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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百六回 山西省残留将兵の真実(その三)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(山西省の状況)


大東亜戦争における陸軍組織系統は、昭和19年後期において、大本営の下に南方軍(寺内寿一大将)、支那派遣軍(畑俊六元帥、後に岡村寧治大将)、防衛総司令部(本土)、関東軍(満州)、朝鮮軍などで編成され、このうち、南京を拠点とする支那派遣軍には、北支那方面軍(北京)、第六方面軍(漢口)、などが属し、さらに、北支那方面軍は、その直轄軍の外、第一軍、第十二軍、駐蒙軍で構成され、第一軍には、第69師団、第114師団、独立混成第3旅団、独立歩兵第10旅団、独立歩兵第14旅団などが隷属してゐたのである。


ところで、本稿でいふ山西省とは、当時の大同省と合併した現在の山西省と同一ではないが、その命名の由来は、北京、天津のある河北省(直隷省)の西に南北に連なる大行山脈の西方に位置することからであり、同所は東西を山地に挟まれた高原地帯であるが、石炭、鉄などの地下鉱物資源が豊富で、古くから塩、穀物、織物、金融などで富を蓄積した山西商人が活躍した拠点として、種々の産業が盛んで豊かな地域であつて、その中心は太原城(現在、省都としての太原市)である。


このやうに、山西省は、古来より支那の天下統一を狙ふ者の垂涎の的であり、蒋介石も毛沢東もその例外ではなかつた。それゆゑ、我が軍も同所の占領を支那事変の要諦としたことも頷ける。そのため、支那事変の当初から、山西省は、我が軍、山西軍(閻錫山)、八路軍(毛沢東、林彪)の三つ巴の攻防が繰り広げられた。特に、八路軍は、林彪率ゐる最強の精鋭部隊を投入してきたのである。


閻錫山は、遅くとも明治45年の辛亥革命以来、山西省の軍閥領袖として君臨し、袁世凱、さらに蒋介石との関係を保ちつつ、特に、蒋介石との間では、離反と接近を繰り返し、不即不離の関係を保ち、山西省の独立を志向する傾向が顕著であつた。

つまり、大正6年、閻錫山は、山西省都督(省知事兼軍司令官)に任命されると、「非干渉」、「非植民」のスローガンを掲げ、いはゆる「山西モンロー主義」を主張して中央政府から離脱し、施政20年にして山西省を支那随一の模範省として築き上げたのである。


(閻錫山工作)


その間、昭和11年12月の西安事件、同12年7月の蘆溝橋事件を経て、同年9月、中国国民党と中国共産党との抗日のための第二次国共合作が成立したが、我が軍は、支那事変の拡大に伴ひ、同年11月8日の太原攻略前後から謀略工作としての「閻錫山工作」(対伯工作)を続け、昭和16年9月11日、山西省汾陽で「日本軍・山西軍間基本協定」並びに「停戦協定」が締結された。


この基本協定は、「方針」と「要領」があり、その「方針」の骨子は、「山西軍ハ、日本軍ト停戦シ、南京政府(王精衛政権)ト合流ス。山西軍ノ管轄区域ハ、先ヅ山西トシ、漸次華北に及ボシ、閻錫山ノ地位ハ、将来、華北政務委員長及ビ華北国防総司令」と定められ、また、その「要領」は三段に分かれ、第一段は、停戦協定を結んで日本軍が兵器と軍資金を供与すること、第二段では、閻錫山は、蒋介石政権に反共和平を勧告し、もしも受け入れないときは山西省の独立を宣言すること、そして、第三段では、山西軍は華北全域の治安維持に任ずること、といふ内容であつた。


蒋介石は、日本の陸軍士官学校を卒業した後に辛亥革命に参加したが、閻錫山もまた陸軍士官学校在学中に急遽帰国して辛亥革命に参加した経歴がある。しかし、辛亥革命によつて樹立された中華民国政府において、孫文や蒋介石の容共路線とは隔絶した反共主義を貫く閻錫山は、国民党左派の指導者であつた王兆銘(王精衛)とは理念的には接近してゐた。つまり、王兆銘(王精衛)は、容共の蒋介石政権と袂を分かつた親日反共路線を貫き、南京政府を樹立してゐたからである。


そこで、支那全域に親日反共政権を数多く樹立させ、それらを連携させて支那の統一と独立を実現することは、まさに大東亜共栄圏構想の実現として我が国の国益に合致すると判断した我が陸軍としては、共同防共、共存共栄を目的とする閻錫山との連携に努力することは当然であり、その結果として、華北防衛を山西軍に肩代はりさせ、精鋭の第一軍を華北戦線から南方戦線へと転用しうる軍事的利点を生むことになるはずであつた。


それゆゑ、この日閻協定が締結されたのであるが、権謀術数に巧みな閻錫山とこの協定を察知した蒋介石の策謀に翻弄されて、山西軍の独立と南京政府との合流は、ついに成功に至らなかつた。

しかし、その後も対伯工作は継続され、昭和12年11月8日の太原城攻略以後、同所に司令部を置いて衛戍(駐屯)した第一軍がその謀略工作を担つてきたのであり、澄田𧶛四郎中将(以下「澄田」といふ。)もまた第一軍司令官に赴任した以後はその任に当たつたのである。


(日本の敗戦)


山西軍の独立と南京政府との合流は実現しなかつたものの、山西軍との停戦協定だけは維持され、第一軍の戦闘は、八路軍(共産軍)との戦闘が主となつてゐたので、我が国が南方戦線、太平洋戦線で敗北してゐたとしても、華北戦線では圧倒的に優勢であつた。それが、突如として、昭和21年8月14日にポツダム宣言を受諾して敗戦となり、翌15日の玉音放送によつてこれを知ることとなつたが、第一軍の将兵は、いづれも敗戦の実感はなかつたのである(染谷金一著『軍司令部に見捨てられた残留将兵の悲劇』全貌社、平成3年6月20日発行)。


昭和20年8月8日、日ソ不可侵条約に違反したソ連の対日宣戦布告により、満洲に進撃したソ蒙軍迎撃のため、第一軍隷下の第114師団等が満洲に進軍して関東軍の指揮下に入り、さらに、北京の北西に位置する張家口へソ連軍戦車隊が進撃しつつある状況下で8月15日となり、閻錫山は、同月25日、受降官として太原に入城した。


ところが、山西軍の太原入城に際しては、黄河沿ひの各地に分散駐屯してゐた3万人の隷下部隊を考義に集結させて5梯団に分散して平遙に出て、そこから列車輸送により太原へ進出したのであるが、途中何度か西方の中條山脈に陣する八路軍の襲撃を受けて進路を阻まれたことから、閻錫山の要請を受けて、第一軍参謀長山岡道武少将(以下「山岡」といふ。)の指令により、第一軍将兵が山西軍の5梯団を護衛して入城を果たしたといふ経緯がある。


つまり、国共合作は、昭和21年7月まで名目上は継続したが、既に日閻協定締結以後は山西軍と八路軍とは戦闘状態にあり、日本の敗戦と同時に、既に国共両軍は内戦状態に突入してゐたからである。それゆゑ、戦勝軍である山西軍が、降伏軍の第一軍に護衛されるといふ世界史上も稀な特殊事情が山西省には存在してゐた(前掲書)。


(日閻密約)


この敗戦軍による戦勝軍の警護、しかも、太原入城のための鉄道警護といふ図式が、まさに後の日閻密約による残留問題の原型となるのである。


閻錫山は、日本が敗戦に至るまでは、国民軍の内部問題として蒋介石との駆け引きを行ふことができ、対外的には、八路軍と我が軍との三者鼎立の駆け引きによる均衡によつて、山西軍がキャスティングボートを握つてその存在を誇示し得たが、日本の敗戦によつて、国民軍の内部問題は消滅し、八路軍との内戦は必至であると実感したはずである。また、蒋介石も、抗日の建前だけで国共合作を行つたが、この同床異夢の容共路線では国民党内部に潜り込んだ共産党の伸張を生むだけで、結果的には自らの首を締めることとなり、やがて庇を貸して母屋を取られる事態になるとの認識が欠けてゐたことも実感したはずである。それゆゑ、このことに気付いた蒋介石と閻錫山は、親日反共の路線転換を図り、その後も挙つて多数の日本人将兵を国民軍へ迎へ入れて強化した経緯があつたのである。


ともあれ、表向きは、我が軍は国民軍に降伏したのであるから、昭和20年8月14日のポツダム宣言受諾及び同年9月2日の降伏文書調印に基づく停戦協定により、閻錫山としては、連合軍の受降官として第一軍の武装解除を行はなければならないが、第一軍の武装解除を直ちに実施すれば、弱体の山西軍が八路軍に対抗できずに敗北することは必至であるから、第一軍を山西省独立戦争の友軍として処遇するため、武装解除させずに温存させる必要があつた。


そして、第一軍側も、負けてゐない山西軍に武装解除して降伏することの心理的抵抗もあつて、これまでの日閻協定の延長として、敗戦後の我が国が独立を回復するためには、山西省の豊富な資源による経済的牽引が必要であり、そのためには、山西省を親日反共国家として独立させるといふ構想が生まれることは必然であつた。ここに、山西軍と第一軍とは目的を共有するに至り、かくして日閻密約は成立するのである。


これは、大本営の描いた構想であり、支那派遣軍、北支那方面軍を経由して第一軍がそれを実践したのである。そして、この目的の実現に積極的に関与した第一軍首脳は、司令官澄田中将、参謀長山岡少将、元泉馨少将、参謀岩田清一少佐(以下「岩田」といふ。)、司令部付特務機関城野宏中尉(以下「城野」といふ。)らであり、さらに、民間人としては、国策会社の山西産業社長である元・関東軍高級参謀河本大作元大佐(以下「河本」といふ。)などである。


このうち、河本は、陸軍大学校第26期生で、関東軍参謀時代の昭和3年6月、奉天において北洋軍閥奉天派の首領である張作霖を爆殺したとされる満洲某重大事件の首謀者(ただし、この事件はソ連の特殊工作による事件であつたことが最近に判明)であり、その後の満洲事変、満洲国建設に至る嚮導的役割を果たし、赦免後は軍の対伯工作のために山西省に派遣され、満州国建設のシナリオを山西省にも適用させるために鋭意尽力した人物である。澄田や山岡は、陸軍大学校の後輩(ともに第33期)であり、河本が軍中央の密命を帯びて、彼らを含む第一軍首脳に多大の影響を与へ、指導的役割を果たしたことは疑ふ余地もない(前掲書)。

南出喜久治(平成30年9月1日記す)


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