自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H26.07.15 連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編 「第七回 学問と生活」

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第七回 学問と生活

いにしへゆ こころといのち はぐくむは うたとまつりの くにからのみち
(古昔より心と命育むは和歌と祭祀の国幹の道)

「井を掘るは水を得るが為なり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、学とするに足らず。因て知る、井は水の多少に在て、掘るの浅深に在らず。学は道の得否に在て、勤むるの厚薄に在らざることを。」

これは、吉田松陰の『講孟余話』の一節です。


私は、この一節を座右としてきました。若い頃は学者の道を志したときもありましたが、それができない家庭環境にあつたので、別の道を進みました。それまで、数学で身を立てようとした私に、恩師三澤貫一郎先生は諭された。「学問の才能があるからといつて大成するとは限らない。特に、君は政治に関心がありすぎてその発言が過激だ。だから途中で学問を投げ出して政治の道に走ることになり、学問の道は必ず挫折する。だから、初めから学問の道を志さずに、政治の道を志した方がよい。」と。

そして、「学問も政治も、それを職業化したときから道を誤つて腐敗するから、そのことを肝に銘じなさい。」とも言はれた。


そのときに私の心に響いたのが吉田松陰のこの一節でした。藩校の明倫館で学ぶことなく、いきなり10歳にして山鹿流軍学師範として明倫館で講義をした吉田松陰は、その後、職業とすべき山鹿流軍学だけでは祖国の国防ができないことを悟り、いはば学問の流浪者、偉大なる学問的素人となつて、様々な人に教へを乞ひ、あらゆる情報を吸収して祖国の再生のために邁進しました。そのことは、私にとつて強烈に魅力的な生き方を示唆してくれました。それ以来、学問を職業化することは、私利私欲や保身によつて大きな弊害を生むことがあり、その学問が本来目指してゐた目的から大きく外れてしまふと考へて、どのやうな学問であつても専門学者の考へは正しいといふ先入観を一切捨てて、競争相手とならうといふ考へになりました。批判的精神が学問を進歩させるものなので、プロ意識とかアマチュア意識といふことで縛られることは愚かなことだと思ひました。


ですから、憲法学や国法学、政治学や経済学などにおいて、誰も疑問を持たない事柄についても、自分が納得できない限り、徹底した理解を深める姿勢を貫きました。この反骨精神が今までいろんな学問を続けられてきた秘訣でもありました。


その結果、真正護憲論と自立再生論の理論的体系を完成することができたわけで、それが完成した後は、私自身がその理論の批判者として自問自答して今日に至つてゐますが、未だにこの理論上の致命的欠陥も見いだせず、また、これに代はりうる優れた理論もないことから、論理的に堅固な比類なき仮説として、他の一切の学説に優越するものであるとの自負があります。


ところで、今回は、憲法学、国法学、政治学、経済学、社会学など学問全般についてではなく、歌詠み人としての立場から、万葉集について所見を述べてみたいと思ひます。


万葉集との出会ひは十代のころで、父が和歌を嗜んでゐたためです。昔の武士は歌の嗜みがありました。辞世の歌(短歌)を詠めました。突然の死に遭遇して、直ぐに辞世の歌を詠めるだけの素養があつた人も居ますし、予め死を予期して辞世の歌を作つてゐた人も居ます。軍人は、軍人になつたときから死に直面しますので、父は、上官から辞世の歌を認めるやうに助言され、戦地に赴くときから辞世の歌を詠んで、その後の状況や心境に連れて多くの辞世の歌を認めてきたと話してくれました。このやうに、戦前では将兵の間でもその伝統が続いてゐました。軍人には、財産に関する遺書は似合はず、精神に関する辞世の歌が似合ひます。そのことは、軍人だけではなく、日本人のすべてに共通してゐたはずですが、物質文明が蔓延したために、伝統的な日本人の精神構造が、特にGHQの占領政策によつてずたずたにされ歪んでしまつたのです。


そんなことを知つたために、私は、昔の人の心が判つて心を通はせることが伝統を守ることであつて、学問としての和歌ではなく、生活の中に歌が生きてゐなければ、歴史や伝統を語る資格はないと感じました。そのことから、大阪大学の犬養孝先生の追つ掛けをするやうになりました。犬養先生は、学生だけでなく誰とでも希望者とともに万葉故地を巡り、あの犬養節で朗々と万葉集の和歌を詠まれます。その姿に接してゐると、政治運動に明け暮れる殺伐とした心情から逃れ、ひとときの安らぎを覚えてゐたことを今も鮮明に思ひ出します。


私は万葉集の研究者ではありませんが、愛読者の一人であることし自負してゐます。和歌に親しんでゐると、自づと、正統仮名遣ひ(歴史的仮名遣ひ)が自然と身についてきます。歴史や伝統を重んずる人の中には、正字正仮名の文章を守れといふ人が居ます。仮名については正統仮名遣ひを、漢字についても略字ではなく正字を使へと言ふのです。


確かに、仮名遣ひについては、現代仮名遣ひと称する占領仮名遣ひを拒否することは当然のことです。これは、GHQ占領期に権力的に文化干渉がなされた結果だからです。権力による文化干渉を受け入れることは、ご先祖に対して顔向けができないからです。ですから、これを元に戻すのは当然です。正統仮名遣ひ復活の文化運動として、私の作る文書は、私的なものは当然ですが、職業的な裁判用の法律文書においても、特段の理由がない限り、原則として正統仮名遣ひで通してゐます。


しかし、漢字については正字しか使つてはならないといふ考へには疑問があります。もともと、万葉仮名は、支那伝来の漢字の当て字です。これを略字にしたとしても、仮名音は変はりません。ですから、正字に拘るのは趣味の問題と思ひます。私は、正字を尊重して、正字による著作物もあり、部分的にも趣味的に正字を用ゐます。たとへば、略字で「国体」とするよりは正字で「國體」と表記した方が、象形文字の特徴を生かして、意味を正確に伝へられるからです。


そして、この正字の復活の議論よりも、万葉時代にあつて上代特殊仮名遣ひの見直しの方がもつと重要だと思ひます。いろは47文字(あまつうた48文字)でも区別されてゐない合計20ないし21の音節を甲類、乙類の二種に書き分けた仮名遣ひがあり、これを現代にどう反映するのかといふ課題です。もし、古代に仮名文字があれば、使ひ分けられたはずです。万葉仮名で書き分けられてきたといふことは、仮名が登場するまでは、我が国には固有文字がなかつたことを意味することでもあります。


そのやうな固有文字がない時代でも音節だけで多くの人々が情報を共有し伝達し合ふためには、人々がばらばらに日常生活で会話するだけでは、文化や習俗などを後世に伝承することは不可能です。それには、やはり祭祀が重要な役割を担つてゐたのです。たくさんの集落の人が一同に会して祭祀を行ひ、歌垣で和歌を詠唱することによつて言葉を共有してきたからこそ言霊を理解できたのです。文字がなかつたからこそ言霊が幸はふ国だつたのです。


ところで、私は、万葉集の愛読者の一人ではあつても、研究家ではありませんので、古文の文法や言葉の辞書的な意味をあまり詳しく探求したりしません。すべて独学といふか我流です。そのために、万葉集やその他の歌集にある歌の解説や歌の手ほどきなどを人に教へたりすることは絶対にしないと心に決めてゐます。


それは、これまで、万葉集やその後の勅撰和歌集その他の多くの歌集をそれなりに味はつてきましたが、これを研究の対象とする学問や講釈のあり方や、自己の研究を知らない人に教へるといふ方法に対して、違和感といふか、嫌悪感すら持つてゐたからです。和歌で飯を食つてはいけない、飯を食ふことと和歌を詠むこととは別にしなければならない、さう思つてゐました。


その点、犬養先生の姿勢は少し違つてゐました。犬養先生は、たとへば、大和三山や甘樫の丘、明日香や吉野などの万葉故地を巡り、そこで詠まれた和歌や、ゆかりのある和歌を朗々と犬養節で三度繰り返して詠まれますが、決してその歌の解説はされませんでした。同じ歌を三度繰り返されるのは、言霊と数霊、そして霊振りとの関係で必要なことなのです。「三」は奇数であり素数である初めの数字です。夫婦とその子どもといふ家族の原型であり、最も尊い数だからです。


犬養先生は、万葉集の歌を三度詠まれて、「いいですね!」「すばらしいですね!」と感慨深く言はれるだけで、その解説はされずに、次の訪問地へと移動されるのです。これは衝撃的でした。これこそが理屈抜きで本当にその歌を心から味はふ姿なのだと後になつて思ひました。


もし、和歌の研究を知識欲だけで学問の対象とするのであれば、和歌にゆかりのある場所にわざわざ行くやうなことは時間の無駄で、そんなことをしなくても、研究室で文字づらだけを黙読し、文献や辞書などを使つて、ああでもない、かうでもないとその意味の解釈をすれば足りるのです。


このことを「音楽」と比較してみますと、例へば、楽器で演奏せず、実際に声に出して歌つてみることが「音」を「楽しむ」ことなのに、楽器も使はず声で歌ふこともせず、黙々と「楽譜」を見つめて研究するといふやうな「音学」との違ひと同じことです。

無言で「楽譜」を眺めてその曲の善し悪しを理解できる人も居るでせうが、そんな暗い手法ではとても「楽しむ」ことにはなりませんし、生活の中に音楽があるといふことにもならないことと同じことです。


初めのうちは、犬養先生の方法に物足りなさを感じてゐましたが、それが和歌の本当の味はひ方だと父から諭されてから、犬養先生がどうして余り解説をされないのかと考へてきました。そして、そのことがやつと判つたのです。犬養先生は確かに万葉研究の第一人者でしたが、その学問的成果を他の人に詳しく解説することでは、万葉集を本当に理解してもらふことにならないと思はれたのだと思ひました。和歌に接して感動し、これに親しむことが大事なことで、そのことに上下の関係はないからです。


このことによつて、私は万葉集に接する態度が一変しました。学者の書いた和歌の解説書を見なくなりました。そのまま何度も詠んで味はふことにしました。そして、万葉集にある好きな一首だけのために、その故地を巡ることも大きな意義があると思ひました。


万葉集を編纂したとされてゐる大伴家持が生まれてから、後4年すると生誕1300年になりますが、万葉歌人と今出会つても、自分自身が歌によつて会話できるほどの歌人になつてゐることが重要であり、それこそが歴史と伝統を実践的に守るといふことなのです。


このやうな姿勢で和歌に接してきましたが、その後になつて、さらに、これまでの先人や先輩が和歌に接してきた視点について根本的な疑問を抱くやうになりました。それは、和歌は何のためにあつたのか、といふ存在根拠についての大きな疑問です。


それは、これまでは、万葉集にある歌に限らず、その他の歌集の歌のすべてについて、それらを歴史、文学、国学の研究対象の資料としてきたことに対する疑問です。はたしてこれでよいのか、といふことです。


そして、私は、このことについて、ある結論に達しました。それは、和歌とは、祭祀の実践資料であるといふものです。


万葉集については、江戸期における下河辺長流や契沖の研究があり、現在に至るまで多くの研究者が出ましたが、誠に残念なことに、誰一人として和歌を祭祀の実践の視点で捉へてゐる人が居ないのです。あくまでも「学問」の対象だつたのです。


和歌(やまとうた)が歴史上初めて登場するのは、古事記にある、スサノヲノミコトが詠まれた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の和歌です。

祭祀の道でも説明しましたが、この八雲立つの歌には、歌意の言霊もさることながら、さらに別の意味があります。


つまり、(や)八雲立つ (い)出雲八重垣 (つ)妻籠みに (や)八重垣作る (そ)その八重垣を の各句の頭を繋げますと、や(八)・いつ(五)・や(八)・そ(十)の合計で三十一となつてをり、この数霊(かずたま)が、和歌(やまとうた)の、五・七・五・七・七の三十一文字(みそひともじ)を導いてゐるのです。


和歌のことを「八雲の歌」とも呼ぶやうに、この和歌は、言霊と数霊とが見事に示されたものと言へます。ここに「八重垣」といふ言葉が出てきますが、祭祀の視点で理解すれば、これは「歌垣」です。何重にも何重にも人が取り囲んだ人垣が、歌垣となつて祭祀でカミに捧げる和歌を奏上し、夫婦が共同生活を始める「つまごみ」を祝ふのです。


古神道には、祭祀の原型を留めてをり、神への祭祀(いはひまつり)における「祝詞」とは「和歌」(長歌、短歌など)だつたのです。和歌は、本能から生まれる感性によつて、言霊を打ち振はせます。しかし、それが延喜式で歪められて、いまでは祝詞は「大祓詞」などのやうな合理主義的な物語文や説明文になつてしまひました。


しかし、万葉集で編纂された和歌は、その殆どが歌垣によつて作られ、詠唱されたもので、人々のさまざまな生活の有様を歌ひ上げたものです。歌垣とは、神人共食の祭祀の宴(うたげ)のことなのです。宴(うたげ)を「うちあげ」から来たとする見解がありますが、どうしてそんなひねくれた解釈をするのでせうか。もつと素直に「うたあげ」から来てゐると理解すればよいのです。「あげ」とは、神への奏上のことです。

さらに、直会(なほらひ)の語源は、これこそ神人共食として、相嘗(あひなむ)る会ひから来てゐるものです。つまり、これらはすべて神事そのものでした。


今では直会とか宴の意味を、神事の後の後宴と同じ意味として理解してゐるやうですが、時代が下るたびに祭祀がだんだんと疎かにされてきたことを意味します。そして、祭祀から離れて、独立した文芸の道を歩み出します。そのことは、和歌と同様に祭祀のためのものであつた舞踊、音楽、芸術、武技などについても同様でした。祭祀抜きの歌舞音曲技芸の傾向がますます強くなつてきてゐますが、それでもやはりいくつかのものは、祭祀のために依然として伝統を受け継いで守り続けられてきてゐます。


いにしへより、歌垣も宴も直会もすべて祭祀としての神事であり、中央の依り代を囲んで人々が輪(人垣)になつて、それが畳なづくやうに何重にも重なつたのが八重垣なのです。そして、全員が揃つて祭祀の歌詠みをすることが歌垣なのです。


「垣」といふのは、「塀」とは違つて、背が低くて隙間が多く、その隙間や垣越しに中が見えるものを言ひます。それは、まさに人垣のやうに、人と人との間から、又は、人の頭越しに中央にある高い所にある依り代に向き合ふことができるものです。さうであればこそ、八重垣のやうな何重にも何重にも取り囲んで人垣、歌垣を作れるのです。


そして、人垣として囲んだ人たちが和歌を全員で唱和して和歌を詠むのが歌垣であり、これによつて中央にある依り代に降霊したカミに捧げる祭祀を勤めるのです。和歌は、古代において、まさに祭祀と不可分一体のものだつたのです。


ですから、和歌は、学問の対象とするのではなく、我々の生活の一部である祭祀において、心を込めた自作あるいは他作の和歌を朗々と詠唱して祭祀の実践に用ゐるためのものなのです。


万葉の時代に、支那の律令制を模倣して導入しましたが、太政官制だけの統治制度だけではなく、支那の制度にはなつた我が国固有のものとして、これと同等以上の制度として、神祇官(かみづかさ)の制度を創設したのは、まさに祭祀の実践とその継続のためでした。


倭建命(日本武尊)が病を得て、「やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる やまとうるはし」と詠まれたのは、伊吹山をカミの依り代とし、それを取り囲む山々とそこに生ひ茂る木々を人々の歌垣に見立てて、この壮大で麗しいやまとが祭祀の国であることが「まほろば」であることの所以であると理解されてゐたものと堅く信じてゐます。我が国が「和歌と祭祀の国」でなくなれば、「まほろば」ではなくなるといふことになるのです。

平成二十六年七月十五日記す 南出喜久治


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ