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トップページ > 自立再生論目次 > H23.01.05 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第二十二回 祭祀と宗教」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第二十二回 祭祀と宗教

おやまつり すてゝすくひを もとめても しゝこらかせし こちたきくらし
  (祖先祭祀 捨てゝ救ひを 求めても 縮凝らかせし 言痛き暮らし)


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『お大の場合』(The Case of O-Dai)といふ短編の作品(「明治日本の面影」講談社学術文庫)がある。これは、松江で起こつた実話に基づくもので、祭祀と宗教を考へるにおいて、避けては通れないテーマを描いてゐるので、少し長くなるが、以下に引用する。



それはこんな話である。お大といふ娘が居た。理由は解らないが、彼女は、家族をすべて亡くしてゐる。家には、仏壇があり、その奥の観音菩薩像の前には小さな厨子がある。厨子の中には、彼女の一家の位牌が五つ入つてゐる。祖父母と両親、そして弟の位牌である。さらに、代々の祖先の戒名が書かれた巻物も入つてゐた。

「お大は、子供のころからこの厨子の前で手を合わせては拝んだものだった。」

「少し前まで、この位牌と巻物は、彼女の信仰にとって、大きな意味、いまよりもはるかに大きな意味をもっていた。父親の愛情のおもいで、母親の愛撫のおもいで・・・・(中略)・・・いたずらっ子で、よく甘えた声で呼びながら駆けていた弟の笑いと涙、いい伝えにきいた先祖の人達のはなし、それらすべてにもまして、大きな意味があったのだ。」

ところが、「お大は二人のイギリスの宣教師のいいつけで、そのこと(厨子から位牌と巻物をとりだして、それを窓から下の川へ捨てた)をしてしまったのだ。女宣教師は見かけは親切らしいことをして、彼女にクリスチャンになるように説き伏せた。(改宗者は、祖先の位牌を埋めるか捨てるようにいつも命じられた)。この地方に、はじめてきた女宣教師たちはただひとりの改宗者であるお大に、助手として月々三円を支給する約束をした。お大は読み書きができたからである。彼女の手仕事では、月に二円以上かせげることは、これまでついぞなかった。彼女はそのなかから小さい古道具屋の二階をかりている部屋代二十五銭を払わなければならなかった。両親の死後、彼女は祖先の位牌をそこにもちこんだ。生きるために彼女はこれまでじつに働きづめに働いてきた。しかし月三円あればまあ楽に暮らすことができたし、宣教師は彼女に部屋もあてがったのだ。お大は人々が自分の改宗に気をかけるなどとは思いもしなかった。」

「事実、世間の人々はあまり気にしなかった。かれらはキリスト教について何も知らなかったし、また知ろうともしなかった。異国の女の真似をするなんて馬鹿な娘だと、笑っただけだった。かれらはお大を、その手にのせられやすい女だと嘲ったが、悪意はなかったのだ。人々はそんなふうに彼女をおもしろ半分にからかっていたが、それは彼女が、位牌を川に捨てる姿を見られる日までだった。」

「位牌を捨てたその日から人々は笑うのをやめた。かれらはお大の動機などにはおかまいなしに、ただその行為だけで判断した。判定は、即座の、全員一致の、しかも声なき審判だった。一語として非難のことばを、彼女に言わなかった。かれらはただ、彼女の存在を無視しただけだった。」

「日本の地域社会における道徳上の憤慨は、いつもぱっと燃えあがる熱いものとはかぎらない。冷ややかなものもある。お大の場合には、氷が厚くはっていくときのように、冷たく無言で重苦しかった。誰も口に出しては言わない。まったく自発的、本能的だった。」

その後、「思いがけないことに、女宣教師たちは、お大に自活するようにと知らせてきた。おそらくお大は最善をつくしたのだろうが、宣教師たちにとって彼女は何も役にたたなかったことはたしかだった。彼らには有能な助手が必要だったのだ。さらに、彼らは、しばらくのあいだその土地を離れることになり、お大をいっしょにつれてゆくことはできなかった。・・・」

「お大は泣いた。すると女宣教師たちは、勇気をだして、正しい道をすすみなさいと教えた。お大は、職を見つけることができないのですというと、二人は、この忙しい世の中に、勤勉で正直なら、仕事がみつけられないということはありえません、といった。そこでお大は、恐怖におののき、必死でかれらに事実を説明した。宣教師たちは、それを理解できないばかりか、頑固に信じようとしなかった。お大は身の危険が目前にさしせまっていることを打ち明けた。すると女宣教師たちは、お大がまったく堕落したことを告白したのだと思いこみ、考えられるかぎりの冷酷さでこれにこたえた。かれらはこの点で誤解した。この少女には悪徳のかけらもなかった。人のよい気の弱さと子供っぽい信じやすさが彼女の欠点といえば欠点であった。じっさい彼女は助けが必要だった。それも一刻をあらそった。なにがなんでも助力が必要だった。しかし宣教師は、ただお大がお金をほしがっているのだと解釈し、金をもらえなければ罪を犯すといっておどかしていると理解したのだった。金はいつも前金で払ってきたのだから、こちらには何も借りはない。だからこれ以上お大がどんな助力を要求しても拒否するりっぱな理由かあるのだと女宣教師たちは考えた。」

「そこでかれらは、彼女を路頭に出してしまった。すでにお大は家財を売ってしまっていた。もう売るものは何もない。着ている着物一枚と役にたたない足袋が数足あるだけ、その足袋も、若い女が素足でいるのを見られるのは、たしなみがないと考えて、宣教師たちがむりやり買わせたものだった。(かれらはまた、日本風に髪を結うことは信仰にそむくからといって、無理やりいまわしい束髪に結わせていた)。」

「孝行の道に背いたと世間から有罪を宣告された日本の少女はどうなるだろう? 不貞と世間から判断された英国の少女はどうなるだろう。」

「もちろんお大が強い女だったら、袂に石を入れて、川に身を投げたかもしれない。ああいう事情のもとでは、そうするのが、立派なやりかただっただろう。あるいは喉をかき切るとか。これは、度胸と手練を要するからもっと見あげた行為になろう。けれども彼女の階級の多くの改宗者と同じように、お大は弱かった。この民族のもっている勇気が、彼女には欠けていた。彼女は、まだ死にたくはなかった。かといって、生きる権利を得るために世間ととっくみあってゆくようなしたたかな女ではなかった。自分のおかしたあやまちを世間にみとめたのちには、彼女に残された道はひとつしかなかった。」

「お大の肉体を、請われた値段の三分の一で買いとった人は言った。

『うちの商売は人前でいえない恥ずかしい商売だけど、こんな商売でも、あんたのようなことをした女を、ひきとるわけにはいかない。そんな女を入れたらお客はばったり来なくなるし、いろいろめんどうなことになる。だから大阪へいってもらおう。そこなら誰もあんたを知らないから。金は大阪で払うことにするよ・・・』

こうしてお大は、都会にうずまく肉欲の坩堝のなかへ投げ込まれ、永久に消えた。・・・おそらく彼女は、外国の宣教師の誰もが努力して理解しなければならない事実の、一例を示すためのみ存在した女だったのだろう。」



この物語の意味するものは深くて大きい。ひとつ言へることは、布教といふ名目で宗教組織の勢力を伸ばすために人を道具とし踏みにじりながら、表向きは人を救ふとする宗教の「欲望」が一人歩きしてきた歴史をかいま見ることができやう。祭祀の本質は「感謝」であり「本能」であるのに対し、宗教の本質は「欲望」であり「合理主義」であることがよく解る。そして、祭祀の機能は「人類の融和」であるのに対し、宗教の機能は「人類の対立」である。このことは、これまで「祭祀戦争」は一度もなく「宗教戦争」が限りなく繰り返されたことで証明されてゐる。従つて、人類の平和を実現するには、宗教を捨てて祭祀に回帰することしかないのである。これは、そのことを確信させる物語である。

平成二十三年一月五日記す 南出喜久治


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