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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九回 ジキルとハイド

さかさまの まじはりあはぬ いひわけを わけずかたれば こころやぶるる
(逆様の交はり合はぬ言ひ訳を別けず語れば心破るる)

『ジキル博士とハイド氏』は、イギリスのスチーブンソンが明治19年(1886+660)に著した小説ですが、我が国ではその3年後の明治22年に帝国憲法が発布されたわけですから、ずいぶん古い話です。

これは、二重人格を題材にした怪奇で不気味な作品として世界的に話題となりましたがこのプロットは、次のやうなものです。

ジキル博士は、自分の中にある善と悪とをそれぞれ別の人格に分離するための薬剤を発明し、ジキルがそれを服用すれば外観が醜悪で品性が下劣なハイドに姿まで変へられて悪の人格になれることに成功したのです。また、その逆に、薬を飲んでハイドになつた後に再びジキルに戻る薬も発明し、ジキルになつたりハイドになつたりして人格が入れ替はるといふ話です。


二重人格とか多重人格といふのは、人格障害の一種として、自我の継続的統一性が失はれて、2種又はそれ以上に分裂するものとされてゐますが、自我の継続的統一性が失はれない場合でも、善なるものと悪なるもののいづれかが他を押さへつけて強く出てくることや、それが入れ替はつたりすることもあります。何かがあつて、魔が差したとか、仏心が出たとか、心変わりがしたとか、心を入れ替へたとか、あるいは復讐の鬼と化したとか、と言つたやうにです。


このやうなことは、人格向上とか人格低下とかの感情の波によつて左右されることがありますが、相反する感情が同時に存在するのは、決して異常なことではありません。

つまり、相対立する二重の感情を抱くのは本能原理にはよくあることなのです。可愛さ余つて憎さ百倍、イヤヨイヤヨも好きのうちといふ複雑な感情があるのは、交感神経と副交感神経とのバランスによつて生命が維持されてゐるための証でもあります。


アンビバレンス(ambivalence)とか、その形容詞形のアンビバレント(ambivalent)といふ言葉があります。両向性とか相反性などと訳されたりしますが、定着した訳語はなく、要するに、ジキルとハイドのやうな二重人格とか二重感情のことです。

しかし、厳密に言へば、本能原理からくる「感情」と理性原理からくる善悪の「判断」とは厳格に区別する必要があります。

感情といふのは、理性的に善悪を判断した上で出てくるものではありません。本能に基づく感情といふのは、思考を経由せずに瞬間に生ずるもので、理性による判断に基づいて生ずるものではありません。


ところで、おなじイギリスで生まれ、スチーブンソンと同世代の小説家であつたチェスタートンは、「狂人とは理性を失つた人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」と言ひました。つまり、ジキルとハイドで描かれてゐる善悪の区別はすべて理性の産物であつて本能の産物ではないといふことです。


「欲望=本能=悪」と捉へるのは合理主義の致命的な誤りです。理性も欲望を押さへる働きがありますが、根本的な秩序を形成したり維持したりするために、これを破壊する欲望を抑へるのは本能の働きなのです。

本能とは、個体の生命維持の機能と種内の秩序維持の機能の体系ですから、剥き出しの欲望を抑制することによつて秩序維持を果たすのも本能の働きなのです。たとへば、近親相姦をしないのは、家庭内の秩序維持のために近親者には性欲を感じさせないようにして抑制した本能の働きなのです。人は理性的な理屈や道徳的な学習効果によつて近親相姦に及ばないのではないのです。むしろ、本能が低下したり壊れた人が近親相姦に及んだりするのは歴史的に見ても頷けることです。


ですから、損得勘定からくる欲望を抑制できないのは、理性によつて欲望を追求しても人に見つからないようにすれば罪として暴かれることはなく、身の安全が保てるといふメリットがあると計算するからです。損得勘定で欲望を満たす行動をするか否かを「判断」するのが理性の働きであり、理性の中に善悪が共存してゐるのです。決して、理性が善、本能が悪ではありません。こんなことを言ふのは、理性至上主義、すなはち合理主義であり、これが世界の思想や宗教に大きな弊害を生んだのです。


人間も動物もすべて本能によつて生命を維持して行動してゐる生き物ですから、もし、本能が悪であれば、その欠陥のために早く滅んでゐたはずです。ここまで生存できたのは備はつた本能に欠陥がなかつたからなのです。


ですから、理性といふのは計算による行動原理ですから、宗教観や道徳観で決められた善悪の区別においては、善の理性と悪の理性とがある訳です。善の理性とは、本能に適合する理性のことであり、悪の理性とは、本能に適合しない理性のことですので、既存の宗教観や道徳観の善悪の区別とは必ずしも一致しないのです。


既存の宗教観や道徳観による善行を続けることによる精神的満足といふ利益と、善行を続けないことによる精神的不満足といふ不利益とを比較して、善行を続けることを選択する判断をし続けたのがジキルなのです。そして、密かに悪行を続けることによる刺激的快楽の高揚といふ利益と、悪行を続けないことによる刺激的快楽の低下といふ不利益を比較して、悪行を続けることを選択する判断をし続けたのがハイドなのです。


人を私欲で殺すことは、部族内の秩序を乱すことになるので本能適合性からしても既存の宗教観や道徳観からも「悪」ですが、部族、民族の生存をかけた戦争で相手の部族、民族を多く殺戮することが部族、民族の保存本能に適合する場合は「善」になります。ところが、既存の宗教観や道徳観では、どんな場合でも人を殺すことは「悪」として、平面的で形式的平等の価値観で語ることになります。

「平和時に一人を殺せば犯罪者となるが、戦争時に多数の敵を殺せば英雄となる」といふ言葉に対して、既存の宗教観や道徳観では説得力のある説明ができないのです。


このやうに、善悪の区別は、本能適合性があるか否かで決まるもので、本能行動においては誤りはないのですが、理性による善悪の判断とその行動の場合は、計算の立て方によつて善悪が逆転することがありうるのです。

つまり、「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」とチェスタートンが言ふやうに、ジキルとハイドの話は、本能に基づく感情をコントロールする本能機能を全く失つて、理性の塊(理性のお化け)となつたために起こつた悲劇と言へます。

ハイドは、最期には私欲によつて人を殺すことになりますが、そのときは本能による殺人に対する感情的抑制が働かずに、その感情を乗り越えて、理性による損得勘定で殺すことになつたのですが、このジキルとハイドの物語は、「本能=欲望=悪」、「理性=自制=善」といふ合理主義の思想の誤りを世界に広めることに一役買つてしまつたのです。


ところで、このジキルとハイドの話は、これより約70年前に発表されたフランケンシュタインの話がモデルになつてゐるのだと思ひます。

フランケンシュタインの物語はかうです。

スイスの科学者であるフランケンシュタインは、ドイツにて自らが作り上げた「理想の人間」(理性的人間)の設計図に基づいて、それが神に背く行為であることを自覚しながら、自らが「創造主」となつて人の死体を利用して「人造人間」を完成させました。この人造人間は体力や知性などにおいて完璧でしたが、その容貌は極めて醜く異形でした。フランケンシュタインは、これに絶望し、人造人間を残して故郷のスイスに逃亡します。しかし、人造人間は容貌の醜さを悩みつつ、「創造主」であるフランケンシュタインの元に辿り着き、伴侶となる異性の人造人間を造るやうに要求しますが、フランケンシュタインはこれを拒否します。人造人間はこれに絶望し、それを復讐に転嫁してフランケンシュタインの弟や妻、友人などを次々に殺害しました。フランケンシュタインは、これに憎悪を抱いて人造人間を追跡しますが、最後は二人とも怒りと嘆きを抱いて憤死するといふ物語です。


これは、理想かつ完璧な観念であると信じられた合理主義(理性論)は、醜さといふ最大の欠陥があり、争ひを繰り返して人類を幸福にせず、その究極には破綻と滅亡が待つてゐることを寓意するものだつたのです。


人間以外の動物は、自己保存、自己防衞、種族保存、種族防衞などの本能による忠実な生活をするために、生活するための必要最小限度の獲物を捕らえることはあつても、決して無益な殺生や姦淫、盜みなどをしませんが、人間だけは時にはそれを犯します。それこそが「人間らしさ」と云へばそのとほりですが、そのやうなことをすると、外道、畜生、ケダモノなどと最大級のスラングで罵られます。そして、忠実に本能に從ひ品行方正な生活を営む動物たちに謂はれなき中傷を浴びせ濡れ衣を着せるのは、靈長類だと自惚れる人間の滑稽さでもあります。人間だけに理性といふ「高尚なもの」が備はつてゐるのだとしたら、人間だけが無益な殺生や犯罪をすることからして、その原因が「高尚な理性」に欠陥があるのだとすることが、それこそ理性的判断のはずです。


ところで、このフランケンシュタインとその人造人間の末路は死による破綻でしたが、ジキルとハイドの場合も同じやうな破綻の末路が待つてゐました。

ジキルは薬を飲んでハイドになり、おぞましい欲望を満足させてきましたが、その抑制ができなくなり、ハイドとしては悪の限りを尽くし遂に殺人を犯してしまひました。そして、そのうち、ハイドからジキルに戻る薬の効き目がなくなつたり、逆に、薬を飲まなくても自然にハイドに変貌するやうな事態が起こるやうになります。そして、ついにハイドの悪事が暴露され、ジキルに捜査の手が及んできたので、逮捕寸前にジキルも自殺するのです。理性の塊である人格破綻者の末路としては当然のことでせう。


追ひ詰められて自殺するのは、理性の働きです。本能に忠実に生きてゐる人間以外の動物は自殺しないからです。病的現象としての自殺は、生命維持本能が低下したり壊れたりする現象ですが、覚悟の自殺の場合は、自殺することによる苦痛からの解放や自殺することの見返り(自己及び家名の名誉の維持といふ精神的利益、遺族が生命保険金を取得するなどの財産的利益など)といふ利益と、自殺しないことによる苦痛の継続と増幅といふ不利益とを比較して、利益が不利益を超えると判断した計算によつて自殺するのです。。

いづれにしても、ジキルとハイドの話とフランケンシュタインの話は、理性を純粋に突き詰めて行けば、結局は破綻するといふことですが、この点こそが合理主義の最大の自己矛盾であり、チェスタートンの言葉が正しいことが証明されてゐるのです。


ところで、人には、先ほどのアンビバレント(ambivalent)な感情が共存しうるのですが、このやうな感情(本能)の世界とは異なつて、論理(理性)の世界ではアンビバレントな理論や主張が共存することはあり得ません。もし、そのやうな事態になると、論理破綻とか論理矛盾と批判されて、議論の場から退場することを余儀なくされます。


しかし、我が国では、世界でも例外的に、このやうなアンビバレントな論理や主張が今でもまかり通つてゐます。その原因は、長い間続いたGHQ占領政策による刷り込みにあります。この刷り込みが徹底し、その後遺症に苛まれてゐる現在の日本人には、この論理破綻者が余りにも多いのです。


その論理破綻の最大のものは、なんと言つても、やはり占領憲法に対する姿勢についてです。占領憲法を憲法として承認しながらその制定過程の問題などを理由に改正しようとする人たちが陥つてゐる倒錯現象のことです。

その倒錯した論理を端的に説明すると、
1.占領憲法護憲論に対抗するために占領憲法を批判すること。
2.占領憲法無効論に対抗するために占領憲法を擁護すること。
を両建てすることにあります。つまり、議論の相手によつて行論や立場を劇的に変へるのです。

もう少し説明すると、この論理破綻者は、占領憲法について、
3.押しつけられたものとしてボロクソに批判しながら、同じやうに天皇に対してもそれが押しつけられたのに、天皇の公布がなされたことを理由として有効と判断する。
4.占領下の検閲と言論統制、それに食糧難の中のドサクサで制定されたことは理不尽であるとしながら、良いことも書いてあるととしてこれを歓迎する。
5.憲法として認めるならば厳格に解釈して運用しなければならないのに、平気で解釈改憲をする。
6.9条では軍隊を禁止してゐるのに自衛隊を認める。
7.交戦権が認められてゐないのに、自衛権が認められ、しかも自衛戦争ができるとする。


このやうな症状は、特に保守風味の言論人やこれに追随する者たちの慢性疾患に特徴的なものです。これらの人は、まさに「アンビバレントな似非保守」と言ふべきで、遊び心で漢字を当てはめてみると、「暗媚罵憐徒」がぴつたりで、これから「アンビバ保守」とでも呼びませうか。


それにしても、どうしてアンビバ保守は、欧米人から植え付けられた理性以外の全てを失つた理性のお化け(狂人)になつたのでせうか。日本人の本能(心、魂)を失つたことに気づかなくても、あるいは積極的にこれを失つても生きて行けると思つてゐる似非日本人だからです。もし、占領憲法を憲法として無効であると主張すると、これまでの主張の誤りを認めなければならないし、さうするとこれまで占領憲法を憲法として有効としてその改正をしようとのしてきた運動の仲間との共同意識が破綻し、自分も村八分にされることが怖いからです。その恐怖にさらされる不利益と、これまでとほり占領憲法改正論を唱へて仲間との連帯を続けることの利益とを比較すると、占領憲法改正論を唱へ続けることが私益になると判断してゐるからです。これこそが理性ならではの計算であり、公益よりも私益を優先することに罪の意識を感じなくなつてしまつたからです。


今年の7月1日に、交戦権が認められてゐない占領憲法でも集団的自衛権の行使が容認されるとする閣議決定がなされました。ほとんど換骨奪胎の内容でしたが、占領憲法の実効性を否定し、帝国憲法の実効性を回復した点において歓迎すべきものでした。もともと、占領憲法は憲法ではないので、これは「解釈改憲」ではありません。閣議決定といふ方法で占領憲法の解釈が変更されるのですから、占領憲法には憲法としての規範性、実効性がないことになり、このことは、真正護憲論が正しいことの有力な根拠になります。ですから、帝国憲法に適合しうる限度において、いくらでも解釈の変更をしてもよいのです。


ところが、残念なことに、国民の大半は、占領憲法を憲法だと未だに信じてゐる「占領憲法真理教」の信者たちですから、集団的自衛権の行使容認を認めるための正規の「明文改憲」の手続を行ふのは絶望的であるので、仕方なく詭弁を弄して「解釈改憲」をするのですが、まともな神経の人であれば、これが詭弁であることを自覚してゐますので当然に後ろめたさを感じてゐるはずです。

これを肯定する人たちは、この詭弁の矛盾を押し通すことの内的な葛藤による精神的不安定を、自己防衛的になんとか安定させ、自らに言ひ聞かせる自我の働きとして、集団的自衛権を認めることによつて日米共同による戦争抑止力が高まとか、我が国の立場で戦争抑止力の整備をする必要があるとかとする防衛実益論で議論を誤魔化して逃げようとします。このやうな自我の働きは、「防衛機制」と言ひますが、こんな人格障害者による説明では、多くの人は到底納得できません。


集団的自衛権の行使を解釈改憲して認めることは余りにも占領憲法9条の解釈の限界を超えてゐることや、本心としては直接的に9条の改正前をしたいのに、その前に96条を改正して改正要件を緩和しようとするする猫欺しの奇策まで繰り出す動きに、殆どの人は辟易して胡散臭いものがあると直感的に気づいてゐるからです。


嘘や詭弁などは、文学の世界ではウイットとして認められても、政治や憲法の議論では到底通用しません。


高村正彦氏(自民党副総裁)は、今年の5月3日の「似非憲法記念日」に行はれた各政党幹部によるNHKの憲法記念日特集『9条と集団的自衛権』といふ討論会で、かう発言しました。「9条2項、頭の良い中学生が読んだら、自衛隊は憲法違反じゃないのといふ文言なんですよ。で、まあ、それは大人が知恵を出してですね、いくらなんでもそれはひどいだらうといふことで、自衛隊は憲法違反でないといふことにした。これはすばらしいことで、すばらしい知恵を出したと思つてゐますよ。やつぱりそれは私たちが文言通りに読んだら、これは実態に合はないといふことがはつきりしてるものは変へた方がいいのではないかと。」と豪語し、これに対して、他の政党幹部は、共産党ですら誰も異議を唱へなかつたのです。


この「大人の智恵」とは嘘と詭弁のことであり、そのことを恥とは思はず、逆に自慢して、さらに嘘と詭弁で塗り固めようと露骨に考へてゐるのです。実態に合はないとか、時代に付いて行けないなどと言つて開き直りますが、誰が読んでも判る条項であつたものを無理にねじ曲げて嘘と詭弁を用ゐいて判りにくい解釈をしてきた人にそんなことを言はれたくはありません。


また、小沢鋭仁氏(日本維新の会・国対委員長)も、同じ討論番組で、「憲法の変遷」理論を持ち出して、9条の換骨奪胎を主張します。改憲論も護憲論の一種なのに、「護憲」を否定する訳です。つまり、「無理が通れば道理が引つ込む」との「道理」とする倒錯した不条理を当然だと平然と開き直る者も出てくるのです。


こんな人は、嘘を百回言へば真実になると本気で考へてゐるのか、あるいは嘘と詭弁と本音をその都度使ひ分けて快感を覚えるジキルとハイドに親近感を持つてゐるのか、このやうな「アンビバ保守」(暗媚罵保守)を世の中から一日も早く退場させないと我が祖国は再生できません。


護憲論と改憲論とは、改憲反対護憲論と改憲賛成護憲論といふ兄弟なので、この論争は兄弟喧嘩に過ぎません。水と油ではなく、バターとチーズの争ひといふか、ジキルとハイドの理性同士の対立ですので、いづれ仲良くなるのです。

本当の対立軸は、護憲の対象とするのが占領憲法なのか帝国憲法なのかといふ論争なのです。これこそ水と油の論争です。この対立軸によつて真摯に議論して国家百年の大計を論じなければ、国家再生の契機は訪れないのです。

平成二十六年八月十五日記す 南出喜久治


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