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トップページ > 各種論文目次 > H19.01.07 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の三›天皇の戦争責任2(続き)

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続き

戦争責任

戦前に共産党から転向した林房雄は、戦後に著した『大東亜戦争肯定論』(昭和39年)の中で、「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である!」とし、「天皇もまた天皇として戦つた。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。・・・日清・日露・日支戦争を含む東亜百年戦争を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。東京裁判用語とは全く別の意味で戦争責任は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。」とした。しかし、林がここで云ふ「責任」とか「有罪」といふのは、法的責任ではなく、「敗戦による不利益の受容」といふ意味での「敗戦責任」の意味であるはずであつて、思ひ込みが激しく言葉足らの表現であつたことは否めない。

また、左翼的な立場からは、天皇の戦争責任を追及したものは頗る多く、近年においても、アメリカのハーバート・P・ビックスがその著書『昭和天皇』(邦訳・講談社)の中で、昭和天皇は単なるお飾りではなく、政治意思を持つた最高権力者であつたとしてその戦争責任を肯定した。

このやうに、これまで天皇の戦争責任について、左翼などは喧しく論ふのに対し、いはゆる保守論壇において、殆どこれに深く言及しないのはどうしてなのか。論理に自信がないので出来る限り避けて通らうとするのか、あるいは、林のやうな例外はあるにせよ、安倍のやうに結果的になんらかの戦争責任を肯定することになると思つてゐる者としての戸惑ひがあるためなのか。しかし、この問題を論ふこと自体が不敬であるなどと涼しい顔をして沈黙することに賛意を示してくれるのは身内ぐらいなもので、それは単なる自己満足に過ぎず、論壇一般においては、その沈黙は戦争責任を肯定することを意味するので、決して避けて通れない問題のはずである。そんな者は論壇からさつさと退場すればよい。

それにしても、この問題は、声の大きい者だけが論理を抜きにしてひたすら情念だけで議論してゐる傾向が強い。そして、この議論を好まない者もまた情念に支配されて沈黙してゐる。さうであるがゆゑに、この問題は、好むと好まざるとにかかはらず、冷静な論理の視座で述べなければならないのである。

「戦争責任」といふ概念は、その範疇においても、法的、政治的、社会的、教育的、人道的などの多岐に亘り、また、「戦争」の概念も、開戦から講和(敗戦)に至るまでのどの時点を意味するのかといふことや、「責任」の概念も、行為責任であつたり結果責任(無過失責任)であつたりして一義的ではなく、ここではそのすべてについて言及することはできない。私は、これらの戦争責任といふ概念のうち、情念を抜きに考察できる領域として、前に「敗戦による不利益」といふ意味での「敗戦責任」(結果責任)について述べたので、ここでは開戦から講和に至るまでの戦争の全事象における「法的責任」について管見を述べることにする。

国際法上の責任

まづ、法的責任の場合、初めに押さへておかなければならないことは、どの法規が適用されるのかといふ「準拠法」の問題である。この準拠法を度外視して議論することは論理性を失ひ、議論にはならないからである。これは、今までの多くの議論において欠落してゐた観点である。

この前提に立つとき、そもそも、国家には、戦争の対外的な法的責任といふことは原則として「国際法」上あり得ない。対外的責任は国際法及び講和条約に準拠することになるからである。戦争は武力を以て行ふ外交交渉であり、国家には戦争をする権利(交戦権)が国際法上認められてゐる。パリ不戦条約においては、「自衛戦争」を認め、「侵略戦争」(正確には「攻撃戦争」ないしは「積極戦争」war of aggressionとすべきところを侵略戦争といふ訳語として定着させたのは反天皇主義学者の横田喜三郎)の禁止を謳ふが、自衛戦争であるか侵略戦争であるかは、相手国や第三国に認定権があるのではなく、その国に侵略戦争であるか否かを判断する自己解釈権がある。そして、大東亜戦争は、これを「自存自衛」の戦争として行つたのであるから違法な戦争ではあり得ない。国家が国際的に違法な行為をしてゐない限り、その戦争を決断し、遂行してきた国家機関に属する個人には何らの責任も問はれない。つまり、「国家は国家を裁けない」とする原則がある。

次に、ポツダム宣言第十項において、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし。・・・」とあつたが、これは極東国際軍事裁判(東京裁判)を正当化する根拠とならない。しかし、これがサンフランシスコ講和条約の条件(第十一条)となつて独立を回復したので、これを「裁判」とすれば違法であるが、講和の条件(敗戦による不利益の受容)としては有効である。そして、天皇はこれに含まれず不訴追と決定したことから、いかなる意味においても天皇に講和の条件としての法的責任はなかつたことになる。

無効論の場合における国内法上の責任

では、国際法的には問題がないとしても、国内法的にはどうなのか。

開戦から講和までの一連の国家行為は、帝國憲法第十三条の宣戦大権と講和大権、同第十一条の統帥大権及び同第十二条の編制大権に基づくものであることはこれまで説明してきた。それゆゑ、占領憲法が無効であるといふ前提に立てば、この問題は極めて簡単である。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」といふ同第三条の無答責の規定から当然に天皇には法的責任、政治的責任を含む一切の責任はないといふことである。これは、帝國憲法の本質において、立憲君主制か専制君主制かといふ解釈論争があり、そのいづれに重きを置いて天皇大権の行使の態様を解釈するか否かといふ問題や、天皇が開戦から講和に至るまでどの程度関与されたかといふ客観的事実も、あるいはそのときに聖上がどのやうなお考へであつたかといふ内心的事実などとは全く無関係に、法的かつ政治的な天皇の無答責は成り立つからである。

始源的有効論の場合における国内法上の責任

これに対し、占領憲法が有効であるとする見解に立つとすれば、占領憲法第九条第二項後段で「交戦権」が認められないことを前提とした議論がなされなければならない。また、有効論であつても、始源的有効論か後発的有効論かによつて、また、そのうちの様々な見解によつても、それぞれの場合に分けて検討しなければならないことになる。  つまり、天皇の戦争責任を検討するについては、前に述べた如く、その準拠する憲法がどの時点でいづれの憲法なのかといふこと、すなはち、憲法とは帝國憲法なのか占領憲法なのか、具体的には占領憲法の効力論から検討した上でなければ正確な結論が出せない。つまり、前述のとほり、無効論であれば、帝國憲法第三条で無答責の結論に達するが、有効論ではこれと様相を異にするのである。

では、まづ、始源的有効論によると、そのいづれの説であつても、占領憲法制定時において帝國憲法は効力を失ふが、そのときまでの天皇の責任は、やはり帝國憲法第三条で無答責となり、占領憲法制定後の責任について議論することになる。尤も、八月革命説のやうに、「停戦」と同時に帝國憲法が失効したとすると、占領憲法制定までの間は「憲法の空白」が生まれる。しかし、占領憲法第百条には、「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。」との不遡及の規定があることから、「革命時」まで遡及しないことになる。もし、これを革命時まで遡及させ、あるいは帝國憲法が失効してゐない開戦の時期まで遡及させて天皇の戦争責任を議論することは、それこそ占領憲法に違反する見解であり、自己矛盾を来すことになる。

ともあれ、始源的有効説の場合は、占領憲法制定後から戦争状態が終結するサンフランシスコ講和条約の発効までの間は、占領憲法が適用されることになるので、天皇には国政に関する権能を有しない(第四条)ことからして、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印後の停戦状態(戦争状態)に関する責任はやはり問へない。天皇が降伏文書の調印後に何もしなかつたといふ不作為責任を問ふとしても、まづ、そのやうな事実があつたか否かはさておき、そもそも国に交戦権が認められてをらず、しかも、占領憲法第四条によつて、その作為義務も作為可能性もない天皇に対して不作為責任を法的に問ふことは法理論上絶対に不可能である。つまり、作為義務が肯定される場合は、作為の必要性と作為の可能性の双方が認められることが前提であるが、占領憲法においては、天皇は内閣の助言と承認によつて国事行為を行ふのみであつて、全ての責任は内閣にあるので、天皇には、作為の必要性も作為の可能性もないからである。それゆゑ、始源的有効論(革命説、承詔必謹説など)では、やはり天皇には戦争責任はないとの結論が導かれる。

なほ、附言するに、帝國憲法下では、概ね立憲君主的な有権解釈がなされ、慣例的に、天皇は拒否権(ヴェトー)を行使できず、上奏された事項について疑問や不審の点があれば御下問を繰り返して暗に御内意を伝へることしか許されず、これが天皇の「作為」の限界であり、天皇に開戦を阻止し、かつ早期に停戦を実現しうる作為の可能性はなかつたのである。

後発的有効論の場合における国内法上の責任

次に、後発的有効論の場合は、占領憲法がいつ有効になつたかによつて個別に検討する必要があるが、その時期をサンフランシスコ講和条約の発効時(昭和27年4月28日)とすると、これと同時に戦争状態は終結すると同時に、それまでは帝國憲法が効力を有してゐたこといふことになるので、やはり帝國憲法第三条で責任はない。また、安倍のやうに、サンフランシスコ講和条約の締結時(昭和26年9月8日)から占領憲法が有効となるとすると、やはりそれまでは帝國憲法第三条の問題であり、締結から発効(昭和27年4月28日)までの七か月余の間の責任を検討することになる。しかし、この間は、やはり国に交戦権もなく占領憲法第四条で天皇に責任がないことになるので、結論的には同じである。その他の後発的有効論に属する有効説も、有効化した時期に若干の相違があつたとしてもほぼ同様の議論となり、いづれの見解であつても、その論理的検討過程は異なつても結論的には始源的有効論と同じことになる。

退位問題

ところで、敗戦による不利益の受容といふ点に関して、天皇の退位に関して議論されたことがあつた。しかし、これは決して、退位すべき義務があるといふ意味での「戦争責任」を意味しない。そのやうな意図で議論されたことがあるが、それは感情論であつて論理性はない。なぜならば、正統典範は勿論、占領典範にも退位の義務なるものの規定はない。従つて、退位の義務のないところに退位責任は存在しないからである。

実のところ、先帝陛下は、過去三回に亘つて退位の意向を表明されたことがある。一回目は、敗戦直後に、自ら退位することによつて敗戦国の責任を一人で負へないか、と木戸幸一内大臣に漏らされたが、木戸がこれに反対した。その理由は、GHQに退位の意図が誤解され、あるいは皇室の基礎に動揺があると誤解されることになるのではないかとの理由からであつた。その後、アメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会の極東小委員会は、天皇が自ら退位し、かつ訴追する正当な理由がある場合には、天皇を戦争犯罪人として逮捕し裁判にかけるべきであるとする意見書が提出されたことからすると、木戸の予測は正しかつたことになる。二回目は、東京裁判の判決を控へた時期である。A級戦犯に対する判決に合はせて自らも退位といふ形で責任を取りたい、といふ意向を表明されたが、退位による混乱を恐れたマッカーサーの反対があつて撤回された。三回目は、講和条約調印直前の昭和26年秋のことである。巣鴨プリズンに服役中の木戸が宮内庁式部長官松平康昌を介して、皇祖皇宗と戦犯を含む国民に対する敗戦責任として退位されることが皇室を中心とする国家的団結に資するのではないかと内奏し、天皇もこれに受け入れて希望されたが、吉田首相の賛同が得られず見送りとなつた。

このやうに、結果的に退位されなかつたことは重大な意義がある。それは、「火のない所に煙は立たぬ」といふやうに、もし、退位がなされれば、何らかの非を認めたことを推認させることになるからである。また、東京裁判開催前の訴追可能な時期に退位されて上皇となられたならば、「天皇訴追」といふ事態が回避され、上皇としての訴追がなされる危険が大きかつたといへる。その意味からも最後まで退位されなかつたことは國體不変の意味からも誠に喜ばしい限りであつた。

むすび

以上により、占領憲法無効論であつても、占領憲法有効論であつても、例外なく、天皇に法的かつ政治的な戦争責任はないといふ結論になるので、安倍の発言が明らかに誤りであることは証明されてゐるのである。

それゆゑ、安倍は、前に述べたとほり、岸元商工相の副署は間違つてをり、従つて、その副署の対象となる開戦詔書も間違つてゐたことになつて、ひいては天皇に戦争責任があるとするドミノ理論に基づく質問に対して、はたしてそのとほりであるのか否かについて明確に釈明する必要がある。なぜなら、安倍がこれについて釈明せず沈黙し続けることは、これを認めたこととなるとして、この発言が大東亜戦争を全面否定する見解であると反日勢力から指摘されることになりかねない。

特に、平成12年12月8日に東京の九段会館で開催された「女性国際戦犯法廷」といふ不埒な茶番劇をNHKが特集番組として報道することについて、政治家の圧力により番組改編があつたか否かといふ騒動が平成17年1月ころにあつたが、その際にも安倍らの名前が意図的に引き合ひに出されてゐた。このときの安倍の対応は望ましいものであつたが、この度の安倍の副署発言によつて、再びこれが契機となつて戦争責任のことが再燃するのではないかと懸念される。

しかし、今、保守論壇において、優柔不断で支離滅裂の自己矛盾に満ちた、これらの安倍の変節的主張を指摘して批判することもせず、殆ど沈黙を守つてゐるのはどうしてなのか。小泉は、アメリカが突きつけた「年次改革要望書」を忠実に受け入れ、郵政民営化、保険市場開放、新会社法制定、法曹人口拡大などを悉く実現して対米従属を極度に深めた。

また、小泉内閣による郵政解散と、その際における郵政民営化反対議員の非公認措置と刺客の送り込みといふ暴挙は、対米従属を強引に推し進めるために、その反対勢力を徹底して弾圧したといふ点において、大老井伊直弼による安政の大獄と共通したものがあるが、安倍は、その小泉内閣の「金魚の糞」となつて泳ぎ切り、ついに首相の座に就いた。小泉が「ブッシュのポチ」と呼ばれたことからすると、安倍は、さながら「ブッシュのポチの尻尾」といふことになるが、国民に対しては伝統保守思想の持ち主であるかの如く欺き、その内実は謝罪外交を継続しつつ小泉の対米従属方針を墨守することにより、ペリー来航、大東亜戦争に続く「第三の敗戦」へと導く「ハーメルンの笛吹き男」ではないのか。

桜田門外の変で斃れた井伊の後を継いだ老中安藤信正は、懐柔策として公武合体政策を進めたが、やはり坂下門外で要撃された。安倍が伝統保守的姿勢を示してゐるのは、小泉の対米従属政策を維持することを隠蔽するための方便であつて、安藤の公武合体政策と同じやうな狙ひがあるのではないのか。安倍が年内に靖国神社に「略式参拝」ではなく「正式参拝」を行ふことがなければ、「ハーメルンの笛吹き男」であることが確定することになるが、保守層を懐柔してさらに対米従属と謝罪外交を推進するために、紋付き羽織を着てハンバーガーを食べるが如き安倍に対して、保守論壇が殆ど疑問を呈することなく批判もできないのは、やはりその全ては同じ穴の中の狢である似非保守といふことなのか。

平成19年1月7日記す

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