自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三回 交戦権と自衛権

たたかひを ゆるしあたはぬ いくさびと やたのからすも かかしとまがふ
(戦争を許し能はぬ軍人(交戦権なき自衛隊)八咫の烏も案山子と紛ふ)

 占領憲法第9条を巡る最近の議論は、どこの党も一番大事なことを只管に隠して続けてゐます。政治家や学者らの自称「専門家」は、まことしやかに憲法解釈なるものを展開して議論してゐますが、彼らに共通する「本音」は次のやうなものです。

 「国民主権といふが、そんなものは憲法解釈においては全く通用しない。憲法解釈については憲法学者、政治家、法務官僚、裁判所、検察庁、弁護士会などで構成される「専門家階級集団」に憲法解釈を決定する「解釈主権」があるのであつて、専門家階級集団に属しない素人の一般国民がどんな意見を述べても、それは閉鎖的な我々の専門家階級集団の世界で認められる理論でない限り、憲法解釈の見解としては到底認められない。」といふものです。

 私は、個別的に専門家階級集団の人たちから、その本音を直接に聞いたのではありませんが、これはこれまでの経験からして間違ひではありません。もし、これに反論や異議があれば、誰でも結構ですから公開討論として申し出てください。必ず返り討ちにしてあげます。つまり、この本音は政治学で言ふところの「寡頭制」で憲法解釈は決まるのであつて、「専門家階級集団主権」が事実上確立してをり、国民全般の自由で素朴な解釈は絶対に認められないといふことを意味してゐるのです。

 「砂川事件」の最高裁判所大法廷判決(昭和34年12月16日)が言ふやうに、自衛隊は、「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」を持つ組織であつて、これは占領憲法第9条第2項で禁止されてゐる「戦力」に該当します。この事件は、自衛隊の違憲性が争点となつてゐないので、自衛隊が違憲であるとは直接に言つてゐるものではありませんが、一般論からして、自衛隊は、その人的組織と物的装備などにおいて、戦闘能力(戦力)を持つ「軍隊」であることは国民の常識なのです。
 ところが、専門家階級集団は、詭弁を弄してこれを戦力でも軍隊でもないとします。最近では、共産党や社民党ですら自衛隊は違憲であると繰り返し強調して主張することをしなくなりました。左翼なら、「憲法解釈を我々の手に取り戻そう」と叫んでもよいはずなのに、馴れ合ひを常習とする腰砕け政党どもは、すべて憲法解釈の「寡頭制」を支持してきてゐるのです。

 イラクに自衛隊が派兵されるに際して、「武力の行使」を禁止する占領憲法第9条第1項にある「武力の行使」を禁止する規定があることから、武器の種類とその使用制限について延々不毛な議論が国会でなされましたが、「武力による威嚇」については、私の助言を受け入れて前衆議院議員の末松義規氏が特別委員会で指摘したものの、これに対する政府答弁は惨憺たるものでした。武装部隊である自衛隊がイラクに派遣(派兵)することは、イラクの住民からすれば「武力による威嚇」になるのではないか、といふ質問にまともに答へられなかつたのです。興味があれば、その会議録を検索して調べてみてください。

 ところが、この議論は、その後誰一人として行ひませんでした。自民党や公明党は勿論しませんが、民主党、共産党、社民党など、自衛隊のイラク派兵に反対する党ならば、「武力の行使」の議論で膠着するよりも、「武力による威嚇」の議論の方がイラク派兵に反対する有力な根拠になるはずです。ですから、いの一番に飛びつくはずの議論なのに、これを全く無視してしまつたのです。私は、このことから、与野党のすべては、やはり馴れ合ひ集団であり、茶番の議論を繰り替へして「国会主権」を謳歌する鞏固な専門家階級集団があると再認識した訳です。
 そして、この専門家階級集団が、殆どの国民が理解し得ないやうな「ジャーゴン」(業界用語)を多用して国民を煙に巻きます。国民に「憲法は難しい」ものだと刷り込ませ、そんな難解で複雑な議論についてこられないし、なんだか訳が解らなくなつて思考停止させ、議論に加はることを断念し、いつの間にかまんまと憲法解釈における「寡頭制」支配の確立を国民側も黙認してしまつたのです。

 寡頭制を確立させた専門家階級集団の議論に誤魔化しや矛盾があることは枚挙に暇がありませんが、最近では、集団的自衛権に関して、先ほどの砂川事件最高裁判決の解釈を巡る議論がされてゐます。この行使について、否認論とか、限定容認論とかが喧しく主張されてゐますが、これに関連する問題として、専門家階級集団の迷走ぶりを次の三点の根本問題に絞つて指摘してみたいと思ひます。

 まづ第一に、専門家階級集団の迷走ぶりを示すものとしては、交戦権と自衛権との概念とその態様の区別をしようとしないことです。

 「交戦権」とは、マッカーサー・ノートに初めて登場した「政治用語」で、「The right of belligerency」の訳語です。これがそのまま占領憲法の正式な「原文」(THE CONSTITUTION OF JAPAN)に「法律用語」として引き継がれたものです。邦文の「日本国憲法」といふのは、その「訳文」であり、原文はあくまでも「THE CONSTITUTION OF JAPAN」なのだといふことを知つておいてください。

 そして、交戦権とは、アメリカ合衆国憲法にいふ戦争権限(war powers)と同じ意味で、宣戦、統帥、停戦、講和といふ一連の戦争行為を行ふことができる権限のことです。つまり、宣戦布告し統帥権を行使して戦闘を開始し、最後は停戦して講和するまでの、武力を用ゐた外交権の総体ですから、自衛のための措置であつたとしても、自衛戦争をすることは交戦権の行使なのです。

 このことは、仮に、自衛権が認められるとしても、砂川事件最高裁判決のいふ「自衛のための措置」として可能なのは、交戦権の行使とはならない非軍事的な措置(警察力による排除、民間の自警団による警備など)に限られることになります。
 ところが、専門家階級集団は、自衛権があるといふだけで、その自衛権の行使態様における自衛戦争権(自衛交戦権)の可否については全く言及せず、あたかも、自衛権があれば当然に自衛戦争ができるとして論理を飛躍させ誤魔化すのです。

 先ほどの砂川事件の最高裁判決は、いはゆる「統治行為論」として、日米安全保障条約は「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する」もので、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り」司法審査権の範囲外にあるものと判断し、司法消極主義の立場に立ちましたが、「自衛権」や「自衛のための措置」に関しては、少し引用が長くなりますが、次のやうに説示してゐます。

 「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。・・・わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。・・・わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。・・・従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

 ここではっきりしてゐることは、「自衛のための戦力の保持」について第9条第2項前段に該当するか否かの議論は避けたのであつて、その戦力により戦火を交へることが同項後段の「交戦権」に該当するか否かについては、全く争点となつてをらず、これを交戦権の行使に該当しないとは一言も言つてゐないのですから、これは重大な憲法解釈上の争点として、真摯に議論しなければならないのです。

 ところが、いつの間にか専門家階級集団は論理を飛躍させ、自衛権がみとめられるのであれば「自衛のための武力行使」が可能であると言ひ出します。自衛のためであれば交戦権が認められるといふのです。しかし、戦力の不保持を謳つた第9条第2項前段では、「前項の目的を達するために」といふ限定があるにせよ、後段は、これとは独立した文書として「国の交戦権は、これを認めない。」として、全くの無限定の表現となつてゐます。それにもかかはらず、交戦権を限定的に認めて、解釈改憲を平気でしてしまふのです。

 しかし、これは健忘症といふか、あるいは無類のペテン師といふか、前回に述べたとほり、国民を洗脳し続けてきた専門家階級集団による「憲法普及会」の見解とは全く異なつたことを言つてゐることになります。
 その証拠を示したいと思ひます。それは、占領憲法が施行されてから3か月後の昭和22年8月2日発行の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』です。その「六 戦争の放棄」には次のやうに書いてありました。社会科教科書と言つても、これは今のやうな民間が作成した「検定教科書」ではありません。このころの教科書は政府が作つた「国定教科書」であり、これは文部省の著作です。つまり、これには、正真正銘の政府見解が書かれてゐたのです。

 そこには、 「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『放棄』とは、『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。」 と記述されてゐたのです。

 どうでせうか? これこそが、占領憲法の制定経過からして当然かつ正式の政府見解による解釈なのです。ここにおいて、「戦力の放棄」と「戦争の放棄」の二つの言葉が出てきますが、戦力の放棄については、「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。」としてゐるので、自衛隊は違憲の存在となります。
 そして、「戦争の放棄」については、「よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。」としてゐるので、「自衛戦争」もしないことを戦争の放棄と説明してゐたのです。これはポツダム宣言による我が軍の完全武装解除が第9条第2項前段の「戦力の放棄」(戦力不保持)となり、我が軍の無条件降伏が同項後段の「交戦権の否認」となつたことであり、これが占領憲法制定の要諦であつたことをはつきりと説明してゐたのです。

 ですから、自衛権が国家固有の権利であるとしても、あへて交戦権を否定したので、自衛権の行使としての自衛戦争はできず、自衛戦争以外の自衛の措置によることになるといふことになりますが、このことについて、専門家階級集団は決して議論しないのです。

 次に、専門家階級集団の迷走ぶりを示す第二点としては、自衛権が存在することの根拠として持ち出す「国家固有の権能」の本質について全く議論しないことです。

 先ほどの砂川事件最高裁判決では、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」とあり、自衛権の根拠を「国家固有の権能」としてゐるのですが、この「国家固有の権能」といふのはどういふものなのか、その本質は何なのかについて、専門家階級集団は、完全に思考停止状態になつてゐます。

 国家固有の権能といふのは、自然権といふ意味でせうか。もし、さうであれば、自然権の源泉は「自然法」になります。自然法の存在を認めて、それを実定法(占領憲法)の上位規範とするのであれば、その自然法こそが最高規範といふことになります。実定法(占領憲法)に規定されてゐない事項、あるいは否定されてゐる事項であつても、それを肯定できるのは、その上位規範の最高規範として自然法を認めなければなりません。その自然法といふのは何なのでせうか。

 建物の躯体部分である柱の表面に塗料を塗つて、柱の素地が見えなくなつても、柱自体がなくなつたのではありません。それと同じやうに、柱(自然法)の上に塗料(実定法)が塗られて内装を仕上げると、柱(自然法)は見えなくなりますが、見えてゐる(実定されてゐる)塗料の表面だけが柱ではありません。塗料は柱に塗られることによつて初めて存在するもので、塗料だけでは家(国家、社会)は支へられません。自然法を成文化したのが実定法であり、実定法の存在根拠は自然法なのだとするのが自然法思想です。

 そうすると、占領憲法といふ塗料が塗られた柱である自然法とは何なのでせうか。我が国の自然法とは、規範國體といふ根本規範(最高規範)なのです。規範國體は、古事記、日本書紀に始まり、歴代の詔や近年では教育勅語や帝国憲法までの総体であり、長い時代を経て伝統的に培はれた祖国の御柱(おんばしら)のことです。

 ですから、帝国憲法だけが規範國體が構成されてゐるのではなく、規範國體を投影した実定法の一つに過ぎません。その帝国憲法を改正したのが占領憲法とするのですが、規範國體に抵触してゐる占領憲法が帝国憲法の改正法として認められないのは当然です。かと言つて、これを絶対的に無効だとすることは、帝国憲法第76条第1項に違反するので、講和条約の限度に有効とするのが真正護憲論です。ですから、真正護憲論といふのは、規範國體護持論なのであり、我が国の歴史伝統に裏付けされた王道の国法理論なのです。

 いづれにせよ、我が国における自然法理論とも言ふべき真正護憲論でしか、「国家固有の権能」の根拠は説明できません。少なくとも専門家階級集団が、この「国家固有の権能」を根拠として自衛権を肯定するのであれば、真正護憲論か、あるいはこれに代はる国法理論を示さなければなりませんが、それを示すことができず「国家固有の権能」といふ呪文を唱へるだけで完全に思考停止してゐます。

 ただ、次のことだけは専門家階級集団でも認めざるを得ないでせう。それは、「国家固有の権能」があるといふのであれば、その権能は占領憲法制定以前に存在する「規範」から導かれる権能であるといふことです。さうすると、必然的に、占領憲法制定以前に存在する、占領憲法を超える上位の規範を認めることになります。しかし、牽強付会の専門家階級集団は、この点についても「ノーコメント」なのです。

 第三に、専門家階級集団の迷走ぶりを示すものとして、集団的自衛権の議論があります。

 砂川事件最高裁判決は、自衛権について個別的自衛権と集団的自衛権とを区別してゐないといふ、突然思ひついたやうな議論を吹つ掛けて、個別的自衛権も集団的自衛権もいづれも「国家固有の権能」とするのです。
 この事件は、日米安保条約に基づいて、米国側が集団的自衛権行使の態様として在日米軍基地の存在を認めたことから、むしろ、米国の集団的自衛権行使による反射的効果を我が国が享有し、このやうな方法によつて我が国が自衛(防衛)することができるか、これも「必要な自衛のための措置」と言へるのかが問はれた事件なのです。

 カルタゴが傭兵に頼つて自国を防衛しようとし、結果的には滅んでしてしまつたのですが、我が国としては占領憲法の制約があるために自らは軍隊を持てないので、基地提供条約である日米安保条約によつて米軍をそのまま傭兵的に活用し国内に駐留させて自国防衛を図るといふ選択肢も「必要な自衛の措置」として認められるのではないか、また、その方法であれば戦力不保持の規定に抵触しないのではないか、といふ可能性を視野に入れて最高裁は判断しようとしたのです。この判決で田中耕太郎最高裁判所長官が示した補足意見は、集団的自衛権に関する一般的見解を披瀝しただけであつて、我が国に集団的自衛権があるといふ見解ではないのに、安倍内閣は、牽強付会の噴飯ものの解釈を展開してゐますが、そんな顰蹙を買ふやうな綱渡り的な議論をするよりも、正攻法で中央突破し全面展開できる真正護憲論をどうして採用しないのでせうか。「戦後レジームからの脱却」といふのは本心ではなく、やはり羊頭狗肉の政権ではないかと疑はざるをえません。

 ところで、集団的自衛権について言へば、この砂川事件は、米国側からみれば、基地提供をしてゐる我が国に対して他国から武力攻撃があつた場合に、米国の持つ集団的自衛権によつて我が国を防衛することが許されるかといふ問題、そして、我が国側からみれば、米軍に基地提供をすることによる傭兵的な方法でも「必要な自衛のための措置」としての我が国個別的自衛権として認められるかといふ問題を取り扱つてゐるのであつて、我が国の集団的自衛権の存否を議論したものではないのです。

 政府は、集団的自衞権について、「国際法上、国家は集団的自衞権すなわち自国と密接な関係にある外国に對する武力攻撃を、自国が直接攻撃をされていないのにもかかわらず、實力をもって阻止する権利を有しているものとされている。わが国が、国際法上このような集団的自衞権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において、許容される自衞権の行使はわが国を防衞するための必要最低限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衞権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」(昭和56年5月29日政府答弁書)としてゐました。
 要約すると、集団的自衞権は、国連憲章第51条によつて認められる権利ですが、占領憲法の制約により、それを行使することができないとすることになります。つまり、占領憲法の解釈として、集団的自衞権は享有すれども行使できないとしてゐたのです。

 しかし、この解釈は矛盾だらけです。まづ、「自国と密接な関係にある外国」とありますが、集団的自衛権の対象となる国の要件が「密接な関係にある外国」といふ曖昧なものでは定義として成り立ちません。これは、「相互に集団的自衛権を定めた軍事同盟条約締結国」とすべきであり、それでなければ、集団的自衛権は、これまでの国際法上も肯定されず、国連憲章第51条でも国連加盟国になつて初めて認められる権利と規定されてゐるのですから、「主権国家である以上当然」に認められるものではないのです。

 このやうな集団的自衞権が注目されたのは、国際連盟規約(大正8年)の前文の冒頭に、「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾」するとあり、この義務に違反する国家については、他の全ての連盟加盟国に対して戦争に訴へたとみなし、連盟及び連盟加盟国が戦争を含めた対抗手段をとると規定され(第16条)、集団安全保障体制の原型を示唆したことに始まります。

 そして、時代は下つて、アメリカが全米を覇権下に置くことになつたチャプルテベック決議(昭和20年3月)を契機として再び注目されることになりました。それは、国際連合憲章の原案では、集団的自衞権の行使は安全保障理事会の許可が必要となつてゐたことから、ソ連の拒否権発動を懸念して、国際連合憲章の本文に集団的自衞権の条項を入れることになつたからです(第51条)。つまり、個別的及び集団的自衞権の行使については安保理に対する事後の報告事項とし、事前の承認事項ないしは許可事項としなかつたのです。このやうにして、集団的自衞権は、国際連合憲章(条約)の効果として誕生した条約上の権利であつて、決して自然権でないことが解るはずです。

 もし、自然権の概念を持ち出して議論するのであれば、「正当防衛」といふ自然権を議論すべきです。正当防衛とは、急迫不正の侵害に対し、自分または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為を合法とするもので、これは国際法上も昔から認められた普遍的な理論です。正当防衛が認められるときは、犯罪が成立せず、これによつて他人の権利を侵害しても損害賠償責任を負はないとする理論です。
 正当防衛には、自己の権利を防衛するための「自己正当防衛」と、他人の権利を防衛するための「他人正当防衛」とがあり、個別的自衛権は自己正当防衛に、集団的自衛権は他人正当防衛に対応するといふ関係にあります。

 また、正当防衛とともに、急迫不正の侵害に対して、反撃的な防御をするのではなく、その危難を避けるためにやむなく他人の法益を侵害する結果を招くこととも「緊急避難」として認められ、合法化されてゐるのです。

 このことを踏まへて、もう少し具体的に言へば、自衛権の行使については、第一に、自衛隊法第88条の防衛出動では、「合理的に必要とされる限度をこえてはならない」とされ、第二に、同法第89条の治安出動でも警察官職務執行法第7条(武器の使用)の制限として規定されてゐる刑法の正当防衛又は緊急避難の要件に基づくことになつてゐますので、自衛権の行使は、「正当防衛」及び「緊急避難」が成立するための他国による「急迫不正の侵害」がなされる時に限定され、その防衛と避難の程度の相当性を満たさなければならないといふ厳格な要件が求められてゐるのです。ところが、このやうな限定のない権限が「交戦権」(戦争権限)ですから、交戦権はネガティブ・リスト、自衛権はポジティブ・リストによる権限としての決定的な相違があり、両者は明確に峻別されてゐます。

 ですから、交戦権のない自衛権しか認められてゐない我が国では、自衛隊は、交戦権が認められない武力組織として、どのやうな場合に武器使用ができるかといふポジティブ・リストの法制によつて規制されてゐるのです。決して、交戦権が認められてゐる「軍隊」ではないのです。「軍隊」であれば、その軍隊の権限に関しては、これだけは行つてはならないといふ項目を列挙したネガティブ・リストを定める法制にはなつてゐるのですが、軍隊ではない自衛隊は、ネガティブ・リストを定める法制ではなく、これしか行ふ権限はないとするポジティブ・リストを定める法制になつてゐるのです。このことこそは、自衛隊が国際法的に軍隊ではないといふことの証左と言へます。

 このやうなことからすると、我が国において、占領憲法が憲法であるとする立場であれば、個別的自衛権と集団的自衛権といふ二分法によるのではなく、急迫不正の侵害に対しする自己正当防衛と他人正当防衛ないしは緊急避難といふ区分で「防衛権」の態様を考察すべきです。さうすると、今議論されてゐる集団的自衛権の限定的な具体的態様は、殆どがこの他人正当防衛に関するものですから、その要件が満たされる限り認められるものなので、わざわざ集団的自衛権といふ概念を持ち出す必要はないのです。

 また、喫緊の課題である尖閣諸島の防衛の見地からすると、有事の際は米軍側の集団的自衛権を確実に行使させ、我が国の個別的自衛権を強化することにあるのであつて、我が国側の集団的自衛権にまで手が回る状況ではありません。
 つまり、中共が尖閣を武力占領して終へば、交戦権のない自衛権では奪還戦争はできませんので、そのときは、アメリカの集団的自衛権の行使に頼らざるをえません。しかし、アメリカの戦争権限(交戦権)は大統領と連邦議会とが分有してゐるので、尖閣が中共によつて侵略された場合に、アメリカ連邦議会が集団的自衛権を発動するか否かは不明です。日米安保の守備領域に尖閣が含まれることは確かですが、そのことと、アメリカが、米国債を我が国以上に保有してゐる中共に対して、必ず軍事行動を行ふか否かは、その都度において大統領と連邦議会の判断に委ねられるのです。

 ましてや、中共軍が直接的に武力占領するといふ単純なことはしません。初めは武装難民(漁民)によつて尖閣に上陸占有させ、その難民(漁民)救済の目的で中共軍が尖閣に上陸して武力占領を継続するいふ二段構への作戦をとりますので、難民を装ふ集団に対して自衛隊はその阻止のため出動はできません。ましてや、その難民(漁民)救済の名目で出動する中共軍の行為は、急迫不正の侵害には当たらないので、ここでも自衛隊は出動できません。残念なことに、占領憲法を憲法とする限り、自衛隊は張り子の虎であり、案山子なのです。

 私は、このやうなことをこれからもできる限り平易にこの連載で語り続けて行きます。傲慢で陰湿な左翼集団である弁護士会と対決する立場をとり、専門家階級集団に属してをらず、これに属することを峻拒する私は、今後も「恐るべき素人」として、「憲法解釈を我々の手に取り戻そう」といふ言論活動を続けて発信して行きますので、よろしくご協力とご支援のほどお願ひする次第です。


平成二十六年五月十五日記す 南出喜久治


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