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トップページ > 各種論文目次 > H08.08.25 光山少尉のこと

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光山少尉のこと

鹿児島県の知覧町には、神風特別攻撃隊で有名な知覧の基地がありました。そして、その当時、この知覧に、特攻の母と呼ばれていた「鳥濱トメ」さんという人がいました。トメさんは、特攻隊員の溜まり場となっていた富屋食堂を経営し、特攻隊員のいろんな悩みや相談を真心で受け止めてきました。

このトメさんが送り出した特攻隊員のうち、ここでは、光山文博(卓庚鉉)少尉について述べてみたいと思います。

 

光山少尉は、大正九年、慶尚南道に生まれ、立命館中学から京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進み、特別操縦見習士官第一期生として太刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に入校しました。

光山少尉が沖縄の海に散華されたのは、早咲きのムクゲの花が開いていたであろう昭和二十年五月十一日ですが、その前年の昭和十九年に光山少尉のお母さん(オモニ)は亡くなっています。それゆえ、出撃前夜に、今まで世話になったトメさんの経営する富屋食堂へ、トメさんとの最後の別れをしに行ったのは、亡くなったオモニの姿をトメさんに写し出していたものでしょう。

店にいる兵隊の歌声に耳を傾けていた光山少尉に、トメさんは、
「今夜が最後だから、光山さんも歌わんね。」
と勧めると、
「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、お母さん聞いてね。」
と頼みました。

トメさんと、トメさんの娘二人の前で、ふだん無口で恥ずかしがりやだった光山少尉は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるくらいに目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌いました。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えてゆく
私を捨てて行くあなたは
十里も行かず足がいたむ

 

悲しい調べでした。

この時、初めてトメさんは、特攻隊員の中に韓半島出身者がいることを知ったそうです。アリランを歌う光山少尉は、次第に涙でくしゃくしゃになって、二番を歌うときはもう歌になりませんでした。いじらしく思ったトメさんは、光山少尉の手を取り、娘二人も手を取り合って泣きました。

このように、韓半島出身の特攻隊員は、光山少尉を含めて全部で十四名います。もちろん、光山少尉ら韓半島出身の特攻隊員も、その他の数多くの韓半島出身者の英霊とともに、靖國神社に祭られています。

戦局が苦しくなってきた我が国では、昭和十八年十月二日、在学徴集延期臨時特例に関する勅令が出され、文科系高等教育諸学校在学生の兵役徴集延期が廃止されました。これが世に言う、学徒出陣です。

徴兵制は、内地では初めから実施されておりましたが、韓半島ではそれまでずっと免除されていました。しかし、このとき、同じように、これまで徴兵を免除してきた韓半島の青年たちに対しても徴兵制が実施され、飛行兵にも採用されました。光山少尉も、それを志願し、多くの志願者の中から選ばれて特攻隊員となりました。

光山少尉は、二十四歳で戦死し、二階級特進して大尉となり、ご両親と一緒に眠っていますが、光山少尉(大尉)のお父さん(アボジ)は、息子を誇りに思い、その墓碑には、
「日本陸軍隼大尉」
と刻みました。

これは、「卓大尉」の誤記ではありません。光山少尉の特攻乗機は、陸軍一式戦闘機、通称「隼」であり、アボジは、息子を称えるために隼大尉と刻まれたのでした。

このように、当時の韓半島出身者には、日本人以上に日本人となって生き大東亜の大義に命を捧げようとした人々も数多くいました。

また、「世紀の遺書」の中には、BC級戦犯として処刑された韓半島出身兵士の遺書もあり、日本への怨恨の文字がないのに心を打たれます。処刑直前に、「激しき感動をかみしめつつ海行かばを唱ふ」と書き遺し、あるいは「故国日本、朝鮮の弥栄を祈る」と記して刑場の露と消えた韓半島出身の人々もいました。

最後に、光山少尉の遺歌の一つを掲げて、英霊のご冥福をお祈りしたいと存じます。

たらちねの母のみもとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな

平成8年8月25日記す 南出喜久治

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