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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第六十五回 交戦権と自衛権(その二)

たたかひを ゆるしあたはぬ いくさびと やたのからすも かかしとまがふ
(戦争を許し能はぬ軍人(交戦権なき自衛隊)八咫の烏も案山子と紛ふ)

これは、「第三回 交戦権と自衛権」(平成26年5月15日掲載)の続編です。


前回から2年半が経ちましたが、現時点でこれを変更すべき点は全くありませんので、もう一度読み返してみてください。

しかし、それ以後に政治環境は少し変はりました。それは、不十分な欠陥法制である安保法制が成立したことと、中共の尖閣侵略がいよいよ現実的になつてきたことです。

しかし、我が国の法体系は全く変はつてゐません。占領憲法の改正は掛け声だけで、そのロードマップは描けず、まさに笛吹けど踊らずです。


そもそも、占領憲法の改正は全く必要ありません。帝国憲法は現存し、その復元改正作業をすればよいので、自衛隊は帝国憲法下の軍隊として認められ、緊急事態の場合は、自衛隊としては軍隊として粛々と行動すればよいのです。


ただ、現在の時点で、前回の論述に少し補足したいことがありますので、以下にそれについて述べてみます。


占領憲法を憲法として認める、いはゆる似非保守たちは、占領憲法第9条と格闘し、なんとかこれを無力化しようと画策してゐますが、なかなか名案が見つからないやうです。その原因は、そもそも占領憲法を憲法であるとしたことにあるのですが、改正利権にまみれてゐるため、無効論に踏み出すことができないのです。「無効」だと言つてしまふと、占領憲法の逐条解釈を生業としてきたのに、「商売上がつたり」となつて飯の種を失つてしまふからです。彼らは、国家のために憲法を論ずるのではなく、自己の生活と保身のために憲法を論ずる「憲法業者」だからです。


ところで、私は、数ヶ月前の、ある集会で、ある憲法業者(以下「O」と略称します。)に対して、質問する形式で議論することができました。いままで、多くの憲法業者に対して占領憲法の効力論争を何度も挑んできましたが、誰もこの挑戦に応へてくれる人は居ませんでした。そのために、どうしても道場破りの方式とか飛び入り方式で不意打ちの議論することしかできなかつたからです。


さて、Oは、私の知己でしたので、Oが占領憲法第9条を急いで改正しろといふ主張であることはよく理解してゐました。しかし、この主張は、占領憲法改正論としては正攻法であるとしても、政治的には実現性の乏しい憲法業者特有の机上の議論と言へます。これは、逆に言へば、改正できない限り尖閣は防衛できないといふ悲観的立場です。


Oは、第9条2項後段の交戦権の政府解釈が、言葉の普通の意味や国際法の常識とは著しく乖離してゐると批判しました。


つまり、交戦権の政府解釈として、公式に発表されてゐるものとしては、


憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定しているが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものである。

他方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するための必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められない。


といふものです。


政府見解は、交戦権(rights of belligerency)と交戦国の権利(belligerent rights,rights of belligerent)とを意図的にすり替へた解釈ですが、Oは、これを批判するよりも、政府見解のうち「わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである。」といふ点を意味不明であると批判し、だからこそ、9条の改正が必要であるといふのです。政府見解を批判するのは自己満足に過ぎず、状況は何ら変化しません。


そこで私が質問に立ちました。


Oと私との占領憲法の効力論に関して大きく異なることはお互ひが了解してゐます。そこで、ここでは、その立場の相違を議論するところではないので、質問としてはこれには言及しないことを暗黙の了解事項とした上で、Oの見解を踏まへて質問をしました。


その要点は以下の5点について回答を求めるものでした。


1 9条改正は、現在の政治状況において絶望的であり、9条改正を唱へることは敗北主義であること。 2 領土侵略は、9条改正がなされることを待つてはくれないこと。 3 交戦権の政府解釈が意味不明であるとして、交戦権の否認を従来とほりの解釈に固執するならば尖閣をはじめとする島嶼防衛は完全に不可能になること。 4 占領憲法が憲法であるとする見解に立つた上で、国土防衛の実効性のある理論を組み立てるならば、これまでの政府見解をさらにもう一歩踏み出し、「憲法変遷論」を肯定し、「自衛のための交戦権行使(自衛戦争)は、9条2項後段の適用を受けない」とか、「9条2項は事情変更によつて失効した」といふやうな大胆な解釈改憲を憲法学者は勿論のこと、政治家や政府がそれを唱へるべきであること。 5 しかも、仮に、全面的な自衛戦争が可能であると解釈改憲したとしても、国連憲章の53条及び107条の敵国条項があるため、地域紛争において国連安保理の許可が必要であるとの原則は、敗戦国日本には全く適用されず、安保理の許可がなくても中共は戦勝国の地位を承継した国家(国連常任理事国)として、敗戦国日本に対して軍事行動が行へることになり、結果的には、国際法上は日本の自衛権(自衛戦争権)がみとめられない事態を回避するために、国連を脱退する必要があること。


これは、質問といふよりも、改正論者に路線の変更を迫る意見でした。


憲法業者たちは、憲法変遷論を採ることに抵抗があります。それは、政府の御用学者に変節したと批判されるからです。宮澤俊義のやうにGHQにすり寄つて変節することには寛容ですが、日本政府にすり寄ることには抵抗があるやうです。しかし、それしか救国の解釈がないとすれば、それを唱へる勇気が必要になります。そんな勇気のある学者も政治家の官僚も居ません。私は、愚直に真正護憲論を主張してきましたので、占領憲法を憲法として認めた上で憲法変遷論を主張することは死んでもできませんが、もし、真正護憲論の立場でなければ、躊躇なく憲法変遷論を主張したはずです。


占領憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とありますが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」しうる国際環境がなくなつたことを事後的な事情変更の事実として認識し、占領憲法制定の基礎となつた立法事実の消滅を理由に、その上に構築された規範の失効を主張するのです。私は、その覚悟も勇気もない者が、改正ごっこの火遊びをすると大怪我をするぞと忠告したのです。


勿論、これに対して、Oから回答は、何ら説得力はなく到底満足できるものではありません。そもそも、私が満足できる回答を期待すること自体が間違つてゐるのです。私としては、決して知己のOに対する恨み辛みのために質問したのではありません。改正論者とかの憲法業者といふのは、所詮こんな程度であることを会場に居る人たちに知つてもらいたかつたからです。


いま中共が続けてゐる「サラミ・スライス戦略」は、日中平和友好条約(昭和58年)を締結する前に、中共が大量に漁船を繰り出して条件闘争を行つて条約内容を中共に有利なものとした成果に味をしめた人海戦術を踏襲してゐるのです。このやうなものに対抗するには、できもしない「9条改正」を言ひ続けるたけでは役に立ちません。


昭和23年4月27日に公布された海上保安庁設置法に対して、英、ソ、中が武裝軍復活のおそれありとの批判を表明したものの、アメリカが強く支持して海上保安庁が設置されました。警察予備隊、保安隊、自衛隊の設置よりも早いのです。つまり、海上保安庁は、帝国海軍復活の黎明組織として、いまも黙々と命がけで尖閣等を守つてくれてゐるのです。

南出喜久治(平成28年12月15日記す)


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