國體護持總論
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典憲の意義

第三章 皇室典範と憲法

 ななそまり むをちのすめの いつくしき のりしろしめす とこしへのみよ

七十餘六條の皇國の稜威奇しき法(大日本帝國憲法)知ろし召す永代の御代




典憲とは、「典」と「憲」のことである。

「典」とは、明治二十二年二月十一日制定の『皇室典範(明治典範)』(資料十一)の外に、『皇室祭祀令』(明治四十一年皇室令第一號)、『登極令』(明治四十二年皇室令第一號)、『皇族身位令』(明治四十三年皇室令第二號)、『皇室親族令』(明治四十三年皇室令第三號)、『皇室財産令』(明治四十三年皇室令第三十三號)、『皇統譜令』(大正十五年皇室令第六號)、『皇室儀制令』(大正十五年皇室令第七號)、『皇室裁判令』(大正十五年皇室令第十六號)などからなる「宮務法體系」である廣義の皇室典範(以下「正統典範」といふ。)のことである。典範といふ名稱が付いてゐるか否かではなく、これらは、その實質において「宮務法體系」の根本に屬するものであることから、「實質的意味の典範」といふ。

そして、「憲」とは、帝國憲法のみならず、後に述べる『古事記』、『日本書紀』、その中にある『天津神の御神敕(修理固成)』(資料一)、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗の各御神敕)』(資料二の1、2、3)、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』(資料三)、聖德太子の『憲法十七條』(資料四)、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』(資料五)、さらに、『萬葉集』(文獻254)、『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)、『神器及ヒ皇靈遷座ノ詔』(資料八)、『勤儉ノ敕語』(資料九)、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人敕諭)』(資料十)、『教育ニ關スル敕語(教育敕語)』(資料十三)、『義勇兵ヲ停メ給フ敕諭』(資料十四)、『戊申詔書』(資料十五)、『施療濟生ノ敕語』(資料十六)、『青少年學徒ニ下シ賜ハリタル敕語』(資料十七)などからなる「國務法體系」である憲法(以下「正統憲法」ないしは單に「憲法」といふ。)を意味する。憲法といふ名稱が付いてゐるか否かではなく、これらは、その實質において「國務法體系」の根本に屬するものであることから、「實質的意味の憲法」といふ。

典憲とは、立體的構造に比喩されるべき不文の祖法を文字を以て平面的に描寫したものであるから、誰が書寫したかは問題とはならない。描寫、書寫を正確に行へる語り部の能力とその内容こそが命なのである。

このうち、皇室の家法である典範については、明治典範などによつてある程度成文化されたものの、成文化による表現に馴染まず、あるいは、成文化することによつて誤解や誤用を生ずる虞がある事項、たとへば、「三種の神器」、「宮中祭祀」などの古來から皇統と不可分に受け繼がれた不文慣習法の總體であるころの「正統典範」は、天皇と皇族に適用されるものであつて、國家と國民の全體に適用される憲法とは、それぞれ法の守備範圍を異にする。しかし、憲法には、天皇及び攝政の規定があるために、典範と相互に關連し合ふことになる。これが、後に觸れる「特殊ノ畛域(シンイキ)」、つまり、平易に言へば憲法と典範とが一部において重なり合ふ「糊代」といふか、「あぜ」の部分がある。

しかし、その「畛域」の部分のみならず、その他の相互の部分についても、典範により憲法を改正變更できないし、その逆に、憲法によつて典範を改正變更できない。つまり、兩者は、消極的同等同位の關係にある。それは、帝國憲法第七十四條第一項に「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス」とあり、同條第二項に「皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」とあることからも明らかである。

典憲は、「憲法の憲法」である立體構造の「規範國體」を文字で掬ひ取つて平面的に投影して書き寫したものである。「規範國體」が「本質」であり、「典憲」はその「屬性」としての影繪(かげゑ)である。規範國體が下方に「相轉移」したのが典憲である。それゆゑ、典憲の一字一句が規範國體の内容と同價値的に表現してゐるとは限らない。さらに、典憲は、規範國體の全部を投影せず、また、それ以外にも、その時々の時代の要請によつて樣々な機關の設置と運營などの技術的規定も備へてゐる。それゆゑ、典憲は、規範國體を代置した部分においては規範國體と同位であるが、技術的な規定などの部分は、國體よりも下位に位置する規範である。

ところで、「憲法」(いつくしきのり)といふ言葉は、古くは『日本書紀』に聖德太子の『憲法十七條』(いつくしきのりとをあまりななをち)として登場した。これは、あくまでも「憲法十七條」と表記されてゐるもので、これは、「憲法」を定め、それが十七條に亘るといふものであつて、憲法の第一條から第十七條のうち、第十七條を示す意味で「憲法(第)十七條」の意味とは異なる。その意味で、その誤解を避けるためにこれを轉倒させて「十七條憲法」といつた慣用表現が現在蔓延してゐるが、これは正確な表現ではない。

また、江戸時代や明治時代初期にも、人々に廣く知らしめるべき重要な法といふ意味で「憲法」の名稱が用ゐられてきた。そして、明治十四年の『訓條三十一項』(敕語)において、英語の「Constitution」を意味する言葉として使はれたことによつて、以後はその譯語としても定着した。

しかし、我が國は、國體の支配する國(くにからのしろしめすくに)であり、憲法(いつくしきのり)は、その國體といふ本質の作用を示すものとして書き置かれたものにすぎない。『論語』に云ふ「禮之用、和爲貴」(禮の用は和を貴しと爲す)や、前に述べたとほり、世阿彌の『至花道』に云ふ「能に體、用(ゆう)の事を知るべし。體は花、用は匂ひの如し。」のやうに、物事の本質や本源を「體」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」として區別すれば、まさに國體とは「體」であり、憲法は「用」である。國體とは、第一章で述べたとほり、時效と世襲、相續の法理によつて祖先から受け繼いだ自然法である「祖法」であり、これは、いにしへ(往にし邊)より在つた法として「確認された法」なのである。それはまさに「不文法」であり、子孫後裔によつて「創設された法」や「形成された法」としての「成文法」ではない。

和漢折衷、音訓併用を驅使して大和言葉(やまとことのは)で撰述された『古事記』においても、「上古の時、言意(ことばこころ)竝びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字(じ)に於(お)きて即ち難(かた)し。已(すで)に訓に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。」とあり、「ことば(詞)」で「こころ(心)」を捉へることの難しさを踏まへた上で、「臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮の誦む所の敕語の舊辭を撰録して獻上」せしめたとするやうに、祖法(こころ)を成文(ことば)にすることは困難さが伴ふといふことを自覺せねばならない。

祖法を精密に成文化しえない法文を金科玉條の如く解釋することは、本末轉倒であり、却つて祖法から遠ざかるのである。「毫釐(がうり)の差は千里の謬り」といふ格言がある。これは、『易經』の「之を毫釐に失すれば差(たが)ふに千里を以てす」から出たものであるが、初めは僅かな狂ひや違ひに過ぎなくても、それが增幅されて終りには大きな違ひを生じてしまふといふ意味であつて、我々は、土木や建築の設計施工など「建設工學」の分野をはじめ、あらゆる社會生活の場面において、そのことを常識として身に付けてゐるはずである。そのことは、祖法を成文化する「法律工學」においても同樣であつて、我々は、祖法を成文化する場合、初めの小さな誤差が先行きでの解釋・運用における大きな誤差として增幅することについて、もつと謙虚でなければならないはずである。ここに成文法絶對主義、法實證主義の傲慢さと社會科學上の致命的な誤りがある。

本質(體、こころ)と屬性(用、ことば)との關係を知れば、國體の精華から憲法の香氣がたなびくことが理解できるはずである。それゆゑ、國體から湧出した憲法といふものは一つだけとは限らない。單に憲法といふ名が付された推古天皇十二年(604+660)の『憲法十七條』や『帝國憲法』だけではなく、前述したとほり、『古事記』、『日本書紀』、その中にある『天津神の御神敕(修理固成)』、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗の各御神敕)』、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』、『聖德太子の憲法十七條』、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』さらに、『萬葉集』、『船中八策』、『五箇條ノ御誓文』、『神器及ヒ皇靈遷座ノ詔』、『勤儉ノ敕語』、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人敕諭)』、『教育ニ關スル敕語(教育敕語)』、『義勇兵ヲ停メ給フ敕諭』、『戊申詔書』、『施療濟生ノ敕語』、『青少年學徒ニ下シ賜ハリタル敕語』なども憲法であり、いはゆるこれらが實質的意味の憲法である。「憲法」といふ名稱が付いてゐなくても、實質的には「憲法」であるといふことである。その逆もある。「憲法」といふ名稱が付いてゐても、實質的には「憲法」でないものもある。「憲法」と表記されたものの中に、非獨立時代のGHQ占領期に制定され施行されたとする『日本國憲法』(占領憲法)があるが、これは「憲法」には含まれない。「現行憲法」であるとされてゐる『日本國憲法』といふ名の法規は、マッカーサーノートとマッカーサー草案といふ「原稿」に基づくものであるといふ意味で「原稿憲法」と揶揄されるに相應しい代物であるが、本書においては、これまで通り、實質的な「憲法」ではないとしても、便宜上「占領憲法」といふ略稱を用ゐることにする。同樣に、占領下で制定された『皇室典範』といふ典範の名を騙つた皇室彈壓法(占領典範)も「典範」に含まれないことは當然のことであるが、これも便宜上「占領典範」といふ略稱を用ゐることとする。

ともあれ、占領憲法は、祖法を全く反映したものではなく、むしろ、祖法を否定したものであるから憲法に値しないのである。憲法とされるものは、天皇、攝政、要人など樣々な階層の手によるものであるが、いづれも「制定者」ではなく、國體を描寫した「記述者(編纂者)」である。これらは總て「いつくしきのり」として、總て規範國體の發現として理解されることになる。

そのことは、正統典範の一部を形成する明治典範についても同樣である。明治天皇は、祖法たる皇室の家法である不文法の正統典範のうち、帝國憲法と關連する事項である皇位繼承と攝政などに關する事項に限つて、新たに技術的規定を設けて整備されたものとして明治典範を定められた。そもそも、正統典範は、皇室の家法であるから、臣民に公布する必要はなく、現に公布はなされてゐない。明治典範は、明治天皇が「遺訓ヲ明徴ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ」として、「遺訓ヲ明徴」するために正統典範(不文法)の一部を書寫して成文法化されたものであつて、「明徴」とは、まさに「法の存在證明」であり、「法の確認」であつて「法の創造」ではない。そして、成文化することは、法の明徴の一方法ではあるが、不文法を完全同價値的に成文化できることはないので、不文法と成文法規との間に齟齬が生じてゐることが判明したときは、解釋ないしは改正作業によつてその誤差を修正し、あくまでも正統典範に近づけなければならない。ところが、法實證主義(成文法絶對主義)といふのは、逆に成文法規の條文に準據して、不文法を無視するといふ本末轉倒の見解であり、それ自體に論理矛盾があることは前に述べたとほりである。

いづれにせよ、正統典範は、成文法化された明治典範と、未だ成文法化されない不文法との二重構造となつてゐる。この明徴されない不文法のままの事項とは、三種の神器、宮中祭祀などに關する祕事である。

我が國は、最高規範たる規範國體の支配する國家であり、臣民は言ふに及ばず、「天皇と雖も國體の下ある」といふ一視同仁の國家である。典憲と、その下位法令である條約、法律、命令なども全て國體の下にある。

繰り返し述べるが、「明治典範」とは、明治二十二年二月十一日の「皇室典範」を意味し、同じく非獨立時代のGHQ占領期中の昭和二十二年一月十六日に公布され、同年五月三日に施行された同名の『皇室典範』(同年法律第三號)及び『皇室經濟法』(同年法律第四號)といふ「皇室彈壓法(皇室自治剥奪法)」を意味しない(これらを一括して「占領典範」といふ。)。なほ、昭和三十九年五月二十日公布かつ施行の『國事行爲の臨時代行に關する法律』(同年法律第八十三號)についても、皇室彈壓法(皇室自治剥奪法)である點においては「占領典範」と同樣の性質を有するものである。

ところで、規範國體とは「憲法の憲法」とでもいふべき神聖不可侵の最高規範であつて、皇祖皇宗のご叡慮と臣民の祖先の遺風で築かれた歴史と傳統で構成されるものであるから、いま生きてゐる者だけでこれらを自由に變更できるとする、外つ國の「主權」概念とその本質を根本的に異にするものの、その最高性、絶對性、無謬性などの屬性を共通してゐることから、もし、あへてこの用語を用ゐるとすれば、前に述べたとほり、これを「國體主權」と呼んでもよい。しかし、これは便宜的な呼稱であつて、「天皇主權」でも「國民主權」でもなく全く似て非なるものとして留意すべきものである。

帝國憲法の告文(つげぶみ、かうもん)には、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ增進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」とあり、典憲(明治典範と帝國憲法)は、皇祖皇宗の遺訓を明徴して成立したものであり、統治の洪範を紹述するものなのである。これは、初めて創造された創設的な典憲ではなく、古へより世襲された確認的な典憲であつて、皇祖皇宗の臣民の後裔は、この貽訓(遺訓)を遵守し、これを後世へと永遠に受け繼ぐ世襲の義務があることを明らかにしてゐる。

典憲は、「祖法の體系」として、その「不文法」をできる限り正確に「書寫」したものであつて、その源泉は國體(規範國體)である。すなはち、國體は、典憲より上位の規範(根本規範、最高規範)といふことである。第一章で述べた制憲權(憲法制定權力)なるものは存在せず、天皇にも制憲權はない。假に、國體主權といふ言葉に類して制憲權といふ言葉を用ゐるとし、制憲權が天皇にあるとしても、天皇と雖も國體を創造したり變更したりすることはできない。まさに、「天皇と雖も國體の下にある」といふことである。

つまり、「不文法」たる規範國體の「影繪」を出來る限り正確に書寫して規範國體の實像に迫つたものとして明治典範や帝國憲法などの「成文法」が作られたのであつて、もし、成文法のみが憲法であるとすれば、成文法形式である明治典範と帝國憲法が成立する以前の明治政府の我が國は、「無法國家」ないしは「無政府」の状態であつたことになつてしまふ。現に、「憲法があつて初めて國家がある。」(池上彰)といふ笑ひ話か冗談のやうな言説も存在するのである。

また、伊藤博文の『憲法義解』(文獻10)によれば、「天地剖判シテ神聖位ヲ正ス」「其天皇ハ天縦惟神至聖ニシテ臣民群類ノ表ニ在リ」「恭テ接スルニ神祖開國以來時ニ盛衰アリト雖、世ニ治亂アリト雖、皇統一系寶祚ノ隆ハ天地ト與ニ窮リナシ本條首メニ立國ノ大義ヲ掲ケ我カ日本帝國ハ一系ノ皇統ト相依テ終始シ古今永遠ニ亘リテ一アリテ二ナク常アリテ變ナキコトヲ示シ以テ君民ノ關係ヲ萬世ニ昭カニス」とあり、さらに、『皇室典範義解』によれば「祖宗國ヲ肇メ一系相承ケ天壤ト與ニ無窮ニ垂ル此レ言説ヲ假ラスシテ既ニ一定ノ模範アリ以テ不易ノ規準タルニ因ルニ非サルハナシ」「恭テ接スルニ皇位ノ繼承ハ祖宗以來明訓アリ。和氣清麻呂還奏ノ言ニ曰、我國家開闢以來、君臣分矣、以臣爲君未不有也天之日嗣必立皇緒ト」あることから、これらの國體が「不易ノ規準」であることは疑ひの餘地すらなく、前述の規範的根據により、尊皇と皇統護持を含めた國體護持には明らかに國家最高の法的根據を有することになる。

明治典範は、明治二十二年二月十一日、帝國憲法の公布と同日に制定され、その第六十二條には、「將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ敕定スヘシ」とあり、さらに、帝國憲法第七十四條には、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」と定められてゐた。

そして、これらの意味について、帝國憲法に殉死された唯一の憲法學者であり最後の樞密院議長であつた清水澄博士が、「皇室典範ハ單純ナル皇室内部ノ家法ニ非ス統治權ノ主體タル天皇ヲ首長トスル皇室ト我國家トハ渾一融和シテ同化ノ状態ヲ形成ス是我カ君主國體ノ精華ナリ」、「皇室典範ト帝國憲法トハ共ニ相對立シ國家最高ノ根本法トシテ各特殊ノ畛域ヲ有シ互ニ相侵スヘカラス」(文獻6)と解説されてゐるとほり、帝國憲法と正統典範は、前に觸れたとほり、いはゆる消極的な二元性の關係(原則的に相互不干渉の對等關係)にある。

典範は、皇室の家法ではあるが、「單純ナル皇室内部ノ家法ニ非ス」とされるのは、憲法との關係で、天皇と攝政といふ機關の存在がこれらの「畛域」に跨つてゐるからである。本來、皇統事項に屬する國體の部分は、萬世一系の皇統と宮中祭祀などであり、皇位繼承順位の固定化や皇族會議といふ機關やその他運用上の技術的規定などは本質的な部分ではない。

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