自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.06.15 連載:第二十九回 方向貿易理論 その二【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二十九回 方向貿易理論 その二

ううるとき くがねありても かてなくば くがねたうぶて いのちたもてぬ
(飢うるとき黄金ありても糧なくば黄金食うぶて命保てぬ)


(承前)


我々の生活は随分便利になりましたが、身の回りにある買ひ揃へた器具や機械類などの商品をそれなりに操作することはできても、その商品が壊れたり故障したりすると、自分ではとても修理できないものが多く、食料も自分で生産できないし余り蓄へもありません。このままでは、いざとなつたときに対応できないといふ不安が大きくなるばかりです。また、昔は学問も技術も、すぐに理解できる実学として実践できたものが、今では専門家でなければ理解できないものになつて手の届かない存在になつてゐます。


これほどまでに世の中が複雑になり、学問や技術はさらに微細になるだけで、しかも、それは分業体制を推進する方向であるために、人々は心と生活の安寧を得られず、この状態が進めば進むほど、この先、決して幸福感を与へてくれる状態にはならず、益々不安になつて行くことを直観してゐるのです。


しかし、世の中の状態を根本的に見直して改善し、この不安を解消できる方法を誰一人として提示してくれないことに対する焦燥感と虚無感に充ち満ちてゐます。それでもなほ微かな希望も抱いてゐるのです。

かと言つて、その希望は決して共産主義へは向きません。人々は、共産主義思想のやうな暴力的で流血を生む過激で憎悪の連鎖を生む世界思想には辟易してゐます。私有財産を禁止したところで、人の持つ所有欲を否定して構築する共産主義の描く社会は、そもそも無理が必ず破綻します。

わが国は、律令国家制度を導入して「公地公民制」といふ、いはば「古代共産制」を取り入れましたが、百年足らずに完全に崩壊してゐることからも実証済みのことだからです。


その意味では、反グローバル化運動とその背景の理念となる新保護主義が示唆した方向性は正しいと思ひます。このグローバル化に抵抗する国家や人々の思ひは、自己保存本能と自己防衞本能などの「本能」に基づく危機感に根ざしたものから出てくるものと認められるからです。


ところが、反グローバル化運動を直観的には肯定的に受け入れてはゐるものの、それが過激化し憎悪を剥き出しにした一部の運動態様に対して、冷ややかな拒否反応と警戒心を芽生えさせてゐるのも事実です。そして、そのやうな露骨な憎悪心で突き進む過激なものではなく、これには未知の「何か」が人類の本能の中に潜んでゐて、それが具体的な叡智として出現し、平和で安心を与へる安定した社会を再生してくれる鍵ではないかと多くの人は受け止めてゐますが、果たして、新保護主義の7つの政策がそれを実現してくれるといふ確信も持てません。


歴史的に見ても、人々は、その人生を演繹的な論理のみを駆使して生きてはこなかつたのです。むしろ、特に、人が人生の岐路に立つたとき、あるいは緊急時においては、演繹的な論理を捨てて、瞬発的に帰納的思考といふ、経験論ないしは本能的な直觀によつて岐路のどちらかを選択して決着をつけてきたのです。


オントロジズム(0ntologism)といふ哲学上の立場があり、これは存在論主義(本体論主義)と訳されてゐるものですが、これもプラトン以後の哲学でみられる直観論です。これは、時空間において「有限世界」の現世に生きてゐる人間が、論理的かつ客観的には認識不可能な「無限世界」の存在(神)を論理で捉へることはできず、それは純粋直観でのみ捉へることができるといふものです。

人間が論理的に認識しうる最大の数値があるとしても、それはあくまでも有限の数値であつて、決して無限の数値といふものは存在しえません。有限の人間が無限を論理的に捉へることは無可能なのです。無限を認識しうるのは論理ではなく直観によるものです。

このやうにして、人間は直観世界に居ることを認識し、論理の危ふさを帰納的に実感する生き物が人間だといふことです。


このことは歴史的にみても、その帰納的な方法の正しさは証明されてゐます。たとへば、イギリスでの話を例に挙げてみませう。


イギリスでは、穀物の輸入に高い関税を課す穀物条例が一部の者だけを利するだけで国家全体の利益にならないとのリカードの意見に支配されて、穀物条例を廃止して穀物の輸入自由化に踏み切りました(1846+660)。

その結果、それまで百パーセント近い小麦の自給率が10パーセント程度にまで落ち込み、二度の大戦中に甚だしい食料難となつて、国内に向けての食料調達に苦しんだのです。戦勝国でありながら、敗戦国のやうな経済状態に陥つたのです。そこで、昭和22年(1947+660)に『農地法』を成立させて、食料自給率の向上を推し進めて、食料自給率を元の水準にまで戻したのでした。


このやうに、イギリスは、リカードの論理を捨てて、現実に起こつてゐる危機的状況の事実分析から国家の本能的直観と経験を働かせて大きく政策転換をし、このことは、イギリスだけでなく、西ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、カナダもまた、昭和57年(1982+660)ころまでに食料自給率を百パーセントを超えるまでに回復し、完全にリカードの論理から脱却したのです。


③「多国籍企業の統制」
 GATT(WTO)を廃止してでも、多国籍企業の活動を統制する必要があり、「売りたい場所に拠点を置く」企業だけに、経済アクセスを与へることです。


リカードの論理は、このやうに帰納的に否定されたのです。ところが、我が国では、未だにリカードの論理の呪縛から逃れられず、これに基づく自由貿易を推し進めて食料自給率は低下し続けてゐるのです。


この、リカードの論理である自由貿易主義こそが世界の不安定化要因であり、世界はこれからの脱却が必要であるとしても、建前上は、これにしがみついてゐるのです。アメリカなどは、本音と建て前とを使ひ分けて、自国に有利な場合にだけリカードの自由貿易主義を主張しますが、わが国では、本気でリカードの自由貿易主義を信じてゐる人が余りにも多いのです。


ところで、リカードの自由貿易主義が誤りであることは確かなことではあつても、そのことから、この反グローバル化運動の理念となつてゐる新保護主義の理論が完全に正しいとは、直ちに結論付けられません。性急に結論を出すのではなく、もう少し詳しく検討せねばならないのです。


なぜならば、この理論を適用した生活が豊かで安定したものになるのか否か、実際に実現可能であるか否か、さらには、長期に亘つて持続可能であるか否か、そして、これを維持するために必要なもの何なのか、さらには、新保護主義の7つの政策が本当にそれを実現するものなのか否かなどを判断するについては、個体と家族、地域と国家、それに世界、地球が、自己相似的な事象が連続して動的平衡を保つて存在してゐるといふ雛形構造(フラクタル構造)を踏まへて判断されなければならないからです。


また、具体的には、効用均衡理論に基づく自立再生論と新保護主義がどの点において共通し、どの点において相違するのか、といふことについても、次回以降において検討することにします。

南出喜久治(平成27年6月15日記す)


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