自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第四十八回 経済と政治

あきなひと まつりごととを わけへだつ しくみのきしむ おとぞきこゆる
(商売(経済)と政治とを分け隔つ仕組み(構造)の軋む音ぞ聞こゆる)

いれふだを ひとしなみにと もとめれど えらばれたるは ひよりみのひと
(入れ札(投票)を等し並(平等)にと求めれど選ばれたるは日和見の人)


前回(第四十六回)は、グローバルなものとして、特に、経済に関するものを述べましたが、今回は、政治に関するものついて述べます。


経済は、経世済民の略語なので、政治とを分離して語ることも、すでに「割れの世界」の合理主義によるものです。しかも、この二つを比較したとき、重要度としては、政治が最優先で、経済がその後であるとして、「政治、経済」といふ序列で語ることが多いのです。私もこの序列を慣用的に使つてきましたが、広い意味での経済は、政治を含むものであるとしたら、「経済と政治」とする方がよいのではないかと思ひます。


それはともあれ、前回では、アメリカの価値観によるグローバルなものとして、自由、人権、個人主義、民主主義、資本主義、自由貿易、そして、革命権(独立権)を列挙しましたが、このうち、資本主義と自由貿易が経済の守備範囲で、それ以外は政治の領域とされてゐますが、本当は、そんな簡単に分けられるものではありません。


制限のない経済活動と生活を求めるために、自由、人権、個人主義、民主主義、そして革命権(独立権)を主張してきたことからすると、これらは不可分一体のものととして捉へなければならないからです。


経済面では、資本主義と共産主義の対立、政治面では、民主主義と全体主義の対立といふのがこれまでの対立の分類でした。そして、資本主義=民主主義、共産主義=全体主義、と区分されてきましたが、この分類を崩したのが中共でした。ホンコン、マカオの返還に際して、一国二制度としました。

政治は、中央政府によつて支配(起用三党独裁の全体主義)されるものの、ホンコンとマカオには、特別行政区として資本主義制度を適用するといふものです。

そして、さらに、支那全土においても、共産主義(共産党独裁の全体主義)の政治体制のまま不完全なままの資本主義経済を導入する「改革開放政策」に踏み切りました。これによつて資本主義と自由貿易の国際社会に参入したのです。


しかし、経済と政治とは区別できるとしたものの、資本主義、自由貿易の拡大は、必然的に、自由、人権、個人主義、民主主義の政治的要求を拡大させ、一党独裁の政治体制の維持との間で様々な問題を引き起こしてゐるのです。


つまり、プラグマティズムの視点からすると、政治といふのは、現実の経済によつて変化を余儀なくされるといふ宿命にあるので、全体主義と資本主義との確執は、必ず全体主義の崩壊をもたらすことになります。


ところで、経済面における資本主義と自由貿易が合理主義による分業体制によつて支へられてゐることからすると、この経済体制を投影する政治体制も分業体制によつて支へられることになるはずです。


ですから、全体主義は必然的に民主主義に取つて代はられる運命にあります。つまり、全体主義は極一握りの者で政治を支配する体制ですから、それを分業化して、多くの人が政治参加できるやうにしたのが民主主義なのです。つまり、民主主義体制とは、全体主義体制が分業化して崩壊した姿であると言ふことができるのです。


さうすると、合理主義をさらに押し進めて、民主主義体制をさらに分業化することは可能です。

その一つが徹底した地方分権化です。中央集権から地方分権といふ流れは、まさに政治面での分業化です。

さらには、今では代理投票は禁止されてゐますが、これを解禁することや、議員の代理人の選任も分業化の一環です。

自分では判断できない専門的な事項、特殊な事項などについて、より深い知識を持つてゐる者に投票行為を委任することも、選挙民の政治選択として、分業化の一貫として認められるはずです。


ところが、これらに対する抵抗は根強いものがあります。なぜでせうか。


それは、まづは、分業化に対する強い懐疑があるからです。つまり、保守主義による抵抗です。

そして、その理由として一般に言はれてゐるのは、経済は分業化に馴染んでも、政治は分業化には馴染まないといふのです。政治が分業化すれば、統一した行政が保てないとするのです。

また、議員と選挙民といふ二極だけでなく、それぞれ専門化して代理に馴染むやうにすれば、選挙も政治も効率があがるとするのが分業化のはずですが、どうもそのやうには理解されないらしい。


これは、政治と経済は根本的に違ふとする根強い考へであり、合理主義による分業化において、政治と経済とは温度差があり、明らかに二重基準となつてゐます。


それどころか、これとは逆行して、分業化を廃止して、統合化を推進しようといふ動きもあります。それは、直接民主制の導入です。議員と選挙民との区別を廃止して、選挙民が議員を兼務するのが直接民主制であり、分業化とは完全に逆行します。その逆行することについての言ひ訳としては、その方が民意を反映できるといふのです。このことは、住民投票についても同様に言はれてゐます。


もし、民意の反映において、直接民主制といふ分業化の否定が必要であるとするのであれば、経済において、分業化を否定する方向は、民意の反映といふか、生活者の意思を反映したことになるといふ論理も成り立つはずです。


やはりこれは、分業化を推し進める合理主義に対抗する保守主義(本能主義)の対立を示唆するものとして、重視しなければならないのです。


このことを契機として、経済も政治も、分業化といふ合理主義で押し進めてもよいのかといふ大きな問題提起が生まれます。


 現在、一票の格差といふ問題が、政治の世界で大問題となつてゐますが、これは、平等原則を過度に意識した議論です。政治の世界において、それほどまでに厳格に平等を意識するのであれば、どうして、経済において、これに勝るとも劣らないと一生の格差について是正を求めないのでせうか。これも明らかに二重基準なのです。


 現代では、「一票の格差」といふ政治格差の問題よりも、「一生の格差」といふ経済格差の方が重要であるのに、富の再配分として、一生の格差を是正することに全く議論がなされません。このことについては、第十六回、第二十回及び第二十二回で繰り返し述べてきましたので、再度読み返してください。


つまり、この「一票の格差」を是正するといふ些末な課題は、最も重要な問題である「一生の格差」の是正を怠つてきた政治の責任が追及されることから目を逸らさせるカムフラージュのためにダミーとして使はれてゐるだけなのです。


どうして一票の格差問題が欺瞞に満ちた些末な問題かと言ふと、一票の格差といふ形式的なものよりも、それ以上に問題は「死票」の問題と「投票率」の問題です。


得票率において過半数を占めない政党の議席占有率が過半数を遙かに超えると結果となる小選挙区制度では、「死票」が最も多く出ます。一票の格差が完全に是正されたとしても、このままでは、もつと死票がでます。この死票を少なくすることが最大の課題なのに、一票の格差問題といふオモチャを宛がつて子どもの歓心を買つて誘拐するといふ手口と同様の方法で誤魔化してゐるだけなのです。


さらには、投票率の低下に歯止めがかからず、その原因は、参政権の閉塞的情況にあります。政党が民意を吸収して政治に反映するといふ導管的役割が機能不全に陥り、民意とは関係のないところで政策決定がなされることから、政治家への嫌悪感が増幅した結果、投票率がますます低下するのです。ごく一部のものの意思で当選者が決定するといふことは、一票の格差を是正したからと言つて解消されるものではありません。優先順序を取り違へて、形式的平等の「一票の格差是正」のために、国政の停滞を招いて居ることは憂慮すべき事態なのです。


合理主義を前提とすれば、政治に分業体制を導入することは、経済に分業体制を導入することと同様に、いづれも肯定されるなければなりません。一票の格差が是正されるのであれば、一生の格差も同様に是正されなければなりません。


もし、政治に分業体制を導入すると、政治の不正、腐敗、民意の反映ができないなどの不都合があるといふのであれば、経済に分業体制を導入することでも同じ結果が生ずるはずです。

つまり、現実に、経済の不正、腐敗、生活者の意思に反する事態が頻繁に起こつてゐるからです。


経済の分業化は、労働を商品化し、レントシーキング(rent-seeking)の活動(第八回参照)と賭博経済によつて富が著しく偏在して不当な経済格差を生じさせ、結果的には人権の侵害を生んでゐます。

これは経済の問題で政治の問題ではないとして、経済問題と政治問題とを切り離して考へる見解がありますが、これは明らかな詭弁です。そのやうな不公平な法制度を作つて維持してきたのは、まさに政治によるもので、すべては政治の責任だからです。


一票の格差があるとしても、その人の人生は破壊されませんが、一生の格差では人の人生は破壊されます。しかも、一票の格差は一代限りのもので、それが相続されることはありませんが、一生の格差は、その一代だけとは限りません。富裕と貧困の格差は相続されるからです。


つまり、政治には民主主義があつても、経済には民主主義がありません。産まれたときに、その人の貧富の格差と教育環境、経済環境は既に決定されてゐます。平等もなければ自由もありません。

もし、経済に民主主義を導入するとすれば、政治の世界に相続制度がないのと同様に、経済の世界でも相続制度を完全に廃止することしかありません。しかし、そのやうな方向にならないのであれば、経済と政治とは、異なつた原理で峻別され、二重基準を固定化させるといふ矛盾をそのままにすることになります。


このことを自覚した上で、経済と政治においては、分業体制の導入に格差があること、民主主義、自由、平等の理念が一律に適用されないことなどの矛盾を指摘して、そこから保守主義の復活を実現させる契機とするのです。


経済と政治を一体としての経世済民として捉へて、一日も早く合理主義から脱却させ、「割れの世界」を「結ひの世界」に変へる必要があります。

南出喜久治(平成28年4月1日記す)


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