自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第六十一回 憲法学の語り方

ことあげど つじつまあはぬ そのはてに あゆみはじめし くにからのみち
(言挙げど辻褄合はぬその果てに歩み始めし國體の道) 

これまで何回となく真正護憲論に対する様々な批判を取り上げてきました。今回は、そのまとめとして、憲法の議論の前提となる「論理」について、いはば、憲法学の語り方のルールについて述べてみます。


真正護憲論との比較するために、最近のものでは、安倍晋三(第49回)、小沢一郎(第50回)、日本会議(第51回)、橋下徹(第54回)、共産党(第56回)、小林節(第59回)、竹田恒泰(第60回)の憲法論を見てきました。それ以外にも、倉山満氏や谷田川惣氏など、ネット上での様々な戯言を述べてゐる者たちの批判は、真正護憲論が時代錯誤であるとか、憲法の無効といふ概念がないだとか、私が憲法論を知らない?とか、様々なものがありましたが、いづれも噴飯ものであり、論理的に真正護憲論を批判したものは何一つありません。


憲法とは何か、といふ概念定義自体が彼ら批判者とは異なつてゐますので、そもそも平行線となつて議論にならないのですが、これらの批判者はすべて、いはゆる自己の「憲法論」と「解釈」と「憲法」概念が絶対に正しいといふ独善的な立場に立つてゐるので、全く始末が悪いのです。

もし、彼らが少しでも「論理学」を知つてゐれば、恥づかしくてそんなに議論はできないのに、それを堂々と主張してゐるのですから呆れ果てます。つまり、彼らは、論理学を全く知らない無知蒙昧の「憲法業者」とその同調者であつたといふことなのです。


では、どうしてそのやうに断言できるのかといふことについて以下に詳しく述べることにします。


私は、國體護持総論の第一章や第五章で、クルト・ゲーデルのことについて触れました。「理性論の崩壊は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」からも証明された。」などと述べましたのは、憲法学は、論理学を踏まへたものでなければ、単なるアジテーションや思想に過ぎず、憲法論が理性論に留まつてゐる限り、政治学や歴史学などとの「領界科学」である憲法事項の全事象を語ることに限界があることを指摘したかつたからです。


では、この不完全定理といふのは、何でせうか。


それは、後に述べますとほり、第一不完全定理と第二不完全定理があるのですが、これらは一体的な意義を持つてゐます。特に、憲法学との関係で言へば、第二不完全定理が重要です。

第二不完全定理といふのは、厳密に定義すると、「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」ことを数学基礎論から証明したものです。つまり、形式論理学でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などが適用される無矛盾の領域は、全事象を網羅することにおいて完全ではない(不完全である)ことを証明したのです。


このやうな説明では少し難しいかも知れませんので、もう少し優しく説明してみます。


私は、クルト・ゲーデルといふ天才的数学者に対して随分前から興味がありました。ゲーデルは、昭和23年に、アメリカの市民権を取得するために米国憲法を勉強し、その保証人に名を連ねたアインシュタインに対して、「合衆国憲法が独裁国家に合法的に移行する可能性を秘めてゐることを発見した」と語り、その移民審査においてもその主張を堂々と主張してアインシュタインを慌てさせたといふエピソードがある人です。まさに、ゲーデルは、民主制から独裁制が生まれるといふ政治学、憲法学の真髄を論理的に見抜いてゐた人だつたのです。


ともあれ、数学界における最大理論的貢献は、ゲーデルがもたらしました。それが不完全定理です。これを一般的な表現で説明すると、第一不完全性定理(ある矛盾のない理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が必ず存在する。)と第二不完全性定理(ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明することはできない。)といふことを証明したことです。


これは、「自己言及のパラドックス」とか、「嘘つきのパラドックス」と呼ばれてきたものを利用して証明したものです。

その原型は、エピメニデスが指摘したパラドックス(クレタ島出身の伝説的な哲学者)です。これは、「クレタ人はいつも嘘をつく」(新約聖書「テトスへの手紙」1章12-15節)といふもので、俗に、「嘘つきのバラドックス」と呼ばれてゐます。

これを紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者エウブリデスも「ある人は自分が嘘をついてゐるといふ。さて、彼は本当のことを言つてゐるのか、それとも嘘をついてゐるのか。」と問ふたのです。


「私は嘘をつく」などのやうな自己に言及した自己言及命題の真偽については、もし、自分が嘘をついてゐることが真実であれば、この言葉は真実になつて「私は嘘をついてゐない」ことになるし、自分が嘘をついてゐないのが真実であれば、この言葉が嘘になつて「私は嘘をついてゐる」ことになるといふやうに、真実であつて虚偽であり、虚偽であつて真実であるとの永久循環を繰り返すバラドックスです。


これは、前にも述べましたが、形式論理学でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)といふ公理に反することになるのです。


ヘーゲルは、この自己言及のバラドックスを利用して、第一不完全定理と第二不完全定理を証明しました。この不完全定理は、自然数論とか基礎数学だけのものではなく、物理学などの自然科学のみならず、すべての学問について適用があります。勿論、憲法学や経済学などにおいても、また、個々の憲法学説の理論体系においても当然に適用があります。


特に、第二不完全性定理(ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体験の中で証明することはできない。)といふ定理は、平易に言へば、憲法学を例にとれば、占領憲法が憲法として有効であるとする学説も、憲法としては無効であるとする学説も、いづれも自己の学説の理論体系に依拠して自説に矛盾がないことを証明できないといふことであり、自説に矛盾が無いと言ひ張つても、それは自画自賛に過ぎないといふことです。


私は、真正護憲論を構築するについて、学説なるものの限界を自覚した上で、その理論体系内における「無矛盾」の論理的整合性だけを追求して完成させました。他説に対する批判は、自説の論理からの我田引水の批判よりも、その批判すべき見解の立場に立つた上で(その見解の土俵に乗つた上で)その矛盾を指摘することを中心にしたのです。


その結果、占領憲法が憲法として有効だとする見解には、それ自体に矛盾があることが証明されたので、そのやうな見解は、ヘーゲルの第一不完全定理の適用以前の問題となります。つまり、第一不完全定理と第二不完全定理が適用される前提としては、「矛盾のない理論体系」である必要がありますので、矛盾を抱へた理論体系では、そもそも理論体系としては成立しないといふことになるからです。


「無矛盾」の理論体系であつても、の無矛盾を以て自己の理論体系に矛盾がないことを証明できないのに、そもそもその理論体系もどき自体に矛盾があれば話にならないといふことです。


その決定的な論証が、帝国憲法の現存証明なのです。これについては、別稿で詳しく論じてゐますので読んでみてください。それは、簡略化して言へば、交戦権(講和権)のない占領憲法では、サンフランシスコ講和条約の締結も独立も出来ないし、日華平和条約の締結もできず、日ソ共同宣言も日中共同声明も出せず、日中平和友好条約も締結できないし、しかも、日華平和条約の破棄もできないといふ致命的な矛盾です。これらの条約や宣言等によつて、連合国との戦争状態を終結するできるのは、帝国憲法第13条を含む帝国憲法が現存してゐることになり、帝国憲法が現存してゐない限り、そのやうなことはすべて起こりえないことになつて、占領憲法が憲法ではないことを証明したのです。


少なくとも、昭和47年の日中共同声明と日華平和条約の破棄まで帝国憲法は現存してゐたのですから、帝国憲法が占領憲法によつて改正され、あるいは革命によつて成立したなどと主張する者が、それ以後に帝国憲法が無効化したとする抗弁の証明をしない限り、帝国憲法が現存してゐることになることは論理の当然なのです。


それゆゑ、占領憲法が憲法として有効であるとする見解には、この抗弁の証明ができない限り致命的な矛盾があり、学説として論理的に維持しえないのですが、このことについて、占領憲法が憲法として有効であるとする人たちは誰も反論しない(反論できない)のです。


たとへ矛盾のある見解であつても、誰がどのやうな憲法学説を支持するかは蓼食ふ虫も好き好きといふ自由がありますが、我々が憲法や憲法学について語る目的は、究極のところ、一体、どのやうな学説であれば、皇統を護持して日本の道義と生気の回復を実現できるのかといふ視点で学説を選択すべきなのです。そして、消去法的に判断すれば、それを実現できるのは今のところ真正護憲論しかなく、それ以外の学説であれば、これを実現できない、あるいは、これを実現しないことをあへて目的にするものであることを自覚しなければなりません。


憲法学の学説を守るのは、単に手段であつて目的ではありませんにもかかはらず、手段を目的化して、些末で筋違ひの議論に藉口し、矛盾した学説を擁護することに執着し、祖国再生を目指す真正護憲論を批判するのは、祖国に仇なす「国賊の言説」であると断言せざるを得ないのです。


憲法学を語るのは、このやうな論理学的な作法と志と勇気が必要であることを理解してください。


 

南出喜久治(平成28年10月15日記す)


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