國體護持總論
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著書紹介

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動的平衡

國家とは何か。このことは、これからの考察を展開するにおいて基礎的な定義上の理解として確認しておかなければない。

一般に、事物の概念を設定する場合、事物に共通する性質(内包)が定まれば、自づとそれが適用される範圍(外延)が限界付けられることになる。しかし、内包を決定するについても、事物の「本質」を直接的に定義付けることは困難なことが多く、通常は、その「屬性」を列擧して間接的に定義付けることになる。つまり、演繹的方法ではなく、歸納的方法によることになる。演繹的方法では、國家のやうな、實在するものの非視覺的で抽象的であり、しかも、多義的で動的な「生き物」について、その「本質」を直接的に定義することは不可能に近いのである。もし、これを行つても、ことさらに概念の定義が嚴格で限定的であつたり、自己の議論を容易にするための我田引水のやうな恣意的な概念の定義であつたりして、論者によつて多種多樣な定義がなされ、概念の定義そのものが爭點となつて議論が先に進まなくなるからである。このことは、國家の概念だけに限らず、「憲法とは何か」といふやうに、憲法の概念についても同樣のことが云へる。たとへば、憲法を國家の最高規範とした上で、フランス革命の人権宣言第十六條のやうに、「權利の保障が確保されず、權力の分立が規定されないすべての社會は、憲法をもつものでない。」といふやうにイデオロギー的に演繹的方法で限定的に定義すると、國家には、「無憲法國家」と「有憲法國家」があることになつてしまふ。さうすると、無憲法國家には最高規範がないのか、あるいは、無憲法國家の存立基盤となる最高規範は一體何なのか、といふことになる。國家の通有性として、最高規範があることを前提にすると、「無憲法國家は國家ではない」といふ矛盾した結論に至るのである。

さて、話を再び國家について戻すと、國家の實相に關して、國家が生き物であるといふ素朴な認識がある。そして、國家を生き物の典型である人に擬へて、國家を「法人」と捉へるとしても、それを構成する「機關」を靜止的かつ機械的な無機質の部品に喩へるやうな機械的唯物論では、國家の動的かつ有機的な作用、特に、「いのち」とか「たましひ」とか「ひとがら」に相當する「國體」の部分の説明をなしえない。

そこで、まづ、生き物の實相に關して認識を深める必要があるが、このことについて大きな示唆を與へたのは、ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)である。彼は、昭和十二年に、生命科學の世界において偉大な功績を殘してゐる。ネズミを使つた實驗によつて、生命の個體を構成する腦その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間斷なく連續して物質代謝がなされてゐることを發見したのである。生命は、「身體構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐるとするのである。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」(文獻329)である。唯物論からすれば、人の身體が短期間のうちに食物攝取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個體とは全く別の個體となり、もはや別人格となるはずである。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐる。このことを唯物論では説明不可能である。人體細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの發見は、唯物論では生命科學を到底解明できないことが決定した瞬間でもあつた。

古に思ひを馳せば、鴨長明は、『方丈記』で、「行く川のながれは絶へずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と達觀したが、これは、河川の悠久さと流れる水を人生に置き換へた我が國に古來からある無常觀、生命觀を示したものである。そして、この生命觀をシェーンハイマーが生命科學の分野で再發見したといふことができるのである。

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