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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第三十六回 大和心と祭祀

おやかみを いつくこゝろの まめしさは やまとこゝろの まなかにそびゆ
(祖神を 齋く心の 忠實さは 大和心の 眞中に聳ゆ)

大和心(やまとごゝろ)とは何かと人に尋ねてみたとき、漢心(からごころ)ではない、大和魂(やまとたましひ)、大和心延へ(やまとこころばへ)だと説明されても、何のことかよく解りません。漢心とは違ふと云ふのであれば、それでは漢心とは何かと尋ねると、大和心ではないものであるとの答へが帰つてきて、結局は循環論法に陥つてしまひます。


敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花(本居宣長)。

このやうな直観で説明した方が、論理で説明するよりも理解できるものが大和心なのかも知れません。


一般には、自然で素直、清浄、そして、優美で柔和、寛容、しかも勇猛果敢な心が大和心であると説明されてゐますが、それでは、漢心はその対極にあるのかと云へば、さうとも言ひ切れないのです。支那などの外国には大和心と同じ心根が一切なくて、我が国だけにある心根といふものでもなさそうです。民度の違ひにより、その心根を持つ人々の割合や程度の違ひがあるにせよ、どの国にもどの民族にもそれなりに持つてゐる心根であり、決して我が国だけにあるものでもありません。これは、有無の問題ではなく、程度の問題なのです。


この有無の問題と程度の問題とを混同してしまふと、いつしか外国人や外国の文物等を全否定する「排外思想」に陥つてしまひ、その結果、一番肝心の大和心を失つてしまふといふジレンマに向き合ふことになります。排外思想の実践に執念を燃やし、他民族を十把一絡げに罵る人は、完全に大和心を失つてゐます。個々の行為について、大和民族であらうと他民族であらうと、それが誰であつても、正しいものは正しいとし、誤つてゐるものは誤つてゐるとして行動することが大和心の実践のはずです。しかし、排外思想といふのは、二者択一のデジタル思考であるために、行為の正邪ではなく、民族の相違だけですべて決着をつけてしまひます。人の心や実践とは無関係に、他の民族に悪口雑言を浴びせて全否定しますので、誰に対しても嫌悪感を与へるだけで、誰からも納得と共感を得ることができません。欲求不満のはけ口として単なる自己満足に終はり、自らを虚しくし誰も幸せにしません。


類は友を呼ぶが如く、霊格の低い排外思想に染まつた人々が群れて閉鎖社会を作り、群集心理に勢ひを借りて排外活動を繰り返し害悪を撒き散らします。少しでも大和心を理解しようとする他民族全体を離反させてしまひます。このやうな排外思想に染まつた人は、初めは大和心に目覚めてゐたのかも知れません。ところが、様々な要因により排外思想に凝り固まつて大和心を歪め、憎悪を際限なく拡大して結局は大和心を完全に失つてしまふといふ皮肉な結果となるのです。実に悲しいことです。


また、「排外思想」も大和心ではないのと同じやうに、骨の髄まで漢心に染まつた藤原惺窩などの「拝外思想」もまた大和心ではありません。これは一字違ひですかせ大違ひです。外国人や外国の文物、思想、生活様式などに極端に反発して自己を見失ふ「排外思想」は勿論のこと、これとは全く逆に、これら外国人や外国の文物などのすべてを崇拝して自己を見失ふ「拝外思想」も大和心とは相容れません。これまで、大和心の反対語を漢心(からごころ)として使つてきたことから、漢心といふ拝外思想に対抗しようとして、その対極として排外思想が生まれたのです。


そして、これが大和心と同じであるとの錯覚が生まれました。しかし、大和心は排外思想とは無縁です。排外思想と拝外思想とは両極端に位置し、いつの時代にも両者の対立がありましたが、大和心は、これとは隔絶した中庸の位置にあつて均衡を保つてきたのです。

また、排外思想は、国粋思想とも異なります。大和心は国粋思想と親和性があります。排外思想は、外国人か否か、外国の文物か否かといふやうに、内外の領域(境界)を意識しますが、国粋思想は、国の中心に聳える基軸の気高さ(誇り)を意識します。いはば、排外思想は「水平区分」であり、国粋思想は「垂直区分」と云へます。


ところで、この大和心と似たものとして、武士道があるとされてゐます。武士道と同じだとする人すら居ます。みだりに人を殺したり、攻撃することは武士道ではないとしますので、大和心と同じだとすることにも一理ありさうです。


しかし、武士道といふのは、歴史的には武士の起こりとその進展に由来するもので、主君のために命を捧げることが基軸となつてゐます。武士とは、庄園の発達段階において、百姓(公民)から公家の僕として年貢を徴収し外敵から庄園を防衛する役割を与へられた武装集団(自給自足集団)から発展したのですから、主君の命令(主命)に忠実に従ふのが武士の本領です。武士の起こりにおいて、その主君は公家であり、そして公家は天皇に仕へることから、武士は間接的には天皇に仕へることになりますが、一般的には、親兵(天皇の親兵)や北面の武士(上皇の親兵)のやうに、直接に天皇や上皇の指揮を受けて警護する役目とは異なります。


歴史的には、主命に忠実であり、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」として死地に臨む胆力を練り上げることが武士の本領であることから、その後、このことを基軸として、時代が下がるとともに大和心を取り込んで構築されたものが武士道なのです。

ですから、武士道は比較的新しいものであり、それ以前の大和心の総体と全く同じものではありません。武士道と大和心とを同じとすることはできませんし、武士道だけを以て大和心を再構築するといふのも、少し無理があります。


では、何を以て大和心を再構築するのでせうか。それは、やはり祭祀の実践です。武士道(もののふのみち)は祭祀の道につながります。そして、大和心の源流は祭祀であることを再認識する必要があります。


祭祀の道を守ることによつて、大楠公(楠木正成)に従つた小楠公(楠木正行)の歩んだ「忠孝一如」、「忠孝両全」に到達します。「ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち」といふ感謝道を進んで、祖先祭祀、自然祭祀そして英霊英傑祭祀を実践すれば、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」といふことが自づと理解できます。また、祭祀の道は、和歌の道であり、大和心とは歌心であることも解ります。さうすると、前に掲げた本居宣長の歌も心と体にしみこんでくるはずです。


この感謝の心は、祖先から命を受け継ぐことができたことの素朴な気持ちが生まれます。そして、今日に至るまで命を育んでもらつた自然、社会や国家を守り続けた英霊と英傑に感謝する心を伝へるのが祭祀です。この感謝の心は宗教からは生まれません。宗教は神仏に感謝するものであるといふ反論がなされさうですが、宗教の本質は、「恐怖」です。恐怖から逃れるために神仏にすがります。それによつて逃れられると信ずることによつて感謝が生まれます。つまり、この感謝は恐怖の裏返しであり、恐怖から救済してもらへることの切実な期待です。ところが、誰も救済されることの保証を貰つてゐません。さう信じてゐるだけです。神仏がほんとうに居るのか、そして、救つてもらへるのか、といふ保証は全くありません。すべては、こんなことを一切疑はずに、無条件で信じることから始まるのです。


あなたは神の子です、仏の子です、と牧師や僧侶などから云はれても、実感は湧きません。しかし、親から、お前は私の子だ、と云はれれば直ぐに納得できます。神の子とか、仏の子である前に、親の子であるとの自覚が必要です。それが祭祀の入口です。


職業的宗教家から、神仏に守つてもらつてゐるし、救つてもらふので感謝しろと云はれても、どんなふうに守つてくれて救つてくれるのかなどと、ついつい聞きたくなります。ところが、そんなことを聞くのは神仏を疑つてゐることになるので信心が足りない、そんなことを云つてゐると地獄に落ちるぞ、もつとしつかりした信心を持て、などと云はれて脅かされます。そこで、しかたなく地獄に落ちる恐怖から逃れるために、信心を持とうとするのです。しかし、疑ひも持たずに「盲信」できる人は僅かです。「盲信」と「妄信」とは紙一重です。そして、殆どの人は信心を持つた素振りをするのです。信心を持つたつもりでゐるのですが、それは「妄心」です。ですから、やはり信心とは恐怖の裏返しとなる奴隷道徳の実践となつてゐるのです。


オーストリッチ(ostrich)はダチョウのことですが、この言葉には、現実逃避者(危険逃避者)とか、事なかれ主義者の意味があります。どうしてそんな意味があるのかといふと、ダチョウは危機に遭遇すると砂の中に頭を隠すとの謬説があつたからです。今でもそれを真に受けてゐる人も居ますが、動物の本能行動として、生命と身体を、より危険な状態に晒すやうな行為をするはずがありません。これは、ダチョウにとつては、余りにも事実とかけ離れた不名誉なことであり、迷惑千万な話です。


しかし、どうも、ダチョウを罵つた人間の方こそが、現実逃避者であるかも知れないのです。人間こそがオーストリッチ(ostrich)な生き物だといふことです。人間は、地獄に落ちるとの恐怖感に襲はれたとき、砂の中に頭を隠すやうに、宗教の中に身を置いて不安を誤魔化し、神仏にすがつてそのことを考へないやうにするからです。

ダチョウを見るたびに、そして、オーストリッチ(ostrich)の言葉を耳にする度に、根拠のない自惚れや独善思想、排外思想と拝外思想には、天に唾する愚かさがあり、これらもまたすべて「宗教」なのだと気付かせてくれるのです。


人が作つた観念の産物が宗教的な神仏であり、その作られた神仏から逆に人が作られたとするのが宗教の持つ最大の矛盾ですが、そのことを認識してはいけないし、そのやうな観念を捨て去つて思考停止することを宗教(団体)は求めます。思考停止した状態のことを「信心」といふのです。ところが、祭祀では、そんな矛盾はありません。

宗教も様々なものがあり、そこで説かれる徳目も祭祀の立場から肯定できるものはたくさんありますが、御先祖の崇拝を否定し、あるいはこれを認めるとしても、ご本尊への信仰を最優先させることについては、すべての宗教に共通してゐます。

祖先(祖霊)に従ふか神仏に従ふかの二者択一を迫まる究極の思考実験において、祖先(祖霊)をとるのか祭祀であり、神仏をとるのか宗教です。

祭祀も宗教も、広い意味では信仰ですが、感謝から生まれたのが祭祀であり、恐怖から生まれたのか宗教です。この点が重要なのです。


ですから、大和心は、宗教を起源とするものではなく、祭祀を起源とするものです。宗教は、「鰯の頭も信心から」と云はれるやうに様々なものがあります。世界には数へ切れない数の宗教と宗教団体があります。もし、大和心が宗教を起源とするものであれば、宗教ごとに大和心があるはずです。しかし、大和心はそんなものではないのです。大和心は一つです。祭祀も一つです。それぞれ親は別々ですが、だれでも親が居て、そのまた親が居る、御先祖が居る、といふ真実は一つなのです。


Aといふ宗教団体のaといふ神仏を信じ、aの救ひを受けてその子となつた人が、後になつて棄教し、Bといふ宗教団体のbといふ神仏を信じてbの救ひを受けてその子になれるといふことがあります。いはゆる宗旨変へです。宗旨変へを否定することはできません。これは、信教の自由と呼ばれてゐます。いつでもどこでもどんな神仏の救ひでも受けられてその子になることができるといふことです。人が観念で神仏を作つたのですから、人はどんな神仏でも選べるわけです。自由といふか、ご都合主義といふか、そんなことが認められてゐるのです。


棄教されたAの側では、その人は棄教によつて地獄に落ちると追ひ打ちをかけて脅かしますが、それは後の祭りです。そして、Bの側では、よくぞ勇気を出してAといふ邪教を棄教してBに入信したとして、そのことを褒められ、天国(極楽)行きを保証すると云つてくれます。しかし、その人が、aの神仏(の罰)によつて地獄に落ちるのか、bの神仏の力によつて天国(極楽)に行けるのか、一体誰が判定するのでせうか。AもBも宗教団体の組織防衛のために、信者に対して飴と鞭を使ひ分けて脅したり褒めたりするだけで、それこそ神仏のみぞ知る真実において、誰が天国(極楽)に行き、誰が地獄に落ちるかといふ真相は全く解つてゐないのです。


人が亡くなると、マスコミもさうですが、弔辞を述べる人が、「天国に召された○○さん」と口を揃へて故人の遺影に呼びかけます。たいていの宗教では、自殺すると地獄に落ちるとか、少なくとも天国には行けないとするのに、現代社会には、自殺、他殺、病死、事故死などを問はず、すべての人は天国に行くといふ「天国教」といふものがあるみたいです。ところが、確証もないのにそのやうな言葉が吐かれる深層には、地獄に落ちることの恐怖が横たはつてゐるのです。


故人に「天国に行つてほしい」といふ希望と哀悼の気持ちはあるものの、その確証がないことから、「天国に行つたか地獄に落ちたかが解らない○○さん」とするのが本心のはずですが、決してそれをそのまま言葉に出しては云へないのです。ですから、それだけで弔辞はウソになるのです。

しかし、祭祀の道を弁へれば、こんなとき、故人に対して、嘘偽りなく心から「祖霊となられた○○さん」と呼びかければよいのです。


祭祀の道は、感謝に始まり感謝に終はるので、御先祖様のみならず、その命の鎖を守り育んでもらつた自然(産土など)やご英霊を大切にし、その命を受け継いでさらに子孫へと伝へることの勤めを自覚することですから、御先祖らに感謝の誠を捧げて日々祭祀を勤める子孫を御先祖が虐げるはずがありません。御先祖が、子孫に対し、地獄に落ちるぞと云つて脅かすこともありません。


親心といふものは、仮に自らが地獄に落ちても子孫や祖国だけは守るものです。ご先祖や親や子供よりも自分だけが救はれればよいとする宗教(個人主義思想)に毒されないのが親心です。もし、地獄に落ちれば、御先祖から受け継いだ永遠の命が地獄に落ちることになり、御先祖も一蓮托生になります。そんなことを御先祖が喜ばれるたり望んだりされるはずがありません。


ですから、楠木正成、正季兄弟の「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候ヘ」とする、七生滅敵、七生報国の決意が祭祀の心です。退屈で怠惰な天国(極楽)で暮らすよりも地獄に落ちることを覚悟して滅私奉公のため再生を繰り返すことをひたすら祭祀を実践して祈り続けるのです。


楠木兄弟、楠木親子が歩んだ道は、地侍の道であり、それは、自給自足による自立再生の道でした。これは祖先祭祀に「手作り」のものを手向けることであり、それを完璧に追求して行くと、自立再生の道につながるのです。経済的な観点からすると、分業体制から脱却することが自立再生(まほらまと)の道を歩むことになります。自給力を高め、自給率を上げるといふことは、物流的な意味において鎖国(制限貿易の究極)を目指すことですから、前に述べた排外思想、とりわけ、物質的に限つた排外思想と似たところがあると思はれるかも知れません。しかし、排外思想は「排外」そのものが目的であるのに対し、分業体制からの脱却(まほらまとの実現)は「自立」を目的とし、物質的排外はその結果にすぎません。


昔、左翼思想がファッション化したとき、口先だけは左翼でも日常生活は保守であるとする「口先左翼の生活保守」といふ自嘲的な批判がありました。それと同じやうに、口汚く口先だけで排外的な言辞を露悪趣味的に唱へる多くの人達の日常生活はどうかといふと、衣食住のあらゆる生活面において、外国からの輸入品に頼つて拝外生活をしてゐるのです。いはば「口先排外の生活拝外」です。そんな人がいくら発言をしてところで、底が知れてゐますし、誰も相手にしません。大事なことは、祭祀とまほらまとを再生する強い志と勇気による実践です。

御先祖に恥づかしくない生き方。御先祖から「でかした!」と称讃される心根と生き様。民族本能の発現。御先祖を通じて皇祖皇宗へと遡ることができることの感動。ご皇室と國體を護持し続ける志と勇気。そして、その誇り。これらが大和心の真中にあり、これは祭祀の実践から湧き上がります。死しても御先祖の霊魂と一体になり、ともに子孫と国家の繁栄を見守ることの喜びを祭祀の実践によつて味はふのです。


これまで歴史的に解かれてきた万人の認める徳目や道徳律、人生訓などは、大和心を培ふものであり、祭祀の道から当然に導かれるものです。これは万国に通ずるものであり、我々は、率先垂範して大和心を他の民族にも及ぼして世界に貢献すれば、真の意味で世界の恒久平和を実現できるのです。

平成二十四年三月一日記す 南出喜久治


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