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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第五十四回 ウラとオモテ

わがうらの やすけくたもつ すべとはば おやのまつりに まさるものなし
  (我が心の 安けく保つ 術問はば 祖先の祭祀に 勝るものなし)

この講座の第四十三回「ウチとソト」では、これまで対義語(反対語)と思はれてゐた言葉について取り上げました。

一般には、対義語(反対語)とされてゐても、「ウチとソト」の区別も厳密に考へると簡単ではないやうに、二者択一的、二元論的に区別出来そうなものが、実際には、さう単純明快には出来ないものが世の中には沢山あるといふことです。

このやうな言葉は、「デジタルとアナログ」、「ストックとフロー」、「直線と曲線」、「理性と本能」、「静と動」、「表と裏」、「前と後」、「ハレ(晴)とケ(穢)」、「聖と俗」、「精神と物質」、「雄と雌」など、他にも数多くあります。

「アマとアメ」(第五十二回)「オキテとノリ」(第五十三回)と連続して、これらと同じ視点に基づいて取り上げてきましたが、今回は、その締めくくりとして「ウラとオモテ」について述べてみます。


結論を言へば、「ウラとオモテ」とは、「ウチとソト」の区別を形而上的に捉へた区別ではないかと思つてゐます。


「ウラ」とは、ココロ(心)のことであり、漢字語では、裏、裡、浦、占、卜もすべてウラと読みますが、これらは同語源の言葉です。「心」と同様に、裏、裡、浦、占、卜も、隠れたもの、隠れた所、見えないものだからです。ウレ(末)が変化してウラと読むことがありますが、これは語源も異なり意味も違ひますので、ここでは省きます。


ウラは、ココロのことですが、もつと詳しく言へば、意識して隠すつもりはなくても表面に表れずに隠れてゐる心のことです。これは、「シタ」(表面に表すまいとしてこらへて隠してゐる心)とは異なります。シタとは、つまり下心(したごころ)のことです。


他方、オモテとは、オモ(面)+テ(接尾語・方向)です。ウラテ、ヨコテ、カミテ、シモテなどに対する言葉です。オモ(面)のモ(正面)とは、セ(背面)の反対の意味です。

シタのやうに、意図的に表面に表すことを隠さなければ、オモヒ(思ひ)は顔に表れるので、オモヒとは、「面霊」のことです。オモテ(表)とは、顔面に向く方向ですから、オモヒ(思ひ、面霊)と同源です。普通の場合は、思ふ事が顔に表れるのです。

「目は口ほどに物を言ふ」とは、自然と顔に表れる思ひ(感情)を目つきによつて言葉で伝へる以上に意識的に表現することを意味します。


このやうに見てくると、ココロといふそれ自体は直接に見えないものには、次の三つの種類があることになります。1.「ウラ」(意識して隠すつもりはなくても表面に表れずに隠れてゐる心)、2.「シタ」(表面に表すまいとしてこらへて隠してゐる心)、3.「オモヒ」(自然に表れたり、あるいは意識的に表面に表すことができる心)の三つです。


ウラは、意識的に表面に表すまいとする努力が加はるために表面に出ないだけで、その努力をしなければ自然と表面で出てくるココロです。ですから、ココロには、「表面に表れることがないココロ」と、「表面に表れることがあるココロ」の二種類があり、後者には、さらにシタとオモヒとの二種類があり、合計で三種類あるといふことです。


他人にココロを伝へ、あるいはこれを他人には伝へないといふ選択は、コトノハ(言葉、言語)を用ゐる場合は容易にできます。コトノハで表現するか否かは、デジタル的に選択できます。これに対して、シタとオモヒは、コトノハ(言葉)以外である表情で左右されるものですから、それが隠し切れたか否か、伝へ切れたか否か、これが相手に伝はつたか否か、といふやうないくつかの不確定要素で左右されます。その意味ではアナログ的です。つまり、コトノハは、「綸言、汗の如し」のやうなデジタル世界ですが、ココロはアナログ世界にあると言へます。


そして、ウラは、そもそも表面に表れないものですから、コトノハを通じてでなければ絶対に表面に出てくる可能性がないものです。ウラには、自覚して認識しうるウラもあれば、認識しえない(潜在的な)ウラもあります。理性から潜在意識や本能に至る無限連続的な無数のウラの世界が広がつてゐるのです。

しかし、特定のウラがコトノハで表されたとき、そのウラ自体が変質することになります。表には出ないものが表に出れば、それはウラでなくなるからです。オモヒと同じになるからです。


自己の隠されたウラが表面に出れば、それが正確にコトノハで表現されたものであればまだしも、不正確なものであれば、それは隠されたウラとは異質の別物となります。ウラは、コトノハよりも次元の高い世界のものです。コトノハだけでは、さらに複雑で立体重畳構造のウラを充分に表現することはできないのです。高次元の事柄が、オモテ(顔色)やコトノハ(言語)といふ低次元のもので表現できるはずがないからです。二次元世界の住人が三次元世界の事象を理解できないといふことです。

「沈黙は金、雄弁は銀」といふ西洋の諺がありますが、沈黙することに説得力があるといふ意味ではなく、いくら雄弁を尽くしても限界と誤謬があり、それを自覚すればするほど沈黙せざるを得ないといふことを意味してゐるのです。


しかし、我が国には、ウラをコトノハの表現技法によつて真意を伝へる方法があります。それがウタ(和歌)です。まるで、メビウスの輪(帯)のやうに、ウラのココロがコトノハによつてオモテに出て、またそのオモテからウラのココロを伝へることができます。自己の全人格や全存在を一首に読み込むことすらできるものです。

祭祀の民(日本人)は、死に際して辞世を詠みます。死に際して、くどくどと解説的で雄弁なる遺言を残すことを潔しとせず、辞世のみを残す奥ゆかしい遺風は、祭祀の民以外にはありません。


辞世のウタの中には、自己の死についてあれこれと解説したものは一首もなく、すこぶる比喩や寓意に満ちてゐます。

『國體護持総論』第一章では、物事の真理を説く場合に、比喩や寓意を用ゐるのは「雛形理論」で説明がつくと説明しました。言葉を論理的かつ雄弁に駆使しても、それより高次元に存在する真理に到底到達できないときは、いはば雛形理論に基づいて、いはば梃子の作用(レバレッジ)を使つて真理に迫ることができるからです。たとへば、『法華経』の比喩法による経説は、壮大な真理の構造を説明するについて、そのままでは理解しえないことから、その雛形を示して理解させるためでした。

このやうに、物語といふ比喩を用ゐる方法もありますが、これには難点があります。長文で饒舌になり、無駄が多く、「雄弁」であるが故に、本質論から離れたところで解釈論争がなされるといふ弊害が多く出てくるからです。


そこで、祭祀の民が編み出した最高の智恵があります。それが、ウタです。三十一文字に込められた比喩と寓意によつてウラの雛形を表すことができるからです。


他国の国歌のやうに、饒舌で修飾された生々しい説明文ではなく、我が国の国歌が「君が代」といふ和歌によつてクニカラ(國體)を示す雛形となつてゐることは誇らしい限りです。


きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで


これは、ヤマトコトノハのみによつて表された正統和歌であり、我がクニカラを端的に寓意したものであつて、「ムスヒ」(産霊)の雛形を示してゐます。

サザレイシ(細石)がイハホ(巌)となるといふことは、核分裂や核家族化などのやうな「分裂」ではなく、太陽系を含む宇宙の普遍原理である核融合と家族の統合などの「融合」を意味し、拡散から収束へ、個人から家族へと、記紀に示された始源神の産霊の神の働き讃へることを意味します。

そして、それが「コケノムスマデ」といふのは、水と生物の営みによる統合で自立再生の世界が実現できるといふことになります。イハホとは、イハ(岩)+ホ(秀)であり、そのオモテをコケが覆ふのです。コケ(苔)とは、コ(木)+ケ(毛)であり、イハホは、オノコロシマ(自転島=地球)の雛形であり、コケは地球上の生命の雛形です。


このやうに、「君が代」には、普遍的で壮大な世界観が示されてをり、国歌のみならず、世界のどこにも、これほど端的でかつ的確な作品はありません。これを国歌として戴く我が国は、まさに、コトタマノサキハフ国なのです。


そして、最後に、みなさんの生活に密着して欠かせない「オムスビ」は、この「君が代」の雛形であることを知つてほしいのです。

サザレイシ(米粒)がイハホ(巌)のやうにココロとして結ばれて、そのオモテをノリ(海苔、コトノハ)で包み込んだものがオムスビだからです。

オムスビのことをオニギリ(お握り)とも言ひますが、ニギリは、ニギ(和)+リ(連用名詞)の意味なので、これでも悪くはありませんが、できれば、「君が代」を連想するオムスビの方がコトタマの力が強くなります。

私達は、記紀、ムスヒ(産霊)、天孫降臨、稲穂、君が代、コメ、ノリ、オムスビといふ連想と現実の中で今も生活してゐるのです。その思ひを今様歌にしたのが、「あまつうた」です。「いろはうた」ではその思ひは届きません。「あまつうた」を祭祀の実践生活の中で詠唱して実感することによつてより深い喜びを噛みしめることができます。

平成二十五年九月一日記す 南出喜久治


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