國體護持總論
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講和行爲の效力

入口條約の段階において講和の條件を履行するため制定された法令について、その規定形式において、我が國が獨立を回復するまでの期間に限定して效力を有するものとするといふ「限時法」ではなく、その期限を設けない「恆久法」と理解できるものであつても、實質は講和條件を履行する目的で制定された期限付立法としての限時法であると判斷される。そのことも講和獨立の交渉のなかでGHQとの間で合意され、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)が成立した。從つて、これも占領憲法と同樣、その形式的な成立形態と内容の如何を問はず講和條約としての性質を有することになる。かくして、これまで國内系と國際系とが混在した占領統治におけるカオスの法體系が、このやうな時際法的處理を經て、その存續か廢止かが決定して、以後はすべて國内系へと編入しようとしたのである。

本來であれば、占領憲法も限時法として制定されるべきであつた。しかし、そのことをGHQは許さず、恆久法として制定することを講和の條件とした。それは、前にも觸れたが、桑港條約第十九條(d)に、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」と規定されたことからも明らかである。「占領期間中に占領當局の指令」も「當時の日本國の法律」も、ともに「講和行爲」であつたことから、その「指令」と「法律」による「作爲又は不作爲の效力を承認」せよと、最終講和である桑港條約によつて義務付けたのである。

ここでいふ「講和行爲」とは、桑港條約第十九條(d)に列擧されてゐるやうに、占領統治下において、GHQが入口條約に基づき占領統治を實施するための具體的な要求、命令、處分をなし、我が國がこれを受け入れてそれを履行するために政府の行つた一切の行爲や、我が國が國體護持と早期の獨立回復を實現するために、占領憲法の制定を含め早期講和の條件としてGHQの要求を受け入れた一切の行爲など、GHQの要求と命令の行爲とそれを受け入れた我が國側の服從行爲(compliance)の總體であつて、これらも講和條約群の構成要素となるものである。つまり、「占領當局の指令」に從つて國内系の規範形式として定立され、國内系の處分形式として發令された全ての法令及び處分は、いづれも國内系の規範ではなく、國際系の規範である講和行爲なのである。また、「占領當局の指令」といふのは、その名稱の如何を問はず、マッカーサー及びGHQの各部署から直接又は間接に發令された指令、覺書、指示、指導などの一切の作爲又は不作爲の行爲及び處分のことであり、我が國側の服從行爲(compliance)を求めるものをいふのである。

本來ならば、純粹に國内系である「法律」について、國際系に屬する講和條約でその效力の有無を規定することはあり得ないのであるから、「當時の日本國の法律」は、「講和行爲」として制定されたものであることを當事國(我が國と連合國)が桑港條約第十九條(d)によつて承認したことを意味するのである。

そして、さらに重要なこととして、この「當時の日本國の法律」の中には、形式上は「憲法」(帝國憲法)の改正法とされる占領憲法は含まれてゐない。もし、これを講和條約(東京條約、占領憲法條約)として認識してゐたのであれば、國際法上の解釋として當然に占領憲法は含まれるのであるが、あくまでも占領憲法が「憲法」であるとの前提であるから、これが除外されてゐることになる。

そもそも、「占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ」た最大級のものが占領憲法であるから、これを「憲法」ではないと認識するのであれば、占領憲法は講和行爲(講和條約)であることを認めてゐることにもなる。

それゆゑ、時際法的處理として、前に述べた『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)のやうな特別な法的處理がなければ、占領政策の要諦となる「指令」や「法律」は、桑港條約發效後も原則として效力を維持することになつてしまふが、占領憲法を「憲法」として認識する限り、「法律」には含まれないので、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)についてのみ時際法的處理がなされなかつたことになる。そのことから、前述のとほり、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)へと轉換して成立したとしても、時際法的處理がなされなかつたことにより、未だ國内系秩序への正式な編入がなされてゐないことになるのである。

ところで、この規定によれば、指令や法律そのものの法的效力が維持されるのではなく、この指令と法律による「作爲又は不作爲の效力」が維持されるのであつて、遡及的にその作爲又は不作爲が無效となるといふ意味ではないといふことである。なぜならば、「連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」といふ規定が續いてゐることからして、後に述べるアムネスティ條項の原則に對する例外を定めてゐると解釋されるからである。

そもそも、占領下に制定された法令(占領憲法を含む)は、實質的にその性質からして、占領時に限定された時限法であるとの判斷から、講和獨立(桑港條約發效)によつて當然に失效するといふ國際法の原則に基づいて主張されたのが菅原裕の「日本國憲法失效論」であつた。しかし、これは傾聽に値する見解ではあるが、殘念ながら國際系の觀點(國際政治の觀點)が缺落してをり、專ら國内系(國内政治の觀點)だけで考察しようとしたことに無理がある。つまり、桑港條約の締結時(昭和二十六年九月八日)及びその發效時(昭和二十七年四月二十八日)は、いづれも朝鮮戰爭(昭和二十五年六月二十五日から昭和二十八年七月二十七日まで)の最中であり、當面の課題であつた占領憲法第九條を改正して再軍備すれば、直ちに朝鮮戰爭に名實共に派兵することを餘儀なくされるといふ國際事情と、國内においても強い厭戰意識が戰爭放棄條項を心情的に支持する風潮があつたことなどから、この失效論は、政治的に評價されなかつたのである。このことは、裏を返せば、占領憲法は、政治的には講和條約の性質を完全に備へてゐたことでもある。

さて、時際法的處理に關する話に再び戻るが、占領憲法は、その形式が帝國憲法の改正法として、恆久法の形式となつてゐることからして、桑港條約第十九條(d)によつて、別途に時際法的處理をしなければ、講和行爲(講和條約)としては轉換成立して發效したとしても、國内法として編入させるための時際法的処理がなされてゐないことから、假に認められるとしても、未だに憲法的慣習法に留まるものと言はざるをえないことは前述のとほりである。これと同樣に、占領下の國會で制定された「法律」及びその他の法令についても、その形式は、やはり恆久法の形式であり、限時法の形式でなかつたことから、時際法的處理が必要となつたのである。しかし、これはあくまでも「當時の日本國の法律」の場合だけであつて、「占領期間中に占領當局の指令」や法律より下位の規範(命令、通達、通知など)の場合は、形式上は限時的指令ではないとしても、性質上は全て限時的指令であることから、講和獨立後(桑港條約發效後)に失效するものと理解されるのである。

たとへば、後に述べるとほり、桑港條約が發效した昭和二十七年四月二十八日の數日後である昭和二十七年五月一日に出された法務省法務總裁通知(法務府注意總發第五十二號『連合國の軍事裁判により刑に處せられた者の國内法上の取り扱いについて』の通牒)には、「さきに昭和二十五年七月八日附をもって『人の資格(任命若しくは就職又は罷免若しくは失職等にかかる條件又は許可、認可、登録若しくはその取消又は業務の停止等にかかる條件を含む)に關する法令の適用については、軍事裁判により刑に處せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相當する刑に處せられた者と同樣に扱うべきものとする』旨の解釋を參考のため御通知したが、この解釋は、もともと總司令部當局の要請に基づいたものであり、平和條約の效力の發生とともに撤回されたものとするのが相當と思料するので、この旨御了承の上、貴部内閣關係機關にも徹底せしめられたい」とある。これは、その法務總裁通知の内容と形式がいかなるものであつても、これは、占領下において、一連の講和條約群である入口條約(ポツダム宣言、降伏文書)に基づく細目的な講和行爲の履行としてなされたものであるから、獨立回復を實現した出口條約(桑港條約)が特別に規定しないものについては、桑港條約發效時にすべて失效するといふことになる。つまり、この「失效」は、桑港條約の效果なのであつて、そのことからしても、占領下の諸法規や指令などは、すべて講和條約群に含まれる規範であることを意味することになり、講和條約説を根據付けるものとなつてゐる。

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