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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第十七回 祭祀と学習

かそいろの あとにしたがひ てならひて おのづとつぐる のりとことのは (父母の 後に従ひ 手習ひて 自づと告ぐる 祝詞言の葉)


これまでの話をまとめますと、①合理主義(理性論)、②個人主義、③宗教、④主権論の四つは、一括りにすることができます。もちろん、合理主義には、それから派生する唯物論とか進化論、それに主権論(天皇主権、国民主権)、啓蒙思想、天賦人権論、社会契約説、現代人権論などと言つたものを含めてのものですし、その意味からすると個人主義も合理主義に含まれ、さらに宗教も個人主義に含まれるので、合理主義に全部入れてしまつてもよいみたいです。

しかし、どうしてこのやうな分類にするかと言ひますと、合理主義(理性論)と個人主義と宗教と主権論とは、これにそれぞれ対応する対立した基軸があるからです。それは、①本能主義(本能論)と②家族主義と③祭祀と④國體論の四つであり、図解すると下のやうになります。


   ○ 本能主義(本能論) ← →  × 合理主義(理性論)
   ○ 家族主義       ← →   × 個人主義
   ○ 祭祀         ← →   × 宗教
   ○ 國體論        ← →   × 主権論



この四つの対立する○(本能適合性あり)と×(本能適合性なし)で比較した基軸をしつかりと覚えて身に付けておいてください。


ただし、私たちは、この「本能」、「家族」、「祭祀」、「國體」の四つですが、他の人が、これとは正反対の理性、個人、宗教、主権の四つの信奉者であるとは限りません。合理主義や個人主義は否定したり制限したりするのですが、宗教は肯定し、主権論も肯定するといふ人も居るのです。実際に存在するか否かは分かりませんが、論理的に分類すると、理性、個人、宗教、主権の四つをそれぞれ肯定するか否定するかの組み合はせによつて、全部で十六通りのケースがありえます。そもそも理性、個人、宗教、主権の四つは、根本は共通してゐますので、全部肯定する以外の考へ方は中途半端なもので、自分でもその矛盾に気付いてゐない人の考へです。


私たちは、このやうな合理主義者、個人主義者、宗教者、主権論者と論争して、彼らを説得することが必要ですが、頭が硬化して若さを失ひ、これらの思想が全部こびり付いてゐる人は、すでに本能が劣化してゐますので改善の見込みはなく、論争してもお互ひの自己満足で終はることが多いと思ひます。しかし、その人以外にその論争を聞いてゐる人があれば、時間と根気が許す限り、その傍聴者に聞かせるために論争してみてください。

そのことの実践があなたの意識を高め、それが生きた学習となつて、さらに日々の祭祀の実践に大きな影響をもたらします。祭祀の実践の中で、さらに決意を新たにし、そして、そのことがさらに論争の実力を高めてくれるはずです。


これもまた伝統保守運動の実践であり、相手の御先祖様を、こんな頑迷な親不孝者から救つてあげる機会を得たのだとの自覚をもつて教へてあげてください。相手の御先祖様に聞かせて差し上げるのですから、相手の御先祖様の話からしてあげるとよいでせう。いきなり、合理主義とか主権論のことを言つても、無明ゆゑの反発が先に出て肝心のことが心に届かないはずです。


鎌倉の円覚寺に釋宗演といふ禅僧が居ました。宗演は夏目漱石の禅の先生であり、あの悪名高き一知半解の鈴木大拙の師匠でもあります。あるとき、アメリカの宗教学者が宗演を訪ねて、いろいろと話をするのですが、その宗教学者は、宗演が何を言つても反論しました。すると、宗演は、その目の前で茶碗に茶を注ぎ、それが溢れても注ぐのを止めなかつたのです。それを見た宗教学者がそのことを注意すると、宗演は「あなたの心の中はこの茶碗と同じで、先入観に満たされてゐます。心の茶碗を空にしなければ、禅といふ新しい知識は入りません。」といふ意味のことを言つたさうです。だからと言つて、その宗教学者がこれで先入観を捨てたとは思ひませんが、大きな課題を与へられたと思ひます。

ですから、この宗教学者のやうに先入観で一杯の人と論争してその場で打ち負かすことは難しいことなので、時間の関係もありますから、そのことよりも、その後でもこれらのことについて考へ続けるだけの課題をその人に与へてあげてください。


頑迷な人でなければ、家族のこと、御先祖様のこと、本能のこと、家の宗教のことなどを話して行くうちに、自然と何かに気付きます。それが本能です。そして最後は祭祀の重要性に気付き、それが國體を護持することになり、それによつて自分も生きることの意義を理解できるやうになるのです。

このやうにするのが他人との接し方です。他人と思つてゐても、遠い御先祖様で相手と繋がつてゐるとの予感を抱いて接してみてください。それが「かみ」への奉仕ですから、これも立派な祭祀です。


勿論、自分の家の祭祀を怠つてはいけません。祭祀の実践は家族を守ることです。着実に祭祀を実践し、祭祀の生活を習慣づけることが、本能を強化し家族を守り続けることであつて、祭祀によつて世界平和を達成できることを自覚する必要があります。そのためには本能を強化し続けることです。本能を強化するためには、学習と実践が不可欠であり、そのためにも堅固な祭祀の習慣を身に付けることです。


その学習と習慣に関してですが、これについてさらに少し話をします。人間でもその他の動物でも同じですが、食べ物が口の中に入ると唾液が出ます。これは生得的な本能的反射です。この動作に意識が介在することはありません。つまり、食べ物が口に入ることの刺激があれば無条件に唾液がでます。この刺激のことを無条件刺激と言ひます。そして、それによつて唾液が無意識に無条件で出るのを無条件反射と言ひます。この刺激と反射の関係について、パブロフといふ人が犬を用ゐた実験によつて、条件刺激と条件反射の関係を明らかにしました。それは、犬にベル(メトロノーム)の音を聞かせる刺激(条件刺激)を与へると同時に餌を与へるといふ操作を繰り返します。すると、餌を与へられて口に餌が入り(無条件刺激)、唾液がでます(無条件反射)。ここまでは同じです。ところが、そのとき、犬にベル(メトロノーム)の音を聞かせることを何度も同時に聞かせることを繰り返すと、犬は学習します。ベル(メトロノーム)の音がすれば餌が出てくると学習するのです。すると、犬は、ベル(メトロノーム)の音を聞いた(条件刺激)だけで唾液を分泌(条件反射)するといふ実験の結果となりました。つまり、反射を起こす刺激と、それとは無関係な刺激とを同時に繰り返すと、後者の刺激だけで反射が起こります。本能作用としての反射は、学習と経験によつて後天的にもつくられるといふことです。


また、この「本能」と「学習」に関連して、「刷り込み」といふ言葉があります。これは、生涯の特定時期に急速に行はれる特殊な形の学習によつて習慣的動作が身につくといふことです。たとへば、生まれて間もない時期に、接触したり目の前に動くものを親として覚え込んで追従する現象のことを言ひます。極端な例とされてゐるものとして、狼に育てられた人間の子供が、狼を親と認識し、その行動様式も狼をまねて同じになるといふやうに、授乳期に自己に乳を与へる授乳者を親と認識してしまふといふやうな学習の一形態のことです。

さらに、掛け算九九の暗誦や、タイプライターの操作、パソコンのキーボード操作のやうな技能習熟、自動車運転の技術習熟、教育勅語、祝詞、経文などの暗誦なども、学習することによつて自動化された習慣的動作として身につきます。音や動作や体の動きを総合した記憶です。俗に「体が覚える」といふ記憶です。これを運動感覚的記憶(手続記憶)などと呼びますが、これは、過去に経験した事物や事象、動作と同一のものを再度経験するときに熟知感を持つて確認(再認)することの感情を伴はないものです。易しく言ふと、感情とは別に体が勝手に動き、口から勝手に言葉が出てくるといふことです。これも条件反射の一種であり、その記憶は、他の陳述記憶(機械的記憶、図式的記憶、論理的記憶など)とは異なつて、比較的長い期間保持される長期記憶となります。


従つて、このことを踏まへると次のことが言へさうです。つまり、親を慕ひ御先祖様を敬ふ心が生ずるのは本能であり、祭祀を実践することの意欲が出る感覚までは本能ですが、実際にこれを継続した習慣として実践することは学習によつてのみ得られるといふことです。学習によつて得られた記憶と習慣は、本能を強化し、その本能の一部として組み込まれるのです。堅固な祭祀の習慣を身につけるには、運動感覚的記憶(手続記憶)にまで高めることであり、時間があれば四六時中祭祀を実践することが必要です。


家族のこと、御先祖様のことを意識したとき、あるいは何か悩んだり迷つたりしたとき、いつでもどこでも合唱し、柏手を打ち、拝礼して感謝し、教育勅語や祝詞などを奏上するのです。また、近くの社寺に行き、子供のころに、親の後に従つて、社寺や教会に参拝したりした感覚や作法を思ひ出し、そのときに奏上した教育勅語や祝詞、それに読経した経文や念仏、題目などを唱へてみることです。宗教や宗派の教への作法のとほりにする必要はありません。自分が一人だけ浄土や天国に行くためにするのではなく、家族の安全と繁栄や御先祖様への感謝のために参拝してください。学校でも、職場でも、出張先でも、移動中の乗り物の中でも、近くの社寺や教会のどこであつても、少しの静寂が得られる場所を求めて、瞬時なりとも簡素であつても必ず実践するのです。幕末の僧、月性の述べた「人間(じんかん)到るところ青山(せいざん)あり」といふ至言はこのやうに受け止めることもできます。さうして実践を重ねて行けば、個人主義に毒された傲慢さが抜け、祖霊とすめらみことに対する欽仰の念に満たされて人生の充実感が得られこと必定です。




平成二十二年四月九日記す 南出喜久治


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