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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四十四回 祭祀と宗教 その五

いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)


現在ある一般的なキリスト教の教団もイスラム教の教団も、信者に異教徒を殺せとは教へません。

そんなことを叫んで実行する過激思想は、タリバンやイスラム国などの一部の原理主義者や過激派であつて、そんな者が居るために、「正しい教へ」を受けてゐる一般の信者は誤解されて、差別されたりして大きな迷惑を被つてゐるといふ声があります。


しかし、異教徒を殺せといふ教へが啓典で命じられてゐるのに、その教へを守らずに、恣意的に選り好みして、好ましくないと判断したものを無視してしまふのは、啓典宗教の根幹を否定することになります。そんな解釈をする信仰上の根拠がどこにあるのでせうか。神の教へを自分の考へで取捨選択するのであれば、神を否定して人間自らが神の上位に位置することになつてゐるのです。


忠実に神の教へを守る敬虔な信者を原理主義と揶揄して批判するのであれば、そんな批判をする人は単なる御都合主義です。つまり、「正しい教へ」といふのは、御都合主義による理性的な合理主義の判断に過ぎません。猫を被つてゐるだけで、いつでも虎になれるのです。そんなに好き勝手に解釈するのであれば、思ひ切つて完全に棄教して再出発すべきです。しかし、そんな勇気と志のある宗教人はどこにも居ません。


現在の既成教団は、宗教ビジネスの見地からして、自分たちの教義が古くから伝はつた啓典に根拠があるとして、権威付けを図らなければ大衆を説得できないため、御都合主義的に啓典を解釈したとは言はないのです。啓典の存在といふ権威が布教力の源泉になりますので、啓典に依拠して、いかにも啓典を守つてゐるやうに欺し続けなければなりません。

啓典の解釈が対立するのも、どのやうに解釈すれば自己の率ゐる教団の布教力が増大するかといふ計算に基づくものです。計算、すなはち理性なのです。


ところで、キリスト教やイスラム教などとは違つて、仏教には異教徒を殺せといふ教義はないとして、仏教の優越性を語る人が居ますが、自画自賛も甚だしいものがあります。


仏教と言つても、釈迦の説いたものから、それが北と東に伝搬して、各地域の習俗等を取り入れて変質し、最後に我が国に伝来して神仏習合により、さらに様々に変容したことから、一言では仏教なるものを定義できませんが、少なくとも釈迦の説いたものは、大乗経典ではありません。


大乗経典は釈迦の教へではないとする大乗非仏説論は、古くはインドにおいてもありましたが、それは当然のことでした。


カースト制度のインドの地で、西暦紀元前566年に生まれた釈迦が説法を説き始めて80歳で亡くなるまで、釈迦が率ゐたサンガ(出家修行者集団、僧伽)では、その教へは口伝によるものとされ、経典は存在しませんでした。

ところが、サンガの伝統のとほり口伝のまま伝承した上座部仏教(小乗仏教)とは異なり、戒律を守る出家集団も、これを守らない在家も、ともに解脱するとするための大きな船に乗つてゐるとする大乗仏教(大風呂敷仏教)によつて、釈迦が教説を説き始めてから約600年以上を経てから初期の大乗経典が作られ始めます。


江戸中期の富永仲基が『出定後語』で説くやうに、正確に口伝として伝はつたものが大乗経典に正確に反映されたとする荒唐無稽の仮説は成り立ちません。釈迦の教へ(経蔵)を含む原始仏教聖典とされるパーリ語三蔵は、大乗経典が全く含まれず、チベット大蔵経や漢訳大蔵経など、時代と場所と言語などを異にする大乗経典は、これに携はつた多くの思想や教説が混在し、変質して行つたものです。


旧約聖書もモーセの著述か否か解らないし、新約聖書もイエスの著述もないので、このやうなことは、仏教ほどではないとしても、偽書の類ひと言へます。


おそらく、釈迦の説いた教へは、輪廻転生から逃れ、祖霊の不滅を否定して涅槃・解脱を説くものです。これは、カースト階級の存在を前提とした教へであり、カーストの差別性を否定してサンガを組織して布教したとしても、これは、ヒンドゥー教(バラモン教)の亜流に過ぎません。

釈迦の教へは、バラモンの祭祀を否定する自由思想であり、祭祀否定の思想です。現に、釈迦は、親を捨て、妻子を捨て、悟りを開いた後においても家族の再構築をしなかつたのです。


そして、カーストのすべての階級に属する人々をサンガに受け入れたものの、その教へにおいては、「六道」を説く矛盾があります。


六道とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する六種の世界のことです。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道です。


ところで、我が国おいても、仏教が非人倫的であるとして、根強い批判がありました。特に、江戸時代では熾烈な批判が展開されました。


いづれも儒者ですが、相国寺の僧であつた藤原惺窩、その弟子であり建仁寺に学んだ林羅山、妙心寺の僧であつた山崎闇斎などは、仏教を知り尽くした上で、仏教を批判します。


人倫の大本は孝にあることを実践した中江藤樹、その弟子の熊沢蕃山も廃仏論者であり、山鹿素行も然りです。


江戸前期に活躍した吉川神道の創始者である国学者・吉川惟足は、「夫婦を断つを道と云ふは仏法の咎と云ふべき也」として、祖先の祭を絶やさぬことこそが孝行であるのに、仏教は不孝を教へる教へであると説きました。


富永仲基の大乗非仏論説に影響を受けた平田篤胤は、「仏道の趣意は此世を穢土火宅と云ひ厭ひ棄て、君臣の道をも取らず、親妻子の愛情を忌嫌ひ、其家を出て山に入」るもの(「伊吹於呂志」)と述べてゐます。

これは、まさに家族を棄てて出家し、家族を省みることがなかつた非人倫的な釈迦の生涯そのものが、その教への根本になつてゐることを指摘してゐます。


つまり、仏教は、現世を苦として、その輪廻転生から逃れて解脱するために身を置くに過ぎない穢土火宅とし、現世で人倫を実践することを説くのを放棄してきました。


これは、これまでの神仏習合の悪弊を指摘するもので、明治維新における神仏分離と廃仏毀釈の廃仏思想の爆発を起こした原動力となつたものです。


仏教には、上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教とがありますが、上座部仏教(小乗仏教)とは、戒律を守る僧を喜捨によつて支へる在家が、解脱する僧に連れられてその御利益を受けるといふ教へであり、大乗仏教は、戒律を守る僧と規律を守らずにゐる在家がともに解脱できるとする教へです。


ここには、最低限度において戒律を守る僧の存在を前提としてゐます。これがなければ仏教ではないのです。


ところが、僧すらその戒律のすべてを棄て(破戒)、非僧非俗となることを認める親鸞が出現します。

これに対しては、江戸後期の農政家である二宮尊德は、次のやうなことを述べてゐます(『二宮翁夜話』)。


二宮翁は、親鸞の肉食妻帯は卓見ではないかとの意見に対し、「それはおそらく間違つてゐるぞ。」として、仏教を田んぼの用水堰に喩へ、「用水堰は、米をつくる大事な土地をつぶして水路としたものだ。仏道といふものは、人間の欲をおさへ釈迦の法を水路として世を救はうとする教へであることは明らかなことだ。人間には男女があつて結婚して相續していくものだから、男女の道は天然自然のものなんだが、この性欲といふ欲をつぶして仏法の水の堰としたんだよ。男女の性欲を捨てれば、それに伴ふ、おしい、欲しいの欲も、憎い可愛いといふ迷ひも自然に消えてなくなるんだ。・・・それなのに肉食妻帯をゆるしておいて仏法を実践せよといふのは、ちょうど用水路をつぶして稲を植えよ、といふのと同じじゃないか、とワシはひそかに心配して為るんだよ。」


と答へてゐるのです。まさしく卓見です。


これまでの仏教の歴史においても、世界の宗教と同じやうに、異教徒、異宗派の信者を殺戮してきました。異教徒を殺せとは直接に教へませんが、異教徒、異宗派の者を殺戮してきた歴史があります。


世が乱れると、仏法で説き伏せるのではなく、武力で押さへつける僧兵といふ武装僧侶が出現し、神社にも、神人(じにん)といふ武装集団が生まれます。


「進者往生極楽 退者無間地獄」と教へて、織田信長らとの武力闘争に門徒を狩り出したのが真宗教団です。それ以外にも多くの一向一揆、真宗一揆が繰り返され、教団首脳の命令で多くの信徒、門徒が命を落として行きました。


また、宗派間の闘争も頻繁に起こりました。たとへば、天文元年(西紀1532年)には、京都で日蓮宗の信者が法華一揆を結び、一向一揆(浄土真宗)と対決しました。また、天文5年(西紀1536年)にも、法華一揆が延暦寺(天台宗)と衝突し、焼き打ちを受けて京都を一時的に追はれた事件が起こります。


世界においても、十字軍戦争だとか、中東紛争が繰り返させて終はりが見えないのも、キリスト教とイスラム教の宗教対立が背景にあります。

現代のテロ事件は、宗教テロが主流です。

ミャンマーでは、イスラム教徒のロヒンギャ族に国籍を与へないといふ仏教徒によるイスラム排斥運動があります。「篤く三宝を敬へ」の三宝である仏・法・僧の「仏陀の九徳、法の六徳、僧伽の九徳」から「693運動」と名付けられてゐます。異教徒を迫害することは、信心の証となるとするのですから、永遠に解決しませんし救はれません。


 殺生をするなと言ひながら、平気で殺生をするのは、宗教の持つ本質です。人を救ふと言ひながら、人を殺すのが宗教です。ですから、仏教だけを特別だと言ふのは成り立たないのです。


仏教に限らず、宗教の共通する特徴は、内には寛容性、外には攻撃性があるといふことです。多くの道徳的な規範は社会秩序を維持する人間の本能に基づくものですが、信仰の中心思想は、独善的、排他的です。

他宗教、他宗派に向けられた外に向かふ攻撃性と、異端や異安心であるとして鋭く排斥する内に向かつての攻撃性は、宗教教団の組織防衛として通底してゐます。

南出喜久治(令和2年4月01日記す)


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