自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H26.05.01 連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編 「第二回 プレスコードと占領憲法」

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二回 プレスコードと占領憲法

てをつかね ひざをかがめて うけいれし あだのてしたを うちてしやめぬ
(手を束ね膝を屈めて受け入れし仇(GHQ)の手下を討ちてし止めぬ)

もうすぐ今年も5月3日(似非の憲法記念日)がやつて来ますが、この虚構の記念日の存在こそが「戦後レジーム」の象徴なのです。
 占領憲法は帝国憲法を改正した形式になつてゐますが、さうであれば、「憲法改正記念日」とすべきで、本当の「憲法記念日」とは、帝国憲法の施行日である11月29日のはずです。「敗戦」なのに「終戦」と言ひ、「占領軍」なのに「進駐軍」、「解放軍」(日本共産党)と言ひ、「日本弱体化」、「社会主義化」を「民主化」と呼び、そして、停戦後の「被占領状態」、「抑圧状態」のことを「平和状態」とすり替へ、「停戦時限定憲法」にすぎないものを「平和憲法」と言つてみたり、自衛隊を軍隊ではないと強弁したりします。そんな占領憲法の虚構が積み上げられてきた原因の一つに、GHQ主導で占領下に「憲法普及会」といふ全国組織が作られて、占領憲法が自主的に制定されたすばらしい憲法であるとする大嘘の大洗脳運動が展開されたことが挙げられます。全国的に繰り返し繰り返し広範な洗脳運動がなされることによつて占領憲法の正体が隠蔽され、占領期の国民を完全に欺してきたのです。そして、それが第二世代、第三世代へと洗脳状態が引き継がれて現在に至つてゐます。

敗戦直後の我が国は、巷には戦争孤児や浮浪児などの「欠食児童」が溢れ、戦争による食料生産が著しく低下したことによる食料難の状況で、多くの軍人軍属が復員したこともあつて、食料の絶対的不足の状況が起こり、当然のやうに多くの餓死者が巷に溢れました。戦争孤児たちは、米穀通帳がないので配給米すら受けられずに多くが餓死しました。野坂昭如氏の『火垂るの墓』といふ作品もこのやうな時代を描いたものでした。

食糧管理法による食料配給は戦前では機能したものの、敗戦後では、国民の命と健康を到底保てません。ですから、国民は、最優先課題であるこの死活問題に対処するために、緊急避難として闇米(闇物資)に手を出します。しかし、それを罰則を以て禁止する違反者を裁く東京地方裁判所の山口良忠判事は、その矛盾と格闘し、闇米などを口にすることを拒んで餓死してしまつたのもこの頃でした。
 この時期は、憲法改正の是非とその内容の是非を直接に問ふ総選挙も行はれず、国民の手の届かないところで憲法改正作業が続けられ、巷では、「憲法よりも米よこせ」といふデモが繰り返された最中に起こつた事件でした。「正直者は馬鹿をみる」と言つた言葉で、世間は山口判事の死を冷たく捉へました。

憲法普及会では、政府の財政支出により『新しい憲法 明るい生活』といふ全文30頁に亘る洗脳文書を2000万部発行して、全世帯に配布しました。餓死者の総数は戦死者を遙かに超えてゐましたが、闇米や闇物資はGHQや政府によつて横流しされ、それを特権的、優先的に得て豊かな生活を維持してきた政府首脳、官僚、政治家、憲法学者などで憲法普及会は構成され、GHQの走狗となつて踊らされ、「憲法よりも米よこせ」といふ一般国民の声を無視して、飢餓に苦しむ国民に食糧を与へるよりも腹の足しにならない洗脳文書を与へ、これに協力する者には闇米を与へたのです。

また、GHQは、このやうな方法以外に、キリスト教の教会を経由して、国民をキリスト教に改宗させるために、教会に救ひを求めて群がる人々にも特別に闇米を横流ししたのです。このやうなキリスト教宣教師による洗脳工作は、支那での反日・侮日運動にも利用されましたし、朝鮮戦争時における韓国でも用ゐられました。しかし、これだけは結果的に我が国では改宗効果がなかつたのです。支那や韓国では、キリスト教信者を多く増やして今日に至りますが、我が国では、歴史的にもキリシタン禁教令で阻止されたやうに、宣教師による洗脳に欺される人は少なかつたものの、占領憲法をすばらしいものだとする憲法普及会を中心とする洗脳運動が余りにも大規模で徹底的であつたために、結果的には洗脳は大成功を収めたのです。

ですから、占領憲法は、「闇米憲法」です。国民が「闇米」で命をつないでゐるドサクサに紛れてできたものだからです。また、「米」(GHQ)が「闇」(思想統制下、言論統制下)に紛れて作られた偽憲法であることも意味します。「正直者が馬鹿をみた」欺瞞の姿が占領憲法だつたのです。

米(GHQ)が闇(思想統制下、言論統制下)で作つたのは、占領憲法だけではありません。様々な法令や制度、政策などがあります。それを国民に疑問を抱かせずにGHQの思ふとほりに推進させるためには、思想統制、言論統制、検閲が必要です。そのためのものが「プレスコード」です。プレスコード(Press Code for Japan)とは、GHQの軍事占領下で、新聞などの報道機関を完全統制するために発せられた諸規則を言ひ、江藤淳氏の調査によつて公式に証明されたもので、以下の30項目に及びます。
1 SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2 極東国際軍事裁判批判
3 GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4 検閲制度への言及
5 アメリカ合衆国への批判
6 ロシア(ソ連邦)への批判
7 英国への批判
8 朝鮮人への批判
9 中国への批判
10 その他の連合国への批判
11 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12 満州における日本人取り扱いについての批判
13 連合国の戦前の政策に対する批判
14 第三次世界大戦への言及
15 冷戦に関する言及
16 戦争擁護の宣伝
17 神国日本の宣伝
18 軍国主義の宣伝
19 ナショナリズムの宣伝
20 大東亜共栄圏の宣伝
21 その他の宣伝
22 戦争犯罪人の正当化および擁護
23 占領軍兵士と日本女性との交渉
24 闇市の状況
25 占領軍軍隊に対する批判
26 飢餓の誇張
27 暴力と不穏の行動の煽動
28 虚偽の報道
29 GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30 解禁されていない報道の公表

これらは、今もなほ、マスメディアに生き続けてゐることが実感できるはずです。それは、占領憲法が、プレスコードによる洗脳政策の総仕上げとして、講和独立後においてもプレスコードを固定化するために必要な装置だからです。
 つまり、占領下で保身のために受け入れたマスメディアはGHQの走狗となり、現在もその路線を突き進んでゐます。

その中心となつてゐるのが、NHKや各民放、大手の新聞社など殆どのメディアが加入してゐる『社団法人日本新聞協会』です。この協会は、このプレスコードによるGHQの検閲実施下において、GHQの指導により誕生したGHQの傀儡団体です。この協会が定めた新聞倫理綱領の美辭麗句の建て前とは裏腹に、今日までの經緯は、占領期間中のみならず、その後現在に至るまで、これらの検閲と思想的偏向を許容する運用がなされてきた欺瞞と食言の歴史そのものです。その原因は、建て前では「民主主義的新聞社」を標榜しながらも、実質はGHQの反民主的な検閲を無批判に受容し、これについての自己批判すら行はずに、そのまま現在まで報道姿勢を踏襲してゐるといふ、致命的な根本矛盾に起因するものです。現在では、一部マスメディアのみが排他的特権を享有する「記者クラブ」といふ名のギルド社会は、その見返りとして得た利権であり、この利権を維持せんがための反民主的な存在にすぎません。表向きは「民主主義的新聞社」の団体としてゐながら、その実質は、GHQの検閲とプレスコードを受忍して命を長らへてきた集団です。これが、見せかけの「新聞倫理綱領」なるものを定めて、恰かも「民主主義」の旗手のやうに振る舞つてゐますが、GHQなき後も、忠実な番犬として東京裁判史観を堅持して偏向報道を垂れ流しするメディアのギルドとして存在してゐます。

このプレスコードの真つ先に掲げられてゐる「1」は、占領政策を進めるについて絶対的に必要な検閲ですが、次の「2」と「3」は、まさに占領政策の要諦です。東京裁判と占領憲法とは、戦勝国である連合国が敗戦国日本を断罪して、再び連合国に反抗する脅威とならないやうに、歴史観と国家基本構造を連合国の都合のよいやうに塗り替へるためのものです。そして、「4」から「30」までは、それを実現するための具体的な項目として網羅的に列挙されたものです。

現在、メディアに露出してギャラを稼ぐ保守風味の学者やタレントなどの言論人(電波芸者)が、プレスコードの「4」ないし「30」についての検閲から解き放たれたやうな素振りをして、さかんに言論活動をしてゐます。ヘイトスピーチ同様の口調によつて「反○○」といふ憎悪を煽り、賛成か反対かといふ二分法のデジタル思考を好む単細胞的な大衆に対して、このやうな二項対立的な単純図式で争点を矮小化させる電波芸者たちとこれらを持ち上げる太鼓持ちたちがメディアにおいて幅を利かすのです。

ですから、電波芸者たちは、プレスコードによる占領政策の要諦となつてゐる「1」ないし「3」については、あまり批判したり詳しく分析、論評することはしません。電波芸者の大半は、単細胞的な論述を好む大衆に単純かつ歯切れのよい著作物を売りつける売文業者ですから、この1ないし3は総論的な事項であるため、これらに関する著作物は少し高度な内容となるため大衆向けとしては売れないことを知つてゐるからです。
 ですから、「1」ないし「3」については、刺身の具として、簡単に述べるだけで、その著述の大半は、受け狙ひの「検閲批判」に集中させたり、これら検閲の後遺症である領土問題、靖国問題、慰安婦問題、教科書問題などに反発する大衆のフラストレーションのはけ口のための著作物を発行したり論述したりします。これでは、「モグラ叩き」ゲームに過ぎず、占領政策を全体を総括するにおいて、木を見て森を見ずといふことになつてゐます。

このやうな保守風味の電波芸者たちのこれまでの言説を全体的に観察してみると、次の性癖が見て取れます。まづ、保守風味だといふのは、伝統保守の立場とは似て非なるものといふことです。そして、これらの電波芸者たちの本心は、なんと「戦後レジームからの脱却」を決して望んではゐないといふことです。羊頭狗肉の類ひです。
 プレスコード「1」ないし「3」を本格的に批判すれば、必然的に東京裁判や占領憲法を全否定することになります。さうすると、その後は売文業者の営業が続かないのです。「それを言っちゃお終ひだ」といふことです。国民に、内憂外患のフラストレーションを一時しのぎで鬱憤を晴らせる「モグラ叩き」ゲーム機を世間に普及させることにしか関心がありません。電波芸者たちは、私が「臭い臭ひは元から絶たなきゃダメ」と言つても、聞く耳を持ちません。そのために、いまでは、国の内外に、強烈な悪臭が漂ひ、一度に多くのモグラが出てきて、収拾が着きません。この事態は、電波芸者たちにとつてはメディア露出が多くなり、営業的には極めて好ましいのです。

 電波芸者とそれを持ち上げる保守風味の太鼓持ちたちは、国家再生のための根本解決を断念するどころか、根本解決を提唱する者を葬り去らうとして、その言説までもデマなどと言ひふらして妨害します。さうすることが敗戦利得者の利権を守ることになるからです。敗戦利得とは、占領憲法を憲法として容認することによつて得られるすべての利権のことです。占領憲法が憲法でなくなれば、これにイチャモンを付けてマッチポンプの活動をするための飯の種がなくなつてしまひます。
 だから、電波芸者たちは、真正護憲論を揶揄するだけで、誰もそれに代はる憲法学的、国法学的、政治学的な代案を示さず、国家百年の大計を語りません。否、語れないのです。反対のための反対。昔の社会党と同じです。

少しでも長く敗戦利権を貪るためには、占領憲法が少しでも憲法として長く生き延びてもらはなければならず、多くの人がその誤りに気づき、大嘘がばれてしまふと、敗戦利得者は生きて行けなくなるからです。これは「切れない電球」を製造販売する商売人とよく似てゐます。
 半永久的に「切れない電球」を製造することは技術的に可能ですが、このやうな製品を製造販売すると、これが全域に行き渡つて飽和状態になれば、それ以上販売できなくなるので、わざと「切れる電球」を製造販売するのと同じやうに、占領政策の要諦を全部否定すると、それ以上の言説は不要となります。ですから、申し訳程度に占領政策の要諦の一部だけを否定したり批判したりし、その否定や批判の程度を少しづつ高めて行くことによつて、売文活動が長期に亘つて続けられることになるといふ営業戦略を採るのです。
 だからこそ、東京裁判と占領憲法の双方を全否定することはしません。してしまへば飯の種を失ふからです。

最近では、東京裁判について、裁判としては無効であるとの言説も見られるやうになりましたが、多くの論調は、平和に対する罪や人道に対する罪が事後法で違法であるとか、裁判所の構成や審理の方法が不公正であるとか、南京大虐殺なるものはなかつたとかの主張をするだけで、東京裁判が「裁判」としては無効であるといふやうな全否定には及んでゐないのです。

ましてや、占領憲法については、全否定することなどは売文業者からすれば命取りとなるので御法度なのです。しかし、営業的には、占領憲法を「押しつけ憲法」などと批判しなければ保守風味の人たちの共感を得ることができません。ですから、少しはそんなポーズを採つて占領憲法改正論を唱へるのですが、占領憲法を根本的に否定することはできません。これを全否定すると、占領憲法改正論が吹つ飛んでしまひます。ですから、占領憲法が憲法ではない、憲法としては無効である、といふ主張は、電波芸者からすれば重大な営業妨害行為として目くじらを立てて意図的に攻撃します。占領憲法は憲法としては無効であり、現存してゐる帝国憲法を守らうとする真正護憲論に対しては、占領憲法を金科玉条として守らうとする占領憲法護憲論に対する批判以上に熾烈に批判し、しかも、批判の名に値しないやうな、カルトだとか、素人の見解などと誹謗中傷を浴びせるだけで、まともに学術的に批判できないのです。

これらの保守風味の電波芸者が真正護憲論を真摯に検討することなく、感情的になつて誹謗中傷する姿を見ると、批判の方向や理論がどこか間違つてゐるのではないか、何故にそこまでパラノイア的に固執するのか、と多くの人は直感的に感じてゐます。学問の世界では、占領憲法の効力論争を公平かつ真摯に行ふのは当然のことなのに、これをしようとしないのは、何かやましいことがあるからだと思ふのは当然のことです。

占領憲法を憲法であると強弁するのであれば、自衛権が認められても、武力を用ゐた自衛権の発動(自衛戦争)は、まさに「交戦権」の発動ですから、これが認められてゐない占領憲法では、自衛権といふものは実質的には絵に描いた餅にすぎないことを認識しなければなりません。また、占領憲法施行後の昭和23年6月19日に衆参両院で教育勅語の失効・排除決議がなされましたので、占領憲法が憲法であれば教育勅語は全否定されたことになりますが、保守風味の電波芸者たちは、これについて言及することを避けて、一目散に逃げてしまひます。つまり、電波芸者たちは、このやうな矛盾を指摘されることを極度に恐れてゐるのです。

このやうな矛盾に満ちた状況の中で、メディアは、その目的を共有できる電波芸者たちを重宝がります。そして、同じ穴の中の狢として、大衆に矛盾を悟られまいとして、懸命に話題を逸らしながら戦々恐々として生き続けてゐます。
 ですから、我々がまづ自覚すべきことは、プレスコードによつてなされてきたメディアの占領期における全面的検閲を容認し続けてきた体質が、独立回復後にも鞏固な習性として、ストックホルム症候群として継続してゐることを認識することです。ストックホルム症候群といふのは、拉致監禁された犯罪被害者が、その犯人と時間的、空間的に接着して生活をすることにより、犯人に対する共感や同情又は好意等の特別な依存感情を抱くことを意味するものですが、まさに現在のメディアは、このストックホルム症候群に陥つて、GHQ以上の意欲を抱いて、プレスコード自体は正しいものとしてこれまで以上にこれを守り続けようとしてゐるのです。俗に、偏向報道だと呼ばれる元凶はここにあります。

そして、どのメディアも例外なくプレスコードによつてこれまで報道を歪めてきたといふ自己批判を一切してゐません。
 新聞の購買数やテレビの視聴率は年々低下して、メディアの経営はすべて赤字体質に追ひ込まれてゐます。これをもつと加速させ、インターネットを活用させれば、プレスコードに追随したメディアの犯罪を暴き、これをメディアが自己批判して再生する道も不可能ではありません。自己批判できないメディアは潰れればよいのです。
 メディアがプレスコードを全否定し自己批判することは、我が国が再生する一助となるはずです。

そもそも、何を恐れて、占領憲法が憲法として「無効」であると素朴に言へないのでせうか。このままでは、天皇抜きの民族主義といふ空虚な民族主義に陥り、そのうちに民族性も国家観も失せて、得体の知れない者たちに我が国が占拠され国家の滅亡を早めます。電波芸者などの敗戦利得者は、国家と民族の名誉を護つて再生を果たすといふことよりも自己の利益(敗戦利得)を最優先させるために、その利益を失ふことを恐れてゐるからです。その恐れのために引き延ばしをすればするほど危機は大きくなり国家を滅ぼすことになるといふ自覚が全くありません。今立ち上がれないのならば永遠に立ち上がる機会は訪れません。
 プレスコードを受け入れ、ストックホルム症候群に陥つてこれを積極的に推進し、見苦しい詭弁や言ひ訳をして自己保身をする今の年寄りや成人には全く期待できません。


平成二十六年五月一日記す 南出喜久治


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ