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トップページ > 各種論文目次 > H19.07.01 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の四›小山常実氏に対する公開反論2(続き)

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続き

「有効の推定」といふ詭弁

これ以外にも、小山氏が私の見解を批判した点としては、講和条約説は帝國憲法第75条に違反するとする点もあつた。しかし、これは一体何を言はんとするのかが不明である。この条文は、占領憲法が憲法としては無効であることの根拠となるのであつて、講和条約説を否定する根拠にはなり得ない。おそらく、小山氏は、井上氏がこの条文によつて絶対無効であることを導いた点から、そのやうに主張するのであらうが、さうであれば小山氏の法律説も同様である。むしろ、法律説であれば、前述の矛盾があつて論理的に破綻するが、講和条約説であれば、帝國憲法第13条と第76条第1項が根拠となる。法律説ではこのやうな根拠が全くないのである。小山氏は、講和条約説には法的根拠がないと自己の結論的な見解を主張するだけなので、私は、以上のやうな理由を説明して、小山氏がそのやうに主張する理由を尋ねたが、未だに答へがないのは心外である。

ところで、小山氏は、占領憲法が憲法としては無効であるとしながら、無効確認決議がなされるまでは「有効の推定」を受け、無効確認決議をするまでは有効として扱はれる旨の主張をするが、私は、このやうな見解には到底与しえない。むしろ、かねてからこの論理に致命的な矛盾があることを認識し、私の見解もこの論理によるものと一般には誤解されることを危惧してゐた。現に、最近では、小山氏と私とは同じ見解であるとする風説すら存在するのである。

確かに、公布された規範は、公定力があるとされるものの、理論的に無効なものとして確認決議がなされるまで、一応は有効であるとするのであれば、無効確認決議といふのは、確認的効力ではなく、形成的効力(規範創設的効力)があることになる。それならば、破棄決議とか失効決議と同じことになつてしまふのである。小山氏のやうな見解であれば、無効確認決議ではなく破棄決議とか失効決議であつて、無効確認決議とは異なるものなのである。いづれにせよ、過去に遡つて無効であることが確認されないといふやうなもの(遡及効のないもの)を「無効」といふ概念で説明することは「無効」といふ法的概念を混乱させてしまふことになり、論理的な破綻を招く。そもそも、有効の推定を受けるとしても、無効確認決議がなされれば、それまでの有効の推定が覆つて、当初から無効となるのが本来であるのに、どうして無効確認決議がなされた以後も「有効の推定」が存続するのか。といふよりも、無効確認決議がなされれば、それまで「有効の推定」にすぎなかつた過去の行為が、どうして「有効なものとして確定」してしまふのか、無効確認決議がなされると、どうして過去の行為の効力が覆らないのかといふ疑問について全く説明がなされてゐないのである。

ちなみに、このことは、私が占領憲法を講和条約として有効であると認め、将来に向かつて破棄通告をすればよいといふことと、これを憲法としては無効であることの確認決議や遡及効のない破棄決議などとは全く異なるものであつて、概念的に彼此混同してはならないのである。

ところで、現行制度において、事情判決の法理といふものがあり、行政事件訴訟法第31条にその規定がある。これ以外にも、裁量棄却判決の制度(会社法第831条第2項、中小企業等協同組合法第54条など)も同趣旨のものである。これらは、遡及効のない「失効」または「破棄」の変形であり、「違法であるが有効である」とするもので、将来に向かつて違法であること(実質には失効すること)を宣言すること、つまり「違法宣言」をすることが義務付けられてゐる。本来ならば、峻別の法理からして、違法(違憲)=無効といふ原則であるにもかかはらず、無効とすることによる法的安定性への影響などを考慮して、違法であつても無効とならない、つまり有効とするといふ例外法則なのである。しかし、これは、あくまでも同じ法令内の現象、つまり同一の法領域内での現象である。

ところが、新無効論といふのは、同一の法令内で、違法(違憲)=無効といふ原則の例外を認めるものではなく、あくまでも同一の法令(憲法)としては無効であつて、それが他の法令(講和条約)として有効として認めうるとする論理である。これは、「無効規範への転換」といふ事象である。つまり、占領憲法は「憲法」としては「無効」であるが、それが当初から「東京講和条約」といふ講和条約として成立したといふことである。無効規範が他の規範に転換しうるといふ現象である。そして、入口条約(ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印)、中間条約(占領憲法こと東京講和条約)、出口条約(サンフランシスコ(桑港)講和条約)といふ同列の講和条約群を形成してゐることから、その一部又は全部を将来に向かつて「破棄」できるといふことができることとは別の議論である。この場合、国際法の領域において、我が国が破棄を行ふために用ゐる論理が「事情変更の原則」であり、これに対抗する相手国(連合国)がこれを阻止しうるために用ゐうる論理が「事情判決の法理」といふことになるであらう。

無効論の啓蒙を妨げるもの

ところで、小山氏は、無効論が普及できないのは、占領憲法の成立過程の事実関係が広く周知されてゐない点にあるとし、その学術的な研究がさらに必要であり、小山氏はこれに専念すれば解消できるかの如く指摘したが、私はこれとは全く異なる認識に立つてゐる。確かに、それが不必要であると言ふつもりはないが、啓蒙の壁はそんなところにあるのではない。私は、これまでずつと講演や集会参加、事件の弁護などを通じて、護憲論者や改憲論者と論争するなどの実戦的な活動をしてきたことから実感するのであるが、無効論があるといふことを漠然と知つてゐる人は相当多くなつてゐる。しかし、一般の人々の反応、特に、保守的と思はれる人々の反応としては、二つの大きな抵抗があることを指摘したい。その一つは、「承詔必謹論による抵抗」である。そしてもう一つの抵抗は「法的安定性の不安」である。

無効論が広がらなかつた理由についての小山氏の指摘は、学者にありがちな机上の想像に過ぎず、私の実戦的感覚からすると全くの見当違ひである。特に、保守系の人々に無効論が広がらない主な理由は、「無効論の不知」ではなく「無効論に対する抵抗感」であり、歴史検証の不充分さからくるのではない。多くの人は占領憲法の出自が怪しいことについては感覚的に知つてをり、詳細な歴史的事実を知らなければ理解できない性質のものではない。一般の人は、学者以上に柔軟で健全な感性を持つてゐるのである。

小山氏は、私に対して、「事実関係と切り離して、あるいは事実関係を軽視して、法律論議のみに力を入れてきたのです。これは、貴方にも当てはまることです。」と批判したが、これは失礼千万といふか、井の中の蛙の言説で、噴飯ものと云はざるをえない。小山氏だけが歴史的事実関係を知つてゐるかのやうな傲慢さが鼻につく。これまで、多くの人が歴史検証をしてきたし、小山氏が新たに発見した事実関係といふものは殆どないはずである。私は、これら多くの人々の歴史検証によつて解明された事実関係を基礎として法律論を展開してゐるのであつて、歴史検証の成果としての事実関係を啓蒙するだけでは無効論は広がらないと考へてゐる。

ともあれ、小山氏に限らず、まづ、無効論が広がらないのは、承詔必謹論が無効論に対する抵抗感として根強くあることを理解する必要がある。私は、承詔必謹論について、これまでいろいろと述べてきた。ここでは再述しないが、それを解決する鍵は、帝國憲法第13条の講和大権の性質と、同第76条第1項の規定にあり、これによつて承詔必謹論との融合がはかれるものと確信する。私の見解(新無効論)は、憲法としては無効であるが講和条約として有効であるとする見解であり、承詔必謹論と矛盾しない。しかし、旧無効論では、どうしても素朴な承詔必謹論による尊皇の想ひによるためらひに阻まれる。

また、「法的安定性の不安」についても、小山氏の「推定有効」といふ詭弁では法的安定性への不安は到底解消できない。むしろ、その不安は増幅する。前にも述べたが、この見解には論理破綻があり、そのことを人々は感覚的に知つてゐるからである。この論理は、法的に「無効」と結論づけられたものが、どうして「推定有効」なのかといふ素朴な批判に何も何ら答へられない。「推定」といふ証明責任論における概念を果たして理解してゐるのかがそもそも疑問である。本証、反証、事実上の推定、法律上の推定などの概念の厳格な区別、そして、これらによる攻撃防御方法を駆使した立証活動の場面と、それが尽きたところでの「証明」の成否といふ結論の場面(心証)とを混同してゐることは明らかである。平易なたとへでいふならば、結論において「無罪」だと確信的に主張してゐる弁護人が、これと矛盾する「有罪が推定される」といふ見解と両立させ、この見解を用ゐてどうして弁護をすることができるといふのか。こんなことを云つてゐるから有効論者からは、旧無効論は法的安定性を害する危険思想であると揶揄されてしまふのである。

旧無効論と新無効論との討論

ともあれ、この度、小山氏からの突然の批判を受けたことは、意外ではあつたが結果的には歓迎すべきことであつた。突然に売られた喧嘩ではあるが、私がこれを買ふことの意義は大きい。

そもそも、小異を捨てて大同につくといふことからすれば、私と小山氏との討論は避けるべきであるとの消極意見もありうるが、私としては、私の無効論(新無効論)でなければ有効論を凌駕し克服することはできないと確信するが故に、旧無効論との相違を明確にすることが真に無効論の普及と進化に貢献できると信じて疑はない。これは、比喩的に言へば、大統領選挙に出馬する無効論党の候補者を選考決定するについては公開討論などを通じて公正かつ公平になされなければならといふことである。そして、その結果を踏まへて、無効論党の候補者として指名を受けた上で、有効論党の候補者と雌雄を決するために大統領選挙に出馬し決選投票を挑む必要があるからである。それゆゑ、まづは、旧無効論派に属する小山氏は、私との間で無効論党の候補者指名を受けるための選考手続を受けなければならないのであつて、この公開討論に必ず参加していただくやうお願ひしたい。

のみならず、このことは、有効論者の学者及びこれらを擁護する産経新聞社(正論編集部)その他のメディアの全てについても同様であつて、公正かつ公平のルールに基づいて私との討論を避けることはできないはずであり、この場を借りて、占領憲法の効力論に関する継続的な公開討論の実現を強く要望するものである。

平成19年7月1日記す 南出喜久治

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