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トップページ > 自立再生論目次 > H22.03.19 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第十四回 本能と秩序」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十四回 本能と秩序

えせおきて さがにかなはぬ ものなれど なまじそむけぬ たみこそあはれ (似非掟 性(本能)に適はぬ ものなれど なまじ背けぬ 民こそ哀れ)


長く変はらないものを「神聖」なものと言ひます。太陽や地球、そして月、さらに地球上の大地や山河など、荘厳、雄大で人々に多くの恵みをもたらす自然は、長くいつも変はらないものとして神聖なものと崇めるのです。これが人の自然な心です。誰かから、そのやうに感じるやうに命じられたり教はらなくても、それこそ自然に直観として湧いてくる思ひです。これが本能の働きです。

ところが、一神教の絶対神やご本尊は、人が想像で「造つた」ものですが、その造つたものから逆に人が「造られた」として、「想像神」を「創造神」にしてしまふのです。これが永遠なもの、神聖なものと教へ込み、それに疑ひを持てば地獄に落ちるぞ、と脅かすのです。

人の本能を司り、大宇宙を司る神が居るとすることは理解できます。しかし、数多くの宗教は、その宗教ごとにそれぞれ創造神や最高神が居ることを主張し、他の宗教の創造神や最高神は偽物であつて、我こそが崇める神は唯一の神であるとするのです。お互ひがそのやうに言ひ張るために、宗教の数だけ創造神や最高神が居ることになります。もし、ある宗教が最高不二の教へであるならば、どうしてその宗教に世界の人々が全部帰依しないのでせうか。そして、そのことから宗教同士が喧嘩し合つて殺し合ひまでしてゐるのですから、天地創造は複数の創造神が喧嘩しながら殺し合ひをしてできたのか、あるいは神々の争つた結果、一神だけが勝ち残つて造つたのか、と質問したくなります。


ある一人の子供の母親であると名乗り出た者が二人居て、そのどちらが真の母親であるかを決めるのに、子供の腕を掴んで引つ張つて奪ひ取り、その勝負に勝つた者が母親であると決めようとした大岡政談やうに、どちらが真の創造神であるのかを決めるとしたら、どちらかが他方を「迅速且完全なる壊滅」(ポツダム宣言第十三項)して決着させなければなりません。どちらの神も絶対神ならば負けることはありませんし、絶対神であるならば、絶対神の名を騙る似非神をいつまでものさばらすことは絶対にしないはずです。ですから、健全な本能の働きによつて、どちらの宗教にも疑ひを持つてゐる正常な人たちからすれば、どちらが勝つのか知りたいものです。しかし、どちらかが勝つて、他方を「迅速且完全なる壊滅」したとしたら、逆に、そんな恐ろしい宗教は却つて信じられないはずです。また、そこまでせずに、他方を活かし続けるのであれば、絶対神らしからぬことで、これも果たして絶対神であるのかどうかを疑はざるをえないことになります。これが「絶対神のジレンマ」といふものです。


特定の宗教を信じることになるのは、その人の家族環境や土地柄などの地域環境など様々な要因によつて決まります。そのため、様々な環境の相違によつて数多くの宗教が生まれるのは当然で、世界がどれか一つの宗教に統一できるはずがないのです。だから宗教は「神聖」なものではなく「世俗」的で地域的なものなのです。むしろ、人それぞれであることの現実に着目すれば、それぞれの人には否定しやうのない絶対的な真実である父母の存在、そして御先祖様の存在から、八百万の神々に到つた後に絶対神を想念した方が自然なのです。生まれた人には必ず祖先が居るとといふことは、永久に変はらないものであり、これこそが太陽や大地などと同様に「神聖」なものだからです。人の心のよりどころは、この「神聖」なものである「祭祀」によらなければならないのです。


このやうに、神聖なものとは、決して人によつて造られたものではありません。人が発見したものなのです。そのことは、法も同じです。根本的な法(規範国体)といふものは、祖先から受け継いだ「本能」に基づいた法体系である「祖法」として発見されたものなのです。後世の者が世俗的な法を造るときは、この祖法に適つたものでなければ人々の生活は乱れます。為政者の賢ら(さかしら)や思ひつきで造つた法を民に押し付けることは迷惑千万なことです。それゆゑに、法による秩序の維持とは、本能による秩序の維持のことであり、本能適合性のない法は、まさに「悪法」なのです。


この秩序に関して、動物行動学の研究でノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツは、理性論からすれば絶対的に「悪」とされる「種の内部のものどうしの攻撃」は本能適合性があると発表しました。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」であり、「本能は善」であつて、これを悪とする理性論は誤りであることを科学的に証明したのです。種内攻撃は、種内の秩序維持と種の強化、教育的進歩のためになされる有形力の行使ですから、本能適合性があり「善」であるといふことです。ですから、秩序維持などの目的ではない、むしろ、秩序破壊のための暴力は悪ですから、種内において制裁することによつて秩序を維持します。それゆゑに、この制裁は善です。

動物には、自己の私利私欲のために種内の動物を殺害することはありません。人間だけが私利私欲のために種内の動物(他人)を殺害することがあります。一般に、「人間らしさ」といふ言葉は、理性的動物といふ意味として良い言葉として用ゐてゐますが、実のところ「人間らしさ」といふのは、このやうに本能が歪んだり劣化したために罪を犯すことが、悲しいことに人間だけにあるといふ反省を込めた言葉として使はれるべきです。「人間らしさ」を良い言葉として使ふやうになつたのも合理主義の誤りの一つです。そして、人を罵る場合も、「犬、畜生」といふ言葉を使ふことがあるも同様で、人間は本来「犬、畜生」にも本能的には劣つてゐるのです。「犬、畜生」を否定的に用ゐるのも合理主義に毒された人間のおぞましき自惚れです。そもそも、「畜生」の「畜」は、「玄」と「田」で出来てをり、「玄」とは本源的なもの、黒いものを意味することから、「畜」とは、養分を沢山含んだ黒い土のことであり、そこから生まれたのが「畜生」です。まさに、自然の力の本源であり本能に最も適合した存在なのです。ですから、これを否定し侮辱する言葉として使つてきた伝来仏教は、やはり本能否定の合理主義であつたといふことです。


では、秩序破壊としての殺人が罪となつて制裁が加へられるのに、戦争で敵を大量に殺戮すれば英雄と褒め称へられるのはどうしてですか。人を一人殺せば犯罪者であるが、戦争で大量殺人をすれば英雄になるのは矛盾ではないか、といふ素朴にして健全な疑問があります。これについては、国内法と国際法との価値観が違ふのだといふ説明をする人が居ます。しかし、こんな説明では誰も納得しません。グローバルとか国際化とか、喧しく叫ばれる時代に、こんな論法で説得できるはずがないのです。

このことについても、合理主義(理性論)では説明できません。本能論でのみ説明ができるのです。


まづ、マルサスといふ人が、今から約二百十年前に『人口論』といふ書物を著して、人口は幾何級数的(等比数列的)に増加するが、食料生産量は算術級数的(等差数列的)にしか増加しないといふ人口法則を明らかにしました。人口と食料の不均衡は不可避的なものであり、このことは、現在では「マルサスの人口法則」として、人口問題を考へるについての公理として認められてゐる理論です。そして、ここでマルサスは、飢饉、貧困、悪政(戦争、内乱)などは人口調節のための人口抑制要因として自然的に生起する現象であり、資本主義経済など社会制度の欠陥が原因ではないとしたのです。つまり、戦争は善であると説いたのです。


いま、世界の人口の推移予測において、将来は八十五億人とか百億人とかの数字が発表されてゐます。しかも、地球の温暖化といふのは食料事情にとつては望ましいにもかかはらず、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)がデータを改竄してまで、これが大変だと言つて嘘をまき散らし、世界中が集団ヒステリーに陥つてゐます。本当は、そろそろ地球は氷河期に向かつて冷却して行くので、さうなれば食料確保は出来ずに餓死者が大量に出ます。それどころか、現在も、政治的要因や気象異変などによつて、世界各地に飢餓による多数の餓死者が出てゐます。

人類は、この合理主義とこれを装つたペテン師の言動に毒されて、地球上に生を享けたことに対する感謝と慎みがありません。経済万能の大合唱をして、経済しか人生の関心がなく、生産と消費の量に比例して幸福が高まると信じて、利益の追求と欲望の満足しか眼中にない状態です。そして、経済万能を基礎づける通貨に、人生最大の価値があるとする拝金主義を全世界の隅々にまで拡散して飽和状態に至つてゐます。さらに、「少子化」は経済を失速させるなどと喧伝して、「産めよ増やせよ」を肯定して、マルサスの指摘した人口問題を忘れ去つてゐます。しかし、人類による環境破壊の速度とその破壊の総量が、地球の再生能力による治癒の速度とその再生の総量を超えたとき、地球は再生不能の状態に陥つて、人類は「飽和絶滅」するのです。この飽和絶滅といふのは、たとへば、ガン細胞は、生体に限りなく増殖し続けても、それが生体のすべての臓器と細胞にまで及んで増殖の限界に達し、ガン細胞が飽和状態になれば、生体が死滅することになりますが、それによつてガン細胞全体も死滅するといふやうに、寄生の対象の生体全体に極限まで増殖して飽和状態になれば生体が死亡すると同時に、これに寄生したガン細胞も絶滅するに至るといふことを意味します。これが、地球環境に負荷を与へる人類と地球との関係に似てゐるのです。ただし、このまま人口が際限なく増えれば、人類は飽和絶滅しますが、地球はその後も滅びることなく、人類なき平穏な星として生き続けることになります。このやうに、温暖化などと騒いでゐる環境問題といふのは、人口問題への取り組みなくして解決できません。ところが、環境問題の本質は、まさに人口問題であることを合理主義者たちは誰も指摘しません。それは、人間の尊厳といふ合理主義の足かせのために口をつぐんでゐるからです。


この問題は、人類の生存に関はる問題ですから、一刻の猶予もありません。これを解決するにはどうしたらよいのかといふことですが、これも初めから人類の本能の中に、その解決方法が組み込まれてゐます。それは、飽和絶滅を回避するために、人類や民族の本能の中に、人口減少のためのプログラムがあるといふことであり、その現象として少子化傾向と自殺者の急増などがあります。これは適者生存による原理です。強者の子孫が適者となつて生き残り、弱者の子孫を減らして人口調整して種の保存を維持し強化する智恵です。少子化を食ひ止めて改善させる方策をとることは、むしろさらに少子化を加速させ飽和絶滅の危機を早めます。自殺者の減少を食ひ止める方策についても同様です。これらは個別的な政策だけでは改善できません。人類と民族の生存を続けるための根本的な方向転換がなされなければ解決できないのです。その解決策が拙著『國體護持總論』の第六章(同普及版第六巻)に書かれてゐますが、以下では、そのことを実践しなかつたら、どうなるのかについて説明します。


適者生存の原則は、家族、部族、民族、国家、世界のすべてを貫く本能の原理です。それゆゑ、食料争奪のための戦争が起こり、強い者が少ない食料を確保して生存を維持してきたのです。戦争の大半は、この食料・エネルギーの争奪戦争です。いはば「本能の戦争」であり「善(本能適合)の戦争」です。しかし、戦争の中には、宗教的、政治的、経済的な覇権のための思想戦争もありましたが、これは自己が「適者」である信じる理性によるものですから、「理性の戦争」であり「悪(本能不適合)の戦争」です。しかし、思想戦争の形態をとるものではあつても、実質的には自存自衛のために食料・エネルギーを争奪する戦争は、「善」なのです。本能に適合することが善であり、そのことが規範的には正義であることからすると、自国の生存のための戦争は自衛戦争であり「適法」なのです。まさに大東亜戦争はさういふ戦争でした。そのため、自国の生存を脅かす国家や勢力に対する戦争によつてなされる殺戮は、自民族、自国家に勝利と生存をもたらすものとして英雄視されます。これはまさに世界の秩序維持、飽和絶滅から人類を救ひ、適者生存によつて人類の秩序を維持・回復するための戦争ですから「善」なのです。ですから、秩序破壊のための犯罪としての殺人は「悪」であり、秩序維持、生存維持のための戦争による殺戮は「善」といふことが本能論から導かれるのです。

しかし、そんな極限状況となる戦争がないに越したことはありません。このやうな悲惨な結果を生む「善」の戦争に至らないために、その事前の予防策としての道を選択し、民族と国家の自己保存を実現させることもまた本能の働きであり、その方策を実践するのも「善」なのです。その方策が前掲の拙著に書かれてゐるのです。


ところで、最近は「保守」の意味が混乱してゐます。「伝統保守」と「戦後保守(占領保守)」の区別ぐらいは、ぼんやり理解できるのでせうが、伝統保守の伝統とは何を意味するのか。そもそも保守とは一体何を守るのか、といふことが殆どの「保守風味」の人々には判つてゐません。万世一系の皇統と國體を護持することが伝統保守だと言ふ人が居ます。それは決して間違ひではありませんが、それだけでは國體を護持できないことが判つてゐないのです。また、「國體とは国家本能の体系である。」といふことも判つてゐないのです。

保守とは、単に守ることではありません。たとへば、文化財の建物を永年保存する場合、そのための保守管理をするには、優れた修繕の技術と方法がなければ意味がありません。文化財を、ただ単に、「触るな」、「それ以上壊すな」と叫ぶだけで、壊れた箇所を修繕することすらできないし、その方法も知らないのであれば、単なる口やかましい監視員にすぎません。それでは保守管理できません。このやうな類は、「監視主義」ないしは「苦情主義」であつて「保守主義」ではないのです。

つまり、保守が「善」であるためには、それが本能に適合してゐることが必要です。本能に適合しない保守は善ではなく悪です。それゆゑ、善なる保守とは、これまで述べてきたとほり、家族、部族、民族、国家の本能に適つた秩序を守ることです。その秩序は祭祀の実践から始まります。

祭祀なき保守は伝統保守ではありません。伝統とは祭祀の実践であり、その実践を通じて社会全体を覚醒させ、秩序として実現させなければなりません。秩序維持のための種内攻撃は善であり、攻撃は最大の防御です。伝統保守とは、国家本能による秩序を維持のために積極的に種内攻撃して守り続けることなのです。




平成二十二年三月十九日記す 南出喜久治


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