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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百九回 山西省残留将兵の真実(その六)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(残留の経緯)


ところで、山西省で将兵が残留するに至つた原因については、布川大隊長の残留命令によるものである。しかし、決して、布川大隊長が独断専行したものではなく、第一軍の総意として組織的に残留命令がなされたものであることは、前述の背景事情においても明らかであるが、以下には本件における具体的な証拠を時系列に基づいて、残留命令の実態について言及する。

また、以下に述べる点は、いづれも第一軍参謀長(山岡)などから発令されたものであり、しかも、軍所定の用紙が使用された正式な命令であることに留意されたい。


(昭和21年2月2日)

第一軍参謀長による昭和21年2月2日付け「乙集参甲電第107号写」の「鉄道修理工作部隊徴用ニ関スル細部指示」によれば、第一軍は鉄道修理工作部隊の徴用に関する細部指示を発令してゐる。

これは、徴用人員を師団及旅団等に割り当ててゐるのである。しかも、総人員が合計8000人といふ大規模なもので、鉄道が完全破壊されたことによる鉄道新設でもないにもかかはらず(現に、山西軍の梯団輸送がなされ、その後第一軍の将兵など多くの軍民が輸送されてゐる)、修理工作要員としては余りにも過大な人員である。これは、まさに、鉄道修理工作隊の名で、武装残留将兵の選別がなされてゐたことの証左である。


(昭和21年2月5日)

第一軍参謀長による昭和21年2月5日付け「乙集参甲電第122号」によれば、「特務団」の建制が既に先行してゐることが明らかとなつてゐる。

すなはち、「修理工作隊ハ特務團留用受諾者(第一特務団ヲ除ク)ヲ主体トシテ編成セラレ度」とあり、特務団が既に編成され、その人員の中から修理工作隊が選抜編成されたことが窺はれる。


(昭和21年2月7日)

第一軍参謀長による昭和21年2月8日付け「乙集参甲電第131号写」によれば、前掲「乙集参甲電第107号写」とは別途に、各鉄道線毎の選抜徴用がなされてゐる。

なほ、徴用期間を昭和21年3月末日としてゐることから、その徴用期間内に召集解除がなされたとする政府の見解には大きな矛盾が生ずることになる。


(昭和21年2月15日)

第一軍参謀長による昭和21年2月15日付け「乙集参甲密第16号」によれば、軍事極秘扱ひとして、「今般ⅡWA長官(閻錫山)ノ指示ニ據リ特務團特務部隊トシテ特務團戦車隊ノ編成援助スル如ク定メラレタルニ付貴兵團ニ於テ編成責任者ヲ選出シ該部隊留用者ヲ徴集スル如ク戦車隊ノ編成指導援助セラレ度尚右編成ニ當リテハ一般特務團編成要領ニ據ラレ度」「又14iBS(独立歩兵第14旅団のこと)以外ノ兵團ニ在リテモ右部隊留用受諾者ハ今月末迄ニ其ノ旨報告セラレ度」とある。

これは、閻錫山による戦車隊編成の指示を受け、第一軍が隷下の部隊に、その指示に従ふことの指示命令を発令してゐるのである。

戦車隊の編成は、長期戦、撃滅戦のためであり、鉄道警備であるとの口実は絶対に通用しないために軍事極秘扱ひとなつてゐるのである。


(昭和21年3月1日)

第一軍参謀長による昭和21年3月1日付け「乙集参甲密第21号」によれば、これも軍事極秘扱ひとして、「今般ⅡWA長官(閻錫山)ニ於テ特務團教育部ヲ編成セラルヽニ付右編成ニ関シⅡWA側主任者ノ業務ヲ援助セラレ度依命通牒ス」「追ツテ細部ニ関シテハ主任参謀ヲシテ連絡セシメラルヽ筈」とある。


これは、閻錫山の指示受けた第一軍が、そのとほりの指示を隷下部隊に指示命令を発令したものである。


教育部の編成とは、軍事教育機関の設置を意味する。軍事教育は、陸軍では、明治33年4月、教育総監を直隷機関として軍事行政から独立し、思想検閲、軍紀統制などを担ふものである。これは、残留将兵のみならず、特に、山西軍将兵に対する軍事訓練、思想教育(特に反共思想)などによる強兵育成を目的とし、長期戦に備へるためのものである。


(昭和21年3月4日)

第一軍参謀長による昭和21年3月5日付け「乙集参甲電第192号写」によれば、「鉄道総隊留用受諾者ニシテ既ニ申請済ノモノハ除隊(召集解除)ヲ認可セラレタルニ付各兵団部隊ノ実情ニ応ジ適宜実施相成度」、「ⅡWA(山西軍)側地方機関留用受諾者ニ対シテハⅡWA長官留用命令発令方取付中ナルニ付近ク除隊(召集解除)ヲ認可セラルヽ豫定ナリ」とある。


これは、閻錫山の留用命令の発令がなされることを条件(前提要件)として除隊(召集解除)がなされるといふことである。従つて、その発令が無効又は事後に失効した場合には、除隊(召集解除)の効力もまた無効又は失効すると解される余地がある。


(昭和21年3月5日)

第一軍参謀長による昭和21年3月5日付け「乙集参甲密第22号」によれば、軍事極秘扱ひとして、特務団の兵器弾薬を含む軍需品整備計画が実施されたことが判明してゐる。


これは、明らかに武装解除義務違反であり、第一軍は、これを知悉しながら敢行したことになる。


また、第一軍参謀長による同日付け「乙集参甲電第194号写」によれば、同じく軍事極秘扱ひとして、「今般ⅡWA長官(閻錫山)ニ於テ特務團病院ヲ編成開設セラルヽニ付開設ニ関シⅡWA側主任者ノ業務ヲ援助セラレ度依命通牒ス」「追ツテ細部ニ関シテハ軍医部長ヲシテ連絡セシメラルヽ筈」とある。


これは、特務団病院の編成開設を指示命令したことであり、従来から太原にあつた第一軍司令部専属の衛戍病院をそのまま特務団病院として使用することは、武装残留を意味することになり、その事実を三人小組に発覚されるため、新たに特務団専属の病院を開設して隠匿することになつたものと推定される。これも偽装工作の重要な一環とし位置づけられる。


(昭和21年3月9日~11日)

全国山西省在留者団体協議会が平成5年3月15日に発行した『戦後も闘った日本軍賛成残留事件』及び会議録によれば、支那派遣軍總司令部の宮崎舜市参謀(作戦主任、以下「宮崎」といふ。)は、派遣参謀として昭和21年3月9日に太原に到着したところ、そこで初めて本件特務団編成命令及び残留命令の存在を知つて驚愕し、翌10日と11日に第一軍連絡会議に臨んでその是正を求めたことが語られてゐる。


この前後の一連の軍令電報などの顕著な特徴は、この宮崎の是正措置がなされた前後において、それまでは「残留希望者」とそれ以外との区別がなされてゐた。つまり、たとへば、支那総軍「総参電第482号転電」(昭和21年3月10日)と支那総軍「総参電第494号」(同月11日)では区別されてゐたものが、その後の通報等(たとへば、山西地区日本官兵善後連絡部長「山日連甲第158号」(同月30日)など)からは、その区別が消えるのである。


(昭和21年3月14日~20日)

第一軍参謀長の「独歩14旅参電第451号」(昭和21年3月14日15時)及び「独歩14旅参電第511号」(同月20日14時)によれば、布川大尉率ゐる特務団に戦闘命令が発令されて、八路軍との激戦中であつたことが明らかである。


それゆゑ、その戦闘中における昭和21年3月15日に召集解除がなされるはずがないことは当然のことなのである。戦闘中に誰が召集解除を通知するのか。もし、召集解除がなされるとすれば、その前提として戦闘停止命令がなされなければならないが、戦闘続行とは完全に矛盾する事態なのである。


(昭和21年3月30日)

山西地区日本官兵善後連絡部長「山日連甲第158号」(昭和21年3月30日)によれば、「山西地区ノ実情ニ関シテハ宮崎参謀ヨリ委細聴取ス」とし、続けて「貴軍(山西軍)ハ既ニ発令セラレタル左記中國陸軍總司令部訓令等ニ基キ飽ク迄衷心ヨリ残留ヲ希望スル一部技術者(誠字第219号ニヨル徴用ハ高級技術者ノ智識的徴用ニ適用セルモノニシテ労務的ナル服役者ハ人字第2556号ニヨリ悉皆皈國セシムルモノトス)以外全軍民ヲ皈國セシメラレ度」「特ニ特務團ニ編入再武装セシムルガ如キハ聖旨ニ悖リ且中國訓令ニ反スルノミナラズ國際問題ヲ惹起スベキヲ以テ直チニ特務團編成残留ヲ中止スルト共ニ一兵ニ至ル迄真相ヲ徹底セシメ去就ヲ誤ラシメザル如ク指導セラレ度」とある。


これは、前記のとほり、宮崎の是正措置により、「飽ク迄衷心ヨリ残留ヲ希望スル一部技術者」以外は一般の残留希望者とされる将兵全員を帰国されるやう閻錫山に申し入れた事実があつたといふだけで、直接に各将兵に対しこれを伝達する必要性と可能性があつたにもかかはらず、これを行はなかつたことを却つて証明するものである。


(昭和21年4月6日)

第一軍参謀長「乙集参甲電第315号」(同年4月6日)によれば、「左記ノ如ク特務団編入取消ノ正式命令アリ之ニ基キ軍ハ特務団加入ヲ全部取消サシメ貴意ノ如ク帰還セシムル如クス而テ之ノ実施ハ電報ニテハ種々誤解ヲ生シ且受入引離ノ手続ヲ誤ル時ハ摩擦ヲ発生スル恐アル故十日兵団長ヲ集メ復員輸送ト共ニ説明シタル后現所属ニ復帰セシムル筈」とある。


むしろ、山西省の現状から判断して、一度走り出した武装残留による作戦計画が途中で中止したり変更したりすることが不可能であることを明らかにするものであり、この後、方針変更の命令による「摩擦の発生」がないことからしても、麾下将兵には何ら伝達、説明すらなされなかつたことを意味するのである。


また、4月10日の兵団長会議の結果についても何らの報告資料もなく、開催されたか否かも不明である。


(昭和21年4月10日)

支那総軍「総参電第963号」(昭和21年4月10日)によれば、訓令誠字第307号(同月8日付け)に基づくとして、「従来徴用者ノ解除収容ニ関シ配慮方具申シアル次第ナルモ今般右訓令ニ基キ徴用労務留用者ハ一括四月末ヲ以テ解除セラルルコトニナリタルヲ以テ従来ノ残留希望者及現地中国側トノ折衝ニ據リ残留スル如ク決定セシ者(軍民トモ)モ全部之ガ収容帰国セシメラレ度」とある。


これは、4月8日付で国民政府が日本人の帰国命令を出したことを周知させたものではあるが、支那派遣軍から第一軍を含む各軍参謀長宛のものであつて、第一軍参謀長の山岡は、それまで上記のとほりこれらに反する一連の命令を出し続けたことから、第一軍に対する関係では各将兵に周知徹底させるの実効性に乏しいと言はざるを得ないものである。


また、「徴用労務留用者ハ一括四月末ヲ以テ解除セラルルコトニナリタル」とあり、「残留スル如ク決定セシ者(軍民トモ)モ全部之ガ収容帰国セシメラレ度」とあることからして、前述のとほり、徴用の取消により、それを前提とする召集解除は失効したと解されることになる。


(昭和21年4月13日)

北支那派遣軍「甲方参電第592号」(昭和21年4月13日)によれば、中国陸軍總司令部の訓令(日本人全員帰国命令)が発令されたことを推認させる。


これは全面的な留用命令の取消であるから、前述のとほり、これが存続することを前提とした召集解除は失効したと解されるべきである。


(昭和21年4月15日)

第一軍司令官、参謀長「乙集参甲電第351号号外(起案用紙)」(昭和21年4月15日)甲10によれば、「誠字第307号ニヨリ日本軍民ノ中国残留ハ許可セラレサルコトヽナレリ」「就キテハ本命ニ従ハスシテ今後山西側ニ脱走セル者ニ対シテハ日次ヲ遡リ3月16日以降3月25日迄間ニ於ケル除隊者トシテ処置セラレタシ(但現役将校ノ轉役ハ認メラレス)」「但シ今迄ノ間ニ於テ逃亡シ特務団等ニ入リタル者ニ対シテハ逃亡者トシテノ手続ヲ採ルモノトシ其ノ官職氏名ヲ改メテ速カニ報告セラレ度 依命」と記載されてゐる。


これが政府見解とされた昭和21年3月15日の召集解除の根拠となるものであるが、これは、いづれにせよ日付を遡つて同日に召集解除として内部事務的に処理したといふだけであつて、この日に下達されたことはなく、その後も下達されたことがないことを意味することになる。


(昭和21年4月22日)

第一軍参謀長「乙集参甲電第400号」(昭和21年4月22日)によれば、第一軍参謀長が大同地区特務団司令林豊大佐に宛てた依命通達の電文であるが、「太原ニ於ケル旧特務団留用受諾者ノ大部ハ帰国シツヽアリテ特務団ハ解散シアリ」などと、事実とは全く異なる虚偽が記載されてゐる((前掲『軍司令官に見捨てられた残留将兵の悲劇』の103頁~104頁参照)。


そして、さらに、「貴兵団ハ従来ノ状況ニ拘コトナク頭ヲ切り替ヘ他所ノ状況ニ鑑ミル如キ因遁(隠遁)ナル態度ヲ改メ既ニ発セラレタル乙集参甲電号外、第353号、第354号(乙34)ヲ・・・・・全員帰還ヲ本則トシ処理セラレ度依命」とあり、大同地区の特務団は三人小組に発見されないやうに、第一軍参謀長の指示に基づき、部隊を隠遁させてゐたといふことを物語るのである。


このことは大同地区の特務団と同様、第一軍参謀長(山岡)の指揮下にある山西地区の特務団もまた、部隊を隠遁してゐたことになり、住岡氏の平成15年2月3日付け陳述書と完全に一致する。


(昭和21年4月25日)

支那総軍「総参電第178号」(昭和21年4月25日)によれば、「中国側ノ態度ト残留希望者ノ頑迷トニ依リ各軍ニ於テ特ニ苦心セラレアルコトト存ズル」との認識が披瀝されてゐる。


これは、武装残留による祖国再生の貢献といふ大義名分のある理念で残留命令を納得させたにもかかはらず、初めから違法覚悟で軍首脳と共に突き進んできた現場の指揮官の立場としては、軍首脳が変節して残留の中止を求めてきても、いまさら説得できる理由がない状況を示してゐるのである。二階に上げられて梯子を外されることになつた陸軍の精鋭部隊であればこその「苦心」なのである。


それゆゑ、特務団の指揮官としては、これを麾下将兵には一切を告げずに残留継続、戦闘継続へと突き進んだことは容易に推認できる。


南出喜久治(平成30年10月15日記す)


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