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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五十七回 飽和絶滅の危機 その一

ほやのきが はげしくしげる そのはてに さくらほろびて ともにつひゆる
(ほやの木(宿り木)が激しく茂るその果てに桜(宿主)滅びて共に潰ゆる)


宇宙の実相から導かれる真理としては、「雛形」と「輪廻」があるといふことです。


万物は、極小から極大まで、我が国で語られてきた「雛形」の観念で説明される重畳構造になつてをり、常に変化し、衰亡と再生の輪廻を繰り返します。


極小事象である素粒子に始まり、生命科学における個体の「いのち」から、極大事象である大宇宙構造まで、自然界に存在するあらゆる事象には自己相似関係を持つてゐるとする雛形構造(フラクタル構造)があるのです。


フラクタルとは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念ですが、いまやコンピュータ・グラフィックスの分野で応用されてゐる理論でもあります。


この雛形理論(フラクタル構造理論)とは、全体の構造がそれと相似した小さな構造の繰り返しでできてゐる自己相似構造であること、たとへば、海岸線や天空の雲、樹木、生體など自然界に存在する一見不規則で複雑な構造は、どんなに微少な部分であつても全体に相似するとするものです。


そして、マクロ的な宇宙構造についても、いまや雛形構造(フラクタル構造)であることが観察されてをり、また、恒星である太陽を中心に地球などの惑星が公転し、その惑星の周囲を月などの衛星が回転する構造と、原子核の周囲を電子が回転するミクロ的な原子構造モデルとは、極大から極小に至る宇宙組成物質全体が自己相似してゐることが解つてゐます。


さらには、海岸や雲の微小部分における輪郭線が全体部分の輪郭線に相似し、樹木でも、放射状構造の葉脈や根毛の微小部分が葉、枝振り、根、樹木全体の放射状構造と段階的に相似してゐますし、生物一般についても、個々の細胞とその集合体である細胞組織や臓器とが、さらに、臓器と個体とがそれぞれ相似してゐるといふことです。それは、生体が単細胞動物を原型として、多細胞生物が存在し、体細胞分裂によつて個体の統一性が維持されてゐるといふ雛形構造(フラクタル構造)にあるといふことです。


ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す。」として、生物発生の相似性を提唱し、また、現代科学においても、蜂の巣状の銀河とグレートウォール、温度の上昇と物質の相転移、波動性と粒子性の共存、遺伝子構造、大脳皮質のニューロン・ネットワーク構造などを踏まへて、宇宙開闢から今日までをインフレーション理論で説明したり、大統一理論を構築しようとする試みなど、マクロからミクロに至る全事象において、連続した自己相似構造を有してゐることが解明されてきました。


このことについては、我が国でも、古来から「雛形」(ひひなから)といふ概念があり、形代、入れ子の重箱、盆栽、造園などに人や自然の極小化による相似性のある多重構造、入れ子構造を認識してきたのです。ジェラルド・ワインバーグのいふ、入れ子状の階層構造といふのも同じ意味です。


このことは、生命体としての種(族)についても同様で、種の滅亡と新たな種の発生を繰り返す輪廻があり、これと相似して、その種の個体の死と子孫の誕生が繰り返されてゐます。


種は、その生存環境の変化によつて種の生存が危ぶまれるときには、種に備はつた本能のプログラムを修正し、生存に適した内容の本能原理へと変化させて生存を維持します。そのプログラムの改変もまた本能原理に組み込まれたものです。

しかし、本能原理を修正する速度よりも生存環境の変化の速度が早いときは、絶滅の危機を迎へます。


これには、かうあります。


これまで多くの種が滅び、新たな種として変化して発生したのも、このやうな環境に順応する適者生存の原理によるものです。


これは、世界が、「進化」、「進歩」、「発展」といふ価値観によつて認識できるものではなく、「変化」といふ非価値的な「事実」によつて認識する必要があるといふことです。


進化論などといふ進歩思想によつて宇宙が規律されてゐるのではなく、万物には環境の変化に対して、これまでの状態を維持しようとする「慣性の法則」と自己保存のための「対応能力」が備はつてゐるのであり、その変化は、特定の方向へと定まつてゐるものではありません。


たとへば、メキシコのピマインディアンは、食料の極めて乏しい高原や荒れ地で長い間生活をしてきました。その環境に適応して生存を維持するために、摂取する食物の栄養価が低くても、生存しうる形質を獲得したのですが、現代では、食糧事情が豊富になつたことから、肥満率や糖尿病発症率が、他の民族と比較して極端に高くなつてゐます。


このことは、ピマインディアンがこれまで獲得した形質を維持したままでは、現代の環境の変化に対応できないことを意味してゐます。そして、この変化に対応しうる、さらなる形質の変化を獲得しようとしても、その新たな形質を獲得するまでには、さらに長い時間が必要なのですが、現代の環境の変化が余りにも早いため、到底これに追ひつくことができないといふ現実を示してゐます。


これは、何が進化なのか、何が進歩なのか、何が優生なのかを決められないことであり、確かなことは「変化」があるといふことなのです。


つまり、種や民族などの衰亡は、まさに生存環境の変化への対応能力で決定されることになるといふことです。


本能原理といふのは、種の全体と個体に備はつた生存のためのプログラムです。本能が備はつてゐるために、それに基づいて個体の生命を維持し、種全体の生命を維持してきたのです。


生命体である種のすべてについて、本能原理が完全に機能してゐるかと云へば、決してさうではないのです。その例外が人類です。


人類にのみ備はつてゐるとされる「理性」といふのは、この本能原理を否定する方向に働くことがあります。本能とは欲望と同じことであるとする愚かな考へによつて、本能を禁忌して、本能を制圧することこそが道徳的、宗教的に是であるとする理性絶対主義、すなはち、近代合理主義(rationalism)が席巻する時代になると、表面的には繁栄と見えても人類は衰亡の道へと転げ始めます。


イギリスのチェスタートンは、「狂人とは理性を失つた人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」と云ひました。理性(reason)とは、感情に支配されずに道理に基づいて思考し判断する能力であると信じられてゐますが、reasonの原義は、数へることです。推論(reasoning)の能力、計算能力のことであり、これが人間にとつて万能の価値があるとするのは噴飯ものも甚だしいものです。


そもそも、「欲望」とは、理性(計算原理)から生まれます。動物は、生命を維持するために必要な獲物を捕らへるために「殺生」をしますが、生命を維持するためではなく必要以上自己の利益と野望を満たすために有害無益な「殺生」をすることはありません。身の丈を超えた膨大な財産を独り占めしようとする「欲望」もありません。そんなことができるのは、「畜生にも劣る」とか、「人非人」といふ言葉を吐いて他者を批判する「人間」にしかできないことなのです。


動物の世界では、政治制度や刑罰制度がありません。しかし、そんなものがなくても、動物の種内の秩序は維持されてゐます。


動物の本能と学習の研究を動物行動学(エソロジー、ethology)と云ひますが、ノーベル賞受賞学者のコンラート・ローレンツが比較行動学の立場から、それを科学的理論として確立させました。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃」は、理性を善とし、本能を悪とする理性論(近代合理主義)からすれば絶対的に「悪」ですが、比較行動学からすると「種内攻撃は悪ではなく善である」ことを科学的に証明しました。種内攻撃とは、たとへば人類といふ種族の内部で行はれる同族に向けられた有形力の行使を云ふのですが、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」であり、「本能は善」、「種内攻撃は善」であつて、これを悪とする理性論は誤りであることを科学的に証明したのです(『攻撃 悪の自然誌』みすず書房)。


「善」と「悪」といふ概念に抵抗があるのであれば、「本能適合性」があるか否かといふ概念に置き換へればよいことです。


種内攻撃は、種内における秩序維持本能に適合するものなのです。ですから、人類といぬ種における国家内の「刑罰」も家族内の「体罰も」種内攻撃であつて秩序維持本能に適合するものなのです。


ともあれ、チェスタートンが指摘したやうに、本能原理から外れて、理性のみで生きる人間こそが「畜生にも劣る」といふことの自覚がなくなつてしまふのが、「合理的人間」といふことです。


人間の理性による欲望には際限がありません。欲望の暴走は理性によるものです。そして、この欲望を掣肘することができるのは、暴走すれば身の破滅であると想像する計算能力としての「自制心」といふ「理性」が生まれることがありますが、これも、欲望を暴走させれば身の破滅を生むことを防ぐといふ「本能」の働きなのです。


「無益な殺生はしない」とか、「守銭奴を禁忌する」など規範意識について、道徳とか宗教の教へとして語られるますが、それは、昔から世界の人類に共通してゐる規範意識であり、これは、理性による産物ではありません。これも本能を起源とするものなのです。


そのやうなことをすると社会秩序を安定的に維持できないので、これは、本能原理として組み込まれた働きなのです。現に、本能原理のみで生きてゐる人間以外の動物には、恨み辛みで他の同種を殺戮したり、巨万の富を独占するやうな特異な個体が種内で出現したことは全くありません。


つまり、動物の本能として、このやうな規範性が組み込まれてゐるもので、理性的な判断をして生まれたものではありません。なぜならば、人間以外の動物には、「理性」がないからです。ですから、これらの規範は、本能原理によるものであることが「理性的」に結論づけられることになります。


ともあれ、理性といふ計算能力を身に付けた人類は、いろんなことを発明、発見し、生活の快楽と欲望を追求します。


人類は、祭祀を捨てて、理性によつてGodを想念し世界宗教といふものを発明し、これに人々を従はせ、従はない者を神の名において殺戮します。また、抱へきれないほどの富と政治権力を独占し、その欲望がさらなる欲望を拡大再生産して、異常な格差と弾圧がはびこる世界へと変貌させます。


それが限界点に達すると、政変などが起こり、既存の富と権力は奪はれ、これに代はる新たな富と権力が作られます。これまであらゆる分野での異常な格差は、少しばかり是正されますが、このやうな世界の根本は全く変はりません。この世界は、計算世界であり、理性世界だからです。損得で判断し、欲望の主体者が交代し少し入れ替はるだけなのです。これの繰り返しが人類史なのです。


ところで、人類が生存する地球は、人類ではどうすることもできない天変地異が起こります。


地震、津波、火山噴火、豪雨、河川の氾濫、洪水、土砂崩れ、異常気象、冷害、火災、隕石の墜落、感染症の蔓延などですが、これらの天災以外にも、人災として、これらを原因とする内乱、戦争、有毒物質の拡散、食料の欠乏、凶作、飢饉、大量死亡、そして、国家の滅亡、民族の大移動などがあり、これらが繰り返されてきたのが人類史です。そして、これからもこれらが際限なく繰り返されることになるのです。


しかし、人類の繁殖力は、目に見える外敵がいなくなつたこともあつて、極めて旺盛となり、地球の全事象をほぼ完全に支配しつつあります。

天変地異や人災などが繰り返されることで、人口変動は多少は起こりますが、地軸変動、巨大隕石の落下や核戦争などによつて人類が絶滅する危機が起こらない限り、これまで通り人口爆発と資源の大量消費は続きます。


世界における過去の伝承の中には、世界が崩壊するやうな洪水伝説などがありますが、これは、仮に、地軸変動、巨大隕石の落下や核戦争による人類社会の壊滅といふ事態が起こつても、生き延びる少数の者が居て、それらが再び人類社会を再建してきたこと意味してゐます。


しかし、人類の存亡の危機は、これだけに限らないのです。


それは、「飽和絶滅」といふ危機なのです。


南出喜久治(令和2年10月15日記す)


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