自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H30.8.15 第百五回 山西省残留将兵の真実(その二)

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五回 山西省残留将兵の真実(その二)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(大東亜戦争の国際法的評価)


いはゆる山西残留将兵問題は、昭和12年7月からの支那事変に始まる対英米等の大東亜戦争の停戦時に起こつた事件であつて、その事件の評価はこの戦争の評価と一体となるものであるから、初めに支那事変を含む大東亜戦争の国際法上の性質とその評価について述べてみたい。


まづ、結論を言へば、支那事変を含む大東亜戦争は、国際法上は正当な自衛戦争であつて、巷で謂はれる違法な侵略戦争ではない。

すなはち、我が国が昭和4年に締結した「戦争抛棄ニ関スル条約」について、当時の国際法解釈によれば、戦争は、「自衛戦争」と「攻撃戦争」(war of aggression)とに区分され、後者は、一般に、自国と平和状態にある国に向かつて、相手方の挑発的行為を受けてゐないにもかかはらず先制的に武力攻撃を行ふことを意味し、それ以外は全て自衛戦争としてゐたのである。


この「war of aggression」を、極東国際軍事裁判(いはゆる東京裁判)において、GHQの指示によりこれを「侵略戦争」と誤訳したことから、略取、掠奪の意味を含む一般的な「侵略」の概念との混同を生じたことが今日の混乱を招いてゐる。

いづれにせよ、自衛戦争か侵略戦争か、それがいづれの戦争であるかの判断については、各国に「自己解釈権」が与へられてをり、大東亜戦争はまさに「自存自衛」の戦争であつたのである。このことは、昭和26年5月になつて、GHQのマッカーサーが、米国議会において、日本の大東亜戦争に至る一連の軍事行動が自衛のためであつたことを肯定したことによつて国際的にも確定した。


(極東国際軍事裁判の国際法的評価)


また、東京裁判の法的根拠とされる極東国際軍事裁判所条例が事後法であり、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」の犯罪構成要件が抽象的で不明確であって、当時国際的に確立してゐた罪刑法定主義に違反する国際法違反であったこと、裁判所の構成において中立国や敗戦国からの裁判官が一切排除され公正な裁判とは言へないこと、ポツダム宣言の受諾は東京裁判を実施する根拠にはなりえないことなど、東京裁判の法的根拠がなく、その効力自体が無効であることは自明のことである。


さらに、東京裁判の裁判官の中で唯一の国際法学者だつたパール判事が、被告人全員の無罪を主張し、大航海時代に始まる欧米列強のアジア植民地政策に対して、日本が明治維新以来これに抗してきた歴史は、自衛と解放の歴史であるとの歴史認識を示した事実、アメリカ最高裁判所のウイリアム・O・ダグラス判事、英国枢密院顧問官で国際法の権威であるハンキー卿など、世界の良識者も挙つてパール判決書を支持した事実、マッカーサーもウェッブ裁判長もキーナン首席検事も後日になつて東京裁判の違法性を認めるに至つた事実、昭和27年12月9日の衆議院において東京裁判を否定する「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」がなされた事実など存在することからしても、東京裁判の無効性は国際的な定説であるといふべきである。



(講和条約における東京裁判の効力)


しかし、我が国政府は、これを無視し続け、我が国が独立を果たした「日本国との平和条約」(サンフランシスコ講和条約)第11条を墨守し、中韓に迎合して未だに東京裁判の呪縛から解放されず謝罪外交を継続してゐるのである。


確かに、日本国との平和条約第11条は、「日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。・・・」と訳されてゐるが、この「裁判を受諾し」といふ部分は、原文を忠実に翻訳すれば、「判決を受諾し」となるとの国際法学者の指摘がなされてゐたところである。そして、その意味は後段の「刑の執行」を継続するための法的権限を付与するためのものであつて、その刑の執行の合法的根拠を「判決」に求めるといふ、純然たる法律問題にすぎない。そもそも、条約で歴史観を拘束することなどはありえないことなのである。


しかも、同条約第25条によれば、「・・・第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益を与えるものではない。・・・」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第11条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。」とある。ここでの「中国」と「朝鮮」が何を指すのかについては深入りしないが、仮にいづれの見解に立つても、そもそも同条約第11条が除外されているため、中国(中華民国及び中華人民共和国)及び朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)との関係で、同第11条の拘束力の範囲に関する解釈が如何様であつても、何ら中韓との関係で影響されることは全くないのである。


(支那事変の評価)


ところで、我が国が恒常的に支那に駐兵することになつたのは明治34年9月清との間で他の連合国とともに「義和団事変最終議定書」による条約に調印し、以後、この条約により諸外国とともに中国大陸に支那駐屯軍を置く「駐兵権」が承認されたことによる。昭和12年7月蘆溝橋で国民政府軍の仕業に見せかけた中国共産党の謀略による不法射撃を受けたのはその支那駐屯軍であり、その後、この北支事変からさらに戦火が拡大した支那事変は国際法上も「侵略戦争」ではありえない。


また、支那事変は「宣戦布告なき戦争」であるから、正当性がないとの見解があるが、これもまた謬説である。清朝が崩壊した後の支那は、多くの軍閥が割拠し、合従連衡を繰り返す状況であつて、蒋介石の国民党軍が率ゐる中華民国政府といへども、その実態は単なる軍閥政権の一つにすぎず、近代国家としての国家の実体をなしてゐるとは到底、認定し得なかつた。


宣戦布告は、帝国憲法第13条の天皇の宣戦大権に基づくものであるが、「宣戦トハ國家カ武力ヲ行使セントスル時對手國ニ對シテ之ヲ宣言スルコトヲ謂フ」(清水澄『逐條帝國憲法講義』151頁)のであつて、これは、戦争終結後に同条の講和大権に基づき行はれる講和条約の当事者能力が備はつた「国家」に対してでなければならない。

ましてや、支那事変の発端は、八路軍の陰謀による軍事的挑発であつて、宣戦布告がなされるべき「戦争」ではない。それゆゑ「事変」なのである。大東亜戦争終結段階において、蒋介石は我が国に対して宣戦布告をなし結果的には戦争と評価しうることになつたが、これを殊更に「宣戦布告なき戦争」と表現したり「日中戦争」と表現することに、学問的理性が感じられない。


(山西省残留問題の視点)


附言するに、我が国政府は、この度の大戦を大東亜戦争と命名し、一度たりともその戦争名称を変更したことはない。にもかかはらず殊更に「太平洋戦争」の名称が用ゐられるのは、GHQの占領政策において、一連のプレスコードによる検閲、特に、正式な戦争名称である「大東亜戦争」といふ表現の使用を、昭和20年12月15日のいはゆる「神道指令」などに基づく「思想検閲」により全面禁止され、これに代はる名称として「太平洋戦争」といふ表現を強要された結果の産物である。これは現行憲法第21条第2項前段の「検閲の禁止」に違反する措置であり、現在もなほこれに追従して使用を継続しようすることはこのような検閲を是とする反憲法的思想に基づくものであらう。


いづれにせよ、大東亜戦争は、大航海時代から始まる欧米の東亜支配(世界支配)に抗した日清、日露の各戦役からの脈絡の中で、「東亜百年戦争」の最終段階に位置する自存自衛の戦争であると認識されるもので、東亜解放戦争といふ思想戦争の性質を有するものである。なぜならば、我が国は欧米による西高東低の世界支配を打破するために大東亜共栄圏思想を以て戦ひ、その戦ひに破れたものの、その後、その思想はアジア、アフリカの各地で受け継がれ、民族自決の独立運動により多くの国々が独立し、「身を殺して仁を成す」結果となつたからである。


多くの将兵や大多数の国民もまた、大東亜戦争を「聖戦」と信じて総力戦として戦つた。決して、侵略といふ不正な国家的意図を体して戦つたのではない。

ところが、支那において、多くの在留邦人が皆殺しの虐殺被害を受けた通州事件などは歴史から全く抹殺され、東京裁判において南京大虐殺などといふ全くの捏造事件を政治的に肯定するなど、我が国政府は、独立後も連合国や中韓に対して、思想的にも政治的にも無条件降伏をし続け、はたしてどこの政府なのか疑はしい限りである。南京大虐殺なるものは、今や虚構であつたことが多くの学者によつて学問的にも証明されてゐる。南京の虐殺記念館に展示されてゐる白骨は、我が軍が昭和12年12月13日前後に南京に入城した際のものではなく、その後の国共内乱、大躍進運動や文化大革命などによつて粛正、虐殺された6000万人以上の被害者の極一部の遺骨を、あたかも南京大虐殺の被害者のものとすり替へて展示してゐるに過ぎないのである。


ともあれ、本稿において上記のとほり支那事変の評価を披瀝して、大東亜戦争を太平洋戦争と、支那事変を日中戦争と、それぞれ検閲的な表現に変更されることを峻拒するのは、単に、名称や歴史観だけの問題ではなく、我が軍の将兵が誠実にその職責を果たした支那事変の戦役が宣戦布告なき侵略戦争であるとする著しい予断と偏見により否定的に評価されることによつて、支那事変の最終段階における本件の山西残留将兵問題もまた否定的に認識・評価されることを懸念するがためである。


山西省残留将兵問題は、いはゆる東京裁判史観を以て判断されるべき事案ではない。むしろ、特定の歴史観にとらはれることなく、また現在の価値観の物差しで評価されるのではなく、当時の山西省の状況と、残留将兵が抱いてゐた思ひや思考と行動の形態や態様に則して、具体的な事実関係を判断されることを切望するものである。

南出喜久治(平成30年8月15日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ