自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > R04.07.15 第二百回 祭祀の民 その九

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二百回 祭祀の民 その九

おこたらず あまつくにつを つねいはひ まつりてはげむ くにからのみち
(怠らず天津國津(の神々)を常祭祀して励む國幹の道)


民主主義と専制主義といふ二分法では、国際問題の実態がつかめず、思考停止に陥つてしまひます。


また、「自由主義」といふ物差しを持ち出して、その自由度の程度の違ひを考へてみたところで、千差万別であつて、簡単な二分法では理解できません。


民主主義と自由主義とは本質的には両立し得ず、ましてや、専制主義と自由主義とは相容れないことからして、自由度に着目すれば、民主主義と専制主義といふ二分法が、自由主義と反自由主義の二分法に近似してゐると言へるのかも知れませんが、所詮は言葉の遊びに過ぎません。


しかし、民主、自由、専制、独裁と言つた言葉で表現されるこれらの政治制度と、祭祀とは、一体どんな関係になるのでせうか。そして、現在の政治制度の元で祭祀の道を歩んで行くことが果たして出来るのでせうか。


このことが、「祭祀の民」の連載で述べる目的です。


そして、このことを考へるについては、まづ、祭祀の道を実現して行くための仕事といふものを認識しておく必要があります。それは、自給自足のための仕事、あるいは、自給自足を達成できる方向の仕事であることを認識する必要があります。


自給自足といふのは、エネルギーと食料の自給自足が主たる要素になります。そのために、これまで歴史の中から、食料自給が国家にとつていかに重要なものであるかについて、これらに関するものを検討して、その認識を深めておく必要があります。


まづは、食料についてです。


これは、第一に、何度も説明してきましたが、ちくらのおきど「第十八回 籾米備蓄」(平成27年元旦)で示したことでほぼ言ひ尽くしてゐますが、その中でも、「五 奉納下賜」で述べた福島県郡山市の飯森山にある飯豊和気神社(いひとよわけじんじゃ)の由緒にある言葉です。そこには、


「秋の祭典には、甘酒を醸し桶のまま神殿に供えて、参詣の人々に授け飲ませ、また御種貸神事として神前に供えた種籾を、信者へ貸し下げ翌年の祭典に新穀を返納させたが、何種の種が交じっていても雑穀とならず、主穀と同一となるという奇妙な稲霊の御種貸しと言う古代の神事があった。」


とあります。

これは、全国の神社は、種籾などの集積地であり、その分配の基地でもあつたといふことを示唆してゐる点が重要なのです。


校倉造りの正倉院は、皇室の宝物の倉庫のやうに認識されてゐますが、その原型は、種籾といふ「宝」の倉庫でした。「正倉」とは、「正税を収める倉」といふ意味で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などの保管をするためのものでした。


中でも、米(コメ)は、命の根、イネであり、その籾米は、まさに宝なのです。五穀の種籾を戴いて天孫降臨された我が皇祖皇宗によつて肇国された我が国の神話は、食料の自給自足と備蓄を前提として語られてゐるのです。


太古の昔には、貿易などはありません。リカードの比較生産費説(比較優位説)といふやうな誤つた理論もなければ、全世界が当然のやうに自給自足をしてゐましたので、貿易自体があり得ない時代です。自給率は100%です。余剰穀物は、将来の災害などによる飢饉による餓死等の被害を減らすために備蓄します。そして、凶作による飢餓をなくします。貧しいとしても、共に貧しいのであつて、支へ合つて生きるので、現代のやうに、特定の者だけが「貧困」に陥ることはありません。


そもそも、現代は、太古の昔よりも飛躍的に技術が進歩してゐるはずなのに、自給率が100%でないのは不思議なことです。世界的に見れば、各地の食料生産量が偏頗となつて、その争奪の紛争が生まれて世界が不安定になつてゐるのは、決して進歩してゐるとは言へないのです。自給自足できる技術は存在し、あるいはそれをさらに開発すれば、世界は安定化します。

そのことが進歩であるのに、安定化しない方向に向かつてゐることは進歩とは到底言へません。あへて不安定化を促進させる方向に世界は向かつてゐるといふことです。世界各国が自給自足に向かつて安定化すれば紛争はなくなります。しかし、紛争がなくなれば、国際金融資本が崩壊するので、国際金融資本は、それを阻止し続けてゐるのです。


ちくらのおきど「第二十九回 方向貿易理論 その二」(平成27年6月15日)でも述べましたが、「自由貿易」が世界の富裕にするとの幻想を抱き、自由貿易によつて、各国が輸出対象となる商品の生産費が他国のそれと比較して有利(優位)となる商品をそれぞれ集中的に生産して相互に輸出して貿易することにより国際分業を促進させ、これによつて相互に利益をもたらすとする比較生産費説(比較優位説)を主張したリカードの謬論によつて世界全体に大きな災難を齎しました。


イギリスでは、穀物の輸入に高い関税を課す穀物条例が一部の者だけを利するだけで国家全体の利益にならないとのリカードの意見に騙されて、穀物条例を廃止して穀物の輸入自由化に踏み切つたのです(1846+660)。

その結果、それまで100%近い小麦の自給率が10%程度にまで落ち込み、二度の大戦中に甚だしい食料難となつて、国内に向けての食料調達に苦しんだのです。戦勝国でありながら、敗戦国のやうな経済状態に陥つたのです。そこで、昭和22年(1947+660)に『農地法』を成立させて、食料自給率の向上を推し進めて、食料自給率を元の水準にまで戻しました。


現在、欧州各国は、その殆どの国が100%を超える食料自給率であるのは、その学習効果によるもので、各国が自由貿易を主張するのは、自国を相手国よりも有利にするために、貿易戦争の駆け引きとしての手段として使つてゐるたけで、まともに信じてゐる国はありませんが、我が国だけが未だに自由貿易の幻想に浸つてゐるのです。


それは、大東亜戦争に敗戦したことが原因です。今の国際体制は、欧米からすれば、リカード理論によつて国力を低下したことの教訓から、再びわが国が欧米に対抗してくることがないやうにするために、①わが国の基幹物資自給率を低下させること、②大東亜共栄圏を連想させるやうな、わが国が主導する数カ国との緊密で鞏固な経済ブロック(自給自足国家連合)を構築させないこと、といふわが国に対する制裁を課して出来たものです。


具体的には、『日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定』によるMSA(Mutual Security Act)体制と、国内における農業基本法等の農業法制によつて、わが国は基幹物資の自給率を世界基準と比較しても「超低率」にさせられる仕組みができ上がつたのです。


つまり、我が国を二度と戦へない国家へ貶めるために、占領憲法によつて戦力の不保持と交戦権の否認を押しつけ、食料自給率と低下させることを強いたのです。


そして、GHQの政策を忠実に追随する売国勢力によつて、コメの自給率を低下させる運動が始まります。慶大医学部の林髞(たかし)や朝日新聞の『天声人語』(昭和31年3月11日、昭和32年9月3日)など、GHQの手先となつた学者やマスメディアを利用して、「コメを食べるとバカになる」といふデマのキャンペーンを大々的に展開し、独立後も学校給食は全てパン食と家畜の飼料の脱脂粉乳にさせるなど、国民のコメ離れを強引に導き、遂に、昭和36年に『(旧)農業基本法』を制定させることになります。これは、選択的拡大と称して、食料自給路線の放棄、国際分業の徹底といふ比較優位説(リカード)を高らかに歌ひ上げさせ、我が国を引き返しのできない穀物輸入の体質へと追ひ込みました。


崇神天皇の詔に、「農天下之大本也。民所恃以生也(なりはひはあめのしたのおおきなるもとなり。おほみたからのたのみていくるところなり。)」(日本書紀巻第五、崇神天皇六十二年秋七月の条)とあり、垂仁天皇の詔にも、「以農爲事。因是、百姓富寬、天下太平矣(なりはひをもてわざとす。これによりて、おほみたからとみてたゆたひて、あめのしたたひらかなり。)」(日本書紀巻第六、垂仁天皇三十五年の条)とあるやうに、稲作農業は、水と土の賜物である「命の根」の稲を生み育て、しかも、森によつてその水が涵養されるといふ奇跡の農業です。保存のきかない馬鈴薯(ジャガイモ)よりも、蛋白質が少なく加工しなければ食することのできない小麦よりも、味が濃厚で主食には向かない甘藷(サツマイモ)や玉蜀黍(トウモロコシ)よりも、格段に栄養価が高く栄養バランスがあつて美味かつ淡泊であり、しかも、生産性が高く、そして、長期の保存備蓄が可能な主食は、世界を見渡しても稲米以外には存在しません。古代の籾米が発芽する例があるほど、籾米の備蓄は、半永久的です。それゆゑ、この稻作を守つて完全食料自給を達成し、米の増産により籾米備蓄をして国富を実現し、さらに、この稲作文化を世界に広めて世界の食料不足を補ふことこそが真の国際貢献なのです。


我が国は、最近になつて、新・農業基本法を制定しましたが、食料自給率の数値目標を設定するだけで、それを実現するための具体的な施策はありません。掛け声だけの数値目標であり、リカードの呪縛から脱出できてゐないのです。


国家の安全保障は、軍事的なものだけで実現しません。食料とエネルギーの確保が安全保障と防衛を実現するための根底です。


昭和17年11月20日に第8方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウルに着任した今村均陸軍大将は、ガダルカナル島の悲劇を教訓として、内地などから弾薬、糧秣などの兵站が途絶えることを想定し、自ら率先して島内に広く田畑を耕作して完全な自給自足体制を確立し、米軍の空襲と上陸に対抗する強固な地下要塞を建設しました。

そのことから、マッカーサーは、ラバウル攻略が長期化しすることにより米軍に大きな損害をもたらすことからラバウル攻略を断念し、ラバウルだけを回避して、皇軍が守備する太平洋上の諸島への補給を阻止して皇軍将兵を餓死させる飛び石作戦へと転換したのです。

その結果、ラバウルは敗戦まで死守され、約十万人の皇軍将兵は、玉砕することなく内地に復員したのです。これは、自給自足体制が防衛力としては何個師団もの兵力に匹敵することを物語つてゐるのです。


南出喜久治(令和4年7月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ