自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八回 義理と人情

をとこさび よわきしものを かかへこみ つよきにむかふ さだめはてなし
(男さび弱きし者を抱へ込み強きに向かふ宿命果てなし)

長谷川伸といふ、精力的に作品を書き続けた劇作家が居ました。『沓掛時次郎』や『瞼の母』などの股旅物の先駆者として大衆文学の発展向上に大いに貢献した人です。また、戊辰戦争において、新政府軍東山道軍の先鋒を勤めたが、最期は偽官軍とされても物言はずに処刑されて散つて行つた相楽総三らの赤報隊についても、その汚名をそそぐための真摯な検証と考察を残した歴史家としても尊敬すべき人でもありました。


これら長谷川伸の作品で描かれてきたのは、義理と人情のしがらみで、その中で人はどう生きるのかといふことを我が身に置き換へて考へやうとする等身大の課題でした。

そして、私も、その作品による芝居の余韻が消えないまま、「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」といふ『唐獅子牡丹』で彩られた東映の任侠映画の全盛時代を経て、義理とは何か、人情とは何か、といふ根源的な課題を追ひ求めてきました。所属する組織の考へと個人の考へとの相克、世の中の風潮と自分の生き方との乖離、そんなことと重ね合はせて、同じ世代の多くの人が見つめてきたのだと思つてゐます。


長谷川伸が作品で描いてきたのは、今から考へると、「人情の捨て難さ」だつた思ひますが、だんだんと社会が硬直化した管理社会になればなるほど、「義理の重たさ」が強調されることになつてきました。しかし、東映の任侠映画では、やはりその最期には、必ず人情の捨て難さで締めくくられて終はるために、義理や管理で雁字搦めになつて、不平不満と恨みを抱く大衆の支持と共感を得て、その溜飲を下げさせてきたのだと思ひます。


ところが、私は、このやうな長谷川伸や任侠映画の潮流が、これまでの歴史的な「任侠」のイメージとは、どうも違ふと感じてゐました。

長谷川伸の世界や任侠映画の世界は、なにしろ全体的に「暗い」のです。これは、江戸時代の幡随院長兵衛などの侠客を描いた芝居や映画には「明るさ」があることと比較して尚更さう感じます。


江戸期に、任侠を旗印とした幡随院長兵衛が町奴の頭領として登場し、旗本奴と争つて誅殺された事件は、歌舞伎狂言の題材となりました。そのために、史実から離れて大きく潤色されたこともありましたが、これがその後の侠客の歴史と実態に大きな影響をもたらしたのです。

そして、その歴史を貫いて語られてきたのは、任侠の意味を「強きを挫き弱きを助く」とすることにありました。


しかし、これには現実と乖離した無理な気負ひがありました。歴史的に見て、江戸幕府の将軍の膝元である関八州では、幕府の治安対策として、博打打ちが捕吏を兼ねたことがあり、いはゆる「二足の草鞋」を履いてゐたのですから、強きを挫くなどとは絵空事でしたし、弱きを助けることも殆どありませんでした。もちろん、今もさうです。


強きを挫くとは、強きに「刃向かふ」、つまり「刃向く」(はむく)」といふことですが、二足の草鞋を履けば、刃向かふどころか「はむく」(へつらふ)ことになります。同じ「はむく」ですが、全く正反対です。これこそ、言葉の「二足の草鞋」なのです。


ところで、この「侠」や「任侠」の意味について、ある人がこんな定義をしました。それは、前が道に二つに分かれてゐて、一方は得をする道、他方は損をする道であるとき、常に損をする道を選ぶのが「俠」だといふ考へです(宮崎学氏)。

たとへば、電車の中で、一人の女性が沢山の男達に囲まれていじめられてゐたとき、ある人がそこに乗り合はせてそれを目撃したとしませう。その人としては、見て見ぬふりをして次の駅で降りることもできます。また、もし、沢山の男達に注意して止めさせようとすると、その男達から何をされるかも判りません。そんなときどうしますか。任侠といふのは、たとへ男達にボカスカに殴られてその女性の前でも大恥をかくことになつたとしても、その最も損をする道を選ぶのが任侠だと言ふのです。


ところで、「任侠」の「侠」の本字(俠)の字義は、弱い人を庇つて両脇に抱へる力のある人の姿を意味します。さうであれば、侠とは、強きを挫き弱きを助く、との意味であるとする説明とは、どうも違ふやうです。

「強きを挫くこと」と「弱きを助けること」とは、決して並列、同列ではありません。初めに「弱き者を助ける」ことが最優先であつて、その弱き者を守るために必要不可欠なことであれば、強き者を挫き、あるいは、強き者を遠ざけ、強き者から逃れるといふことが「侠」なのだと考へます。

 弱き者に寄り添つて助けるために、やむを得ず強き者と向き合はざるを得ない立場になつても、それを受け入れる覚悟をして実践することが「侠」なのです。


ですから、「侠」には、初めから強きを挫くといふ積極的な意味はないはずです。弱い者に寄り添つた結果、強い者と対峙することになりうるといふことです。これは、まさに人情の世界です。

先ほどの電車内の事例では、結果的には同じ方向になりますが、その態様を異にすることになります。つまり、強きを挫かうとして単純に力で対抗して大怪我をするのではなく、弱き者を助けることを至上命題として、男達を宥めたり賺したりして、次の駅まで時間稼ぎするなど、ありとあらゆる方法をとつて、強き者と向き合ふことなのです。体裁や格好が悪いと思はれても、いや、それどころか、周りから顰蹙を買ふやうな惨めで格好の悪いことをしてでも、最良の結果を出すために必死に努力するのが「侠」なのです。「韓信の股くぐり」が「侠」であり、格好の悪さが「侠」の原点です。さう言へば、長谷川伸の描く戯曲に登場する人物は、どう見ても身震いするほどの格好のよさがあるとは到底思へません。


ところが、幡随院長兵衛の場合は、大見得を切つて、大衆の喝采を浴び、堂々と正攻法で強きを挫くための方便と大義名分のために弱きを助けるものとして描かれました。つまり格好の良さが幡随院長兵衛の真骨頂なのです。ですから、これは、理性によつて計算され尽くした「義」と言へます。


ここで「義」といふのは、利欲に左右されず、人として行ふべき正しい道といふことで、「義を見てせざるは勇無きなり」(論語)の「義」ですので、理性の産物であることは明らかです。義と不義とを比較して認識し、義に従つて行動しなければ勇がないとの価値判断ですから、そこには計算があり気負ひがあるのです。計算といふ言葉に違和感があるのであれば、比較考量といふ言葉に置き換へてもよいのです。理性とは、この比較考量する働きなのです。


ですから、幡随院長兵衛に始まる任侠は、弱き者を助けることに主眼があるのではなく、強き者を挫くことを目的とし、強き者が弱き者を虐げることを許さないといふ大義名分が先行します。大義名分とは、義から派生したものですが、「義理」に近いものです。義の意味に加へて、「掟」や「体面」、「面目」、「本分」が加はつたものです。人を取り巻く様々な人間関係や社会関係によつて「義」が規律されることです。


さうなつてくると、義は人の数だけ存在します。こちらの義は、相手にすれば不義です。それぞれの人にそれぞれの義があるといふことです。弱い者でも邪な人は居ますし、強い者でも善行を積む人だつて居ます。強い者の世話になつて、義理で縛られてゐる弱い者も居ます。義といふものは、関係性で決定される性質のものであるといふことになります。


ですから、「侠」のやうに、必ず弱い者に寄り添ふ行動をするとは限りません。強い者に付くか、弱い者に付くか、といふ選択を迫られたら、一般には、弱い者に付くことは損をする道です。その意味では、前に紹介した宮崎説とは結果は同じですが、常にさうであるかは判りません。その例外もあるので、やはり、「常に」弱い者に寄り添ふことを「侠」とすべきことになります。


現代は、富める者はますます富み、その反面で貧しい者はますます貧しくなつてきてゐます。所得格差、資産格差はさらに大きく広がつてゐます。しかも、それを加速させてゐるのは政府の政策にあります。これが世界的な大きな傾向です。


富者がさらに富めば、そのおこぼれを貧者が貰へて少しは豊かになつて行くとする新自由主義によるトリクルダウン理論を信じて世界共通の経済政策が進んでゐますが、そのためにますます格差は広がつてゐます。トリクルダウンではなく、現実にはトリクルアップになつてゐますので、この理論は完全に破綻してゐるのですが、それが判つてゐながら政策が継続され、ますます深刻な事態になつてきてゐます。


どうして格差拡大に拍車をかけてゐるのかといふ理由は、簡単に説明できます。それは、レントシーキング(rent-seeking)の活動によつて富の収奪が加速するからです。レントシーキングといふのは、富裕層や大企業が政府や官僚に働きかけ、富裕層(大企業を含む)が自己に有利な法令を成立させ、産業振興などの産業政策の名目で、極めて安価にて国家財産(土地、鉱業権などの公共セクター)の払ひ下げを受け、又は、規制緩和による便益を優先的に受け、あるいは特例的な優遇(貿易、店舗展開、販売活動などについての有形無形の優遇)を受けるなどして、高い収益率や利益率を独占的に享有する大きな便益を政府からの「贈り物」として搾り取る活動のことです。


歴史的に言へば、日本では三井、住友、三菱財閥など、韓国では現代グループなど、そして、アメリカではロックフェラーなど、いはゆる財閥はこのやうなレントシーキング活動によつて形成されました。一個人による努力や才覚だけで、ここまで大きくなれるはずがないのです。どこの国でも同じことです。インターネットが普及したことも、これにより最近になつて急成長した企業なども例外なくこの恩恵を受けてきました。そして、政府の手厚い保護と援助で肥大化した企業グループは、自己増殖する性質がありますので、その活動の裾野が途方もなく広がります。中核企業の関連事業、そしてそのまた関連事業といふやうに際限なく広がつて巨大な企業グループが形成されて行きます。


当然、成長産業である福祉産業などにも進出します。さうすると、政府の社会福祉政策を推進させるための部門にもこの関連企業が当然に指定席を占めます。要は、福祉政策だけに限らず全ての政策分野において、アメリカも支那も、東南アジア、アフリカなど、さらに、韓国でも日本でも、世界中がトリクルダウン理論に踊らされて、レントシーキングによるトリクルアップによつて、国家予算から多くの利益を搾り取り、貧困層には予算が全部が行き渡らず、貧困層からピンハネする収奪システムが確立してゐるのです。


このやうにして、いまや、マルクスのいふ窮乏化理論は現実的になつてきました。共産主義の残党たちは、いまや革命を声高に叫ばず、資本主義的な経済論争の土俵に立つて議論するといふ茶番劇を演じてゐます。本心は、もつと格差が拡大し、革命の機会が出てくることを夢想してゐるのかも知れませんが、面従腹背の鼻持ちならない輩であることに変はりはありません。


いづれにせよ、世界的な傾向としては、トリクルダウン理論の信者たちによる政策が推進されることによつて、中間層が没落して窮乏化し、今後ますます生活保護受給者が増大します。そのために、働く気力が失せ、物貰ひ生活にどつぷりと身を落とした「人間サファリパーク牧場」の住人を増やし、その住人たちを飼育する営利企業の管理費用や報酬が増えて、これによつて一層利益を上げるといふ収奪システムが確立してきたのです。

これは、世界的な傾向となり、今や、アフリカのナイジェリアが再び「奴隷海岸」といふ名称に変更されるのではないかとの懸念が現実味を帯びてきました。支那でも貧困層の不満がますます大きくなり革命前夜の様相になつてゐます。これは、対岸の火事のごとく他国の話だと思つてなりません。


我が国では、ある面においてもつと深刻な社会崩壊、国家崩壊の危機が迫つてゐるからです。それは、格差拡大による貧困の深刻化、貧困、失業、若年層の未就労などによる新家族の形成不能と既存家族の崩壊、そして、家族の離散と崩壊を擁護する個人主義の徹底によつて、「孤独」といふ新たな「貧困」が発生してゐるからです。


このやうな時こそ、「侠」の意義を改めて噛めしめる必要があります。弱き者は貧者です。弱き者に寄り添ひ、大御宝の生活を底上げする社会変革を「侠」に求める必要があります。

理性の働きによる知識の習得だけでは、人類が再生しうる智恵が生まれません。本能の働きによる心と情を活性化すれば、人類が再生できる智恵と才覚が生まれます。


いまや理性に由来する「義」や「義理」によつては社会変革のセル・モーターの役割は果たせません。人類に備はつた社会防衛本能から生まれる連携と秩序回復を目指す「人情」が世の中を救ふ原動力として、家族と社会の再構築が必要となつてくるのです。

平成二十六年八月一日記す 南出喜久治


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