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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百二回 本能の体系(その一)

さがにいき いへをまもりて いのちつぐ いはひまつりの くにからのみち
(本能に生き家族を守りて命継ぐ祭祀の國幹の道)


【はじめに】

これから二回に亘つて、本能の体系について、根本的なことから順に話を進めて行きたいと思ひます。



【革命と合理主義】

「革命」といふ言葉は、天命が改まり、天命を受けた有徳者が暗君の姓(家)による王朝に代はつて天子となることを意味します。天命が革(あらた)まり、姓を易(か)へる、易姓革命のことです。我が皇室には姓がないことは、易姓革命とは無縁の国柄であることを意味します。

ですから、真正保守の立場からは、占領憲法の制定は革命に匹敵する許しがたい暴挙でした。


では、この革命といふ野蛮な考へ方はどこから出てくるのでせうか。革命から國體を護るためには、革命思想がどこから生まれてくるのかについて掘り下げる必要があります。

結論を言へば、革命は、合理主義(rationalism)を突き詰めたところから出てきます。合理主義は唯物論を生み、神聖と霊性を否定して革命を正当化するのです。

この合理主義を國體破壊の元凶であると明確に見抜いたのが、 文部省編纂にかかる昭和十二年五月三十一日発行の『國體の本義』でした。この合理主義が啓蒙思想として、全世界を席巻し、我が国にも文明開化の名の下に流入してきたことに対する強烈な危機感が述べられてゐます。長文のものですが、一度読んでいただく価値があります。

現在もなほ革命勢力は『教育勅語』とともに『國體の本義』を全否定します。革命勢力が否定するのは、正しいことが書かれてゐるからです。

合理主義といふのは理性絶対主義、理性万能主義などと呼ばれ、「理性」に至高の価値を認め、本能を欲望と看做し、これを抑制するのが理性であるとする立場です。

理性は万能で、理性は善であり、本能は悪だとするのが合理主義です。ところがこれでは「本能の塊」であるはずの動物には犯罪がなく「理性の塊」であるはずの人間に犯罪があることの説明ができません。この事だけでも合理主義は誤りであることが明らかなのですが、「理性」とか「合理」といふ言葉に惑はされて、これが正しいと信じ込んでしまつてゐるのです。

理性(reason)とは、感情に支配されずに道理に基づいて思考し判断する能力であると言はれてゐますが、reasonの原義は数へることです。推論(reasoning)の能力、計算能力のことであり、これが人間にとつて万能の価値があるとするのは噴飯ものの甚だしいものです。



【狂人と理性】

個人主義といふ合理主義が生んだフランス革命といふ史上最大の宿痾は、ルソーによつて完成したのですが、エドマンド・バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命の省察』(半澤孝磨訳、昭和五十三年、みすず書房)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判しました。そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが娼婦に生ませた我が子五人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾しました。


また、このやうな狂気の人について、イギリスのチェスタートンは、「狂人とは理性を失つた人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」と言ひました。つまり、ジキルとハイドで描かれてゐる善悪の区別はすべて理性の産物であつて本能の産物ではないといふことです。

「欲望=本能=悪」と捉へるのは合理主義の致命的な誤りです。確かに、理性も欲望を押さへる働きがありますが、根本的な秩序を形成したり維持したりするために、秩序を破壊する欲望を抑へるのは、むしろ本能の働きなのです。



【本能論】

近年は、本能の学問的な定義を放棄する傾向があります。それは、ある意味で最先端の知見に基づかなければ解明できない領域であるからです。しかし、定義としては、本能とは、脳による思考過程を経ない無意識行動の機序であると言ふことができます。単なる「反射」行動だけでなく、神聖なものを思考過程を飛び越えて理屈抜きで直観できる能力(直観力)も含まれます。


我々の認識世界には、「直観世界」と「論理世界」とがあります。論理を積み上げて真理を認識する世界と、論理を飛び越え、あるいは論理の尽きたところで、経験と閃きによつて真理を認識する世界との二つ世界です。直観は本能に、論理は理性に、それぞれ根ざしてゐます。

また、真理発見のための推理方法として用ゐられる帰納法は直観世界に親和性があり、演繹法は論理世界に依存性があります。

哲学や数学においても、直観か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直観主義と論理主義とが対立し、特に数学基礎論にあつては、数学を論理学の一部と見るか、あるいは論理が数学的直観によつて帰納されるのか、といふことで対立してゐます。数学といふ、一見すると論理一辺倒の学問領域でも、直観主義数学があるやうに、論理主義には限界があり、直観領域を排除しては、学問は完成しないのです。

世の中の発見、発明の殆どは、閃きとか直観によつて仮説が生まれ、それを検証することによつて科学は進歩してきました。人に備はつた直観や閃きの能力、それこそが人類の本能に組み込まれた能力なのです。


神聖なもの、神聖な場所に出会ふと、思はず頭を垂れる行動は、まさに本能行動なのです。西行法師は伊勢神宮に参拝し、「何事のおはしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠みましたが、これはまさに本能による祭祀の直観です。

西行法師は伊勢神宮の神域に足を踏み入れたときに、大脳の思考過程によるものではなく、直観的にこの歌を詠んだのです。


本能を生得的、先天的なものとし、理性を後天的な学習によるものと区別しても、あまり意味がありません。理性は、必ず大脳による思考を経由したものであることから、これを理性と呼び、大脳による思考を経由しないものは、先天的なものであらうと後天的なものであらうと、反射、直観、情動などのすべては本能の領域とすることができます。

また、記憶の分類として、その情報の性質による分類としては、宣言記憶(declarative memory)と手続記憶(procedural memory)又は非陳述記憶(non-declarative memory)とに分けられますが、前者は、出来事と事実に関する記憶であり、大脳での思考を経由するものであるのに対し、後者は、やり方に関する記憶であり、大脳での思考を経由しないものです。後者については、具体的には、自転車や自動車の運転は、暫く運転してゐなくても「体が覚えてゐる」のです。楽器の演奏の場合も同じです。生得的なものか学習によるものかの区別とは別に、理性と本能の区分と同様に、大脳による思考を経由するか否かで区別すると、前者は理性的記憶、後者は本能的記憶と命名した方がよさそうです。



【本能行動と理性行動】

サバンナで草食獣の親子が肉食獣に狙はれたとします。草食獣の親は、子を護るため、自分が肉食獣の囮となつて走り出します。さうして自分が犠牲になつてでも子を護るのです。草食獣には大脳がないので、この行動は本能行動です。

これは、人間の場合でも同様で、咄嗟のときは、子供を助けるために親は我が身を盾にし、子供を護ります。


また、突然に顔面に向けて石が飛んできたとき、身を屈めて額面に当たることが避けきれないときは、自分の腕で顔面を保護します。身を屈める動作と腕を顔面の前に持つて行く動作とは瞬間に反射的に行はれます。

腕も我が身の一部ですから、我が身を護らうとする本能はどの部位に対してもありますが、序列があるのです。腕よりも顔面の方をより保護しなければならないからです。顔面には再生不能臓器が多くあり、行動に欠かせない五感の作用を働かせることにとつて重要な部分が集中してゐます。しかし、腕は、皮膚が破れても骨折しても再生が容易です。ですから、腕を盾にして顔面を護るのです。


しかも、このやうな行動は、危険が迫つた段階で、大脳による思考の結果に行はれる理性行動ではありません。大脳思考を経由しない反射的な本能行動なのです。



【集団本能と本能の序列】

そして、このやうな本能は、個人個人の個体に宿つてゐるだけではなく、家族、部族、民族、国家といふ集団にも本能があります。蟻や蜂などのやうな集団本能です。

たとへば、蜂は通常の場合、女王蜂(母)が老齢化して世代交代が必要になれば、次の女王蜂(娘)を産んで交代します。これは、母親の女王蜂の遺伝子を娘の女王蜂が引き継ぐので、個体の本能の領域で理解できます。

しかし、蜂の巣が突然に破壊されたり火災などによつて女王蜂が突然に死亡したなどのやうに後継者が居ないまま女王蜂が死んだ場合、女王蜂にしか卵を産み続けることができなければ蜂の集団は女王蜂の死亡によつて滅亡するはずです。しかし、その場合でも、働き蜂の巣房や雄蜂の巣房が王台(女王蜂の巣房)に変化して、新しい女王蜂が生まれます。このことは、複数の個体の集まりである蜂の集団が全体として一つの生命であり、それに種族保存のための機序としての能力(本能)が備はつてゐるといふことを意味してゐるのです。

このことからしても、個体のみに自己保存本能や種族保存本能があるだけでなく、集団にも、全体的な自己保存本能や種族保存本能があると認識できるのです。

南出喜久治(平成30年7月1日記す)


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