾した考へなのです。考へてみてください。そんな完全な自由や人権があるはずがありません。それゆゑに、個人主義とか現代人権論とは、全人でない者も全人であると無理矢理に看做して形式的平等だけを主張する偽善の思想であり、究極の差別容認思想として批判されるべきものなのです。人権を高らかに主張する者は、「差別主義者」であり、健常者のみが優遇されるとする傲慢思想に支配されてゐる者なのです。


 個人は刹那的な存在ですが、家族は永続的な存在です。これは比較相対的な真実と言へます。刹那的なものよりも、より永続的なものを基軸として我々の社会を再構築しなければなりません。永遠と思はれてゐる太陽ですら、約四十六億年前に銀河系の片隅に生まれ、約百億年後には水素を燃やし続けてヘリウムを中心部に蓄積させ、約百倍くらいに膨張して温度を急速に下げ、赤色巨星となつて寿命を全うするのです。それまで仮に地球が存在したとしても、少なくとも人類を含む生物の総ては死滅します。我々は決して永遠ではありません。時を経ることによつて、人類もまた老化し劣化します。だからこそ、これほどまでに長きに亘つて太陽に守り続けてもらつてゐることに感謝しながら謙虚に生きなければなりません。そのためには、私たちが御先祖様から命と魂を受け継いできた本能に忠実に生き抜くことです。これまで、御先祖様から永続して受け継いできたのは、命と魂を維持してきた本能の智恵によるものであり、それは本能のプログラムにおいて、より安定し健全なものとして天寿を全うするために組み込まれてゐるものなのです。これを尊重して守り抜かなければなりません。


 それでも合理主義と称する思想に惑はされて、さかしらく思ひついたやうな屁理屈で、刹那的な個人の自由と権利を永遠かつ完全であると絶対視するなどは決して正気の沙汰とは思はれません。これは、身を滅ぼすものであつて、このやうなことを思ひつき、これが正しいと信じるのは、まさに人類が老化し劣化して行く現象なのです。これは、「人類認知症」の症状です。また、ジェンダーフリーを唱へて、男性の女性化、女性の男性化といふ「中性化」を志向する者も、「人類認知症」の重症患者です。ですから、人類が再生し老化と劣化を防ぐには、本能を強化して、少しでも心身共に健全な生活をして生き長らえねばなりません。その実践の一つとして重要なものが祭祀なのです。祭祀は人類の本能です。やはり、人類は祭祀を基軸として生きていく存在なのです。




平成二十二年三月十二日記す 南出喜久治


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