自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.01.15 連載:第十九回 国民主権【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第十九回 国民主権

えせおきて さがにかなはぬ ものなれど なまじそむけぬ たみこそあはれ
(似非掟本能に適はぬものなれどなまじ背けぬ民こそ哀れ)


自民党と公明党の連立政権は、今年で16年になります。

自公の連立政権は、昨年の解散前においても衆議院で三分の二の勢力を維持してゐましたが、解散総選挙後においても再び同様の勢力を維持したものの、その内訳は、自民微減も公明微増であり、連立政権における公明党の影響力が一層強くなつただけで、大きな変化はありませんでした。


しかも、来年の参議院議員選挙に自公が大勝したとしても、参議院では三分の二の壁を突破することは困難であるどころか、今後において安倍政権の内外における失政や、与党の勝ちすぎに対する反動によつて、揺り戻しが起こる可能性が高いのです。


その結果、「現行憲法の自主的改正」を謳つて結党した自民党の安倍総裁が掲げた「戦後レジームからの脱却」の要諦である自主憲法の制定への道は、皮肉なことに、これまでの「冬の時代」を通り過ぎて「氷河期」に突入するでせう。

自民党は、今後これ以上の党勢拡大が期待できず、しかも、改憲の抵抗勢力である公明党との連立政権を維持してゐる限り、技巧的で皮相な改憲の議論が空回りするだけで到底発議のための改正案が纏まらず、衆参での発議まで漕ぎ着けることはできず、仮にそれができたしても、国民投票で承認されない環境に陥つて、占領憲法の改正は限りなく不可能になることが予測されるからです。


それにしても、昨年の総選挙は、投票率が史上最低となり、前回の最低記録を更新しました。都道府県単位では、50%を下回つたところがいくつもありました。自民党が比較第一党となつた比例区について言へば、全国の有権者総数(1億425万人)に対する自民党の投票数(1770万票)の割合は約17%です。つまり、有権者の約17%しか自民党を支持してゐないのです。

また、公明党の得票数は730万票ですから、自民党と合はせても、連立政権の得票数は2500万票ですから、全国の有権者総数の約24%に過ぎません。

つまり、自公政権は、全有権者の4分の1以下の支持しかないのです。

もし、これでは、民意が反映してゐないといふのであれば、それは国民主権を実現する選挙制度の誤りであるとすることになり、現在の小選挙区制といふ「政党優遇」、「政党ギルド制」である選挙制度が誤りといふことになります。しかし、あくまでも選挙制度の誤りであるとするだけで、その本源である国民主権の誤りといふところまでは、誰も考へが及ばないのです。


「民意」とか「一般意志」といふ言葉は、為政者の独裁を正当化する呪文です。民意といふものは幻想です。どんな選挙制度にしたとしても、民意が正確に反映されることはありません。少しでも「死票」が出れば、民意は正確には抽出できないのです。

特に、小選挙区制では死票が多く生まれます。これを再度改正して、元の中選挙区制に戻すと、相当程度死票は減りますが、それでも程度問題です。

民意が限りなく正確に反映されるやうな選挙制度にするとすれば、自民党が目指す改憲のための議席確保はさらに遠のくことが解つてゐますので、小選挙区制の改正は絶対しないのです。


ですから、「一票の格差」といふやうな訴訟マニアによるチンケで形式的な問題よりも、この問題こそ最重要なのです。そして、さらに大きな問題は、「第十六回 制限選挙」で述べたとほり、無所属候補が政党公認候補と著しい差別がなされてゐる現行の選挙制度が、実質的な制限選挙制度であるとする問題なのです。


ところで、近代的な立憲主義憲法の一般的な説明としては、憲法の本質は基本的人権の保障にあり、これを制限しようとする国家権力の行使を拘束・制限することに憲法の使命があるとして、国家権力と国民とは対立構造にあると捉へてゐるやうです。しかし、これが君主主権の憲法の理解であれば通用するとしても、「国民主権」の憲法とされる占領憲法の理解としては相当に無理があり、明らかに矛盾が露呈してしまひます。


国民主権であれば、統治権の源泉が国民にあり、それによつて国民は支配されるのですから、支配者(国民)と被支配者(国民)とは「自同性」があり、国民主権の帰結である普通選挙制度による民主主義が制度的に保障されてゐる限り、支配者と被支配者との対立構造なるものは論理的にあり得ないのです。つまり、普通選挙制度によつて国民の代表が選任され、議院内閣制によつて内閣総理大臣が選任されるのであれば、内閣総理大臣は、国民の「一般意志」を体現した者であり、その判断は、民意に基づくものとするのが占領憲法による解釈の帰結であるはずです。さうであれば、与野党を問はず、安倍総理は国民主権による「民意」(一般意志)を体現する者ですから、すべてはその方針に従ふことが憲政の常道といふものですが、現実の政治状況は到底そのやうには行きません。ここに、国民主権の理論的な立前と現実との乖離が見られ、国民主権なるものの致命的な欺瞞と矛盾があるのです。


そもそも、このやうな二極対立による立憲主義の理解は、「革命国家」固有の理解であつて、「伝統国家」であるわが国には全く通用しません。井上毅は、大日本帝国憲法の草案において、『古事記』などに示された「しらす」と「うしはく」の区別を重視した。「すめらみこと」(総命)が「しろしめす、しらす」(知ろし召す、知らす)といふのは、狭義の「しらす」である「天皇祭祀」(神宮祭祀と宮中祭祀)のことであり、これが臣民の祭祀(祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀)の雛形となつてゐるのです。そして、この狭義の「しらす」(祭祀)に「うしはく」(統治)とを統合させた広義の「しらす」とを区別して国家経綸の本質を理解してきたのです。祭祀と統治とが統合されたものが國體(くにから)なのです。それゆゑ、帝国憲法第一条の「統治」は、まさにこの広義の「しらす」を意味し、狭義の「しらす」と「うしはく」を含んだ概念ですが、第四条の「統治権」は、「うしはく」(領く、主帯)といふ権力的概念なのです。


わが国では、國體的概念である「しろしめす」といふ「権威」と、それを源泉とする「権力」(うしはく)とは区別されてゐます。権威(王者の徳)と権力(覇者の力)の弁へ、すなはち「王覇の弁へ」こそがわが国の伝統なのであり、わが国は、天皇の「祭祀大権」(しろしめす)と天皇の「統治大権」(うしはく)とを明確に峻別してきた「道義国家」なのです。


しかし、現代の憲法学は、「主権」といふ権力的要素しか論ぜず、その無謬性、絶対性、最高性を説く国民主権といふ傲慢な思想に支配されてゐるため、「権力は権威を犯すことができない」とする伝統国家における神聖不可侵の条項(第三条)や「非理法権天」の意味を理解することができません。


そのために、GHQの軍事占領下の非独立状態、厳密には「隷属」(subject to)状態では、わが国には国家の自主独立を前提とする「国民主権」なるものはなかつたのに、これがあつたとする荒唐無稽のフィクションを構築して、隷属下で成立した無効の占領憲法を有効であると騙し続けてきました。


これからは、「占領憲法の改正」ではなく、原状回復を行つて「帝国憲法の復原改正」を行はなければ、真の独立国家とは言へないのです。それをしないことが他国に侮られる根本の原因となつてゐます。それゆゑ、どうせ「改憲氷河期」に突入するのであれば、ここはじつくりと腰を落ち着けて、少なくとも今後における本格的な「改憲論争」をする前提として、占領憲法が憲法としての正統性があるか否か、憲法として有効か否かといふ「効力論争」を先行させる必要があります。

革命国家である欧米理論の猿真似と受け売りで憲法を語つてはなりません。伝統国家であるわが国固有の憲法(いつくしきのり)の要諦である、権威(しらす)と権力(うしはく)の区別を踏まへたわが国固有の議論がなされることを切に期待して止みません。


南出喜久治(平成27年1月15日記す)


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