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トップページ > 各種論文目次 > H17.01.17 國體護持:クーデター考3(続き)

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國體防衛権

ところで、これまでにおいて、「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」との帝國憲法の上諭の部分を「天皇の側からのクーデターの禁止宣言」の根拠として考察してきたが、実は、この上諭の部分の意味は、単にそれだけのものではなく、さらに重要な意味を含んでゐる。

まづ、この上諭部分をもう少し詳細に引用すると、「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とあるのであつて、これは、現行憲法無効論がその無効の根拠としてゐる一つである。つまり、帝國憲法改正の限界を示す実質的要件である「紛更ヲ試ミルコト」を禁止した条項に違反するからである。ポツダム宣言と雖も、その第10項には、「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。」として、帝國憲法の運用に誤りがあつたことを指摘するにとどまり、全面的な改正の必要性を認めてゐなかつたのであるから、必要最小限度の改正を超えて「紛更」した現行憲法は立憲的見地から容認できない。

そして、さらに、この上諭の部分の最重要な意味としては、これが臣民の有する國體防衛権の根拠となる点である。紛更をしてはならない主体には、「臣民」も含まれ、当然に國體護持及び國體回復の義務を負ひ、その権利をも有するのであつて、この國體防衛義務と國體防衛権は、個々の臣民に帰属する。そして、國體を侵害し、あるいはこれを危殆に陥れる者を膺懲して排除し、ときにはその予防措置を講じて國體を護持又は回復する一切の行為を行ふことができるのである。これは個々の臣民の不断の努力によつて実現されなければならない。現行憲法と現行皇室典範をいづれも排除して、帝國憲法と正統皇室典範をそれぞれ復元することは、当然にこれに含まれ、これらは臣民の崇高かつ名誉ある皇道なのである。

ちなみに、「臣民」の用語について言及する。古来において、君、臣、民の区別により、臣は、君に仕へる統治者側のもの、民は被統治者であるところ、民もまた臣となつて、統治者と被統治者とが一体となる「自同性」を示す国民の呼称として「臣民」が採用されたのである。これは支那にはない我が国独特の呼称であり、それが民主制を採用した立憲君主制憲法の国民の呼称として最も相応しいものである。単に被統治者のみを意味する「国民」の用語よりも民主制の理想に近い用語なのである。

ともあれ、この國體の護持と回復は、皇統の連綿と不可分一体のものであるから、臣民の義務と権利としては、当然に皇統の護持に努めなければならない。

万世一系の皇統としては、北畠親房の「神皇正統記」に基づき、南朝が正統、北朝が閏統であることから、南朝に属する血統を現在の北朝の皇統と統合して、皇統の強化と合一が図られなければならない。それは、後醍醐天皇、後村上天皇の南朝正統系(熊沢天皇系)のみならず、その他の傍系の全てを含むことになる。そして、このことによつて、孝明天皇とその皇子である睦仁親王が弑逆され、長州の擁立した南朝傍系である大室寅之祐が睦仁親王とすり替はつて明治天皇として即位したとする説をも霧散融合させることになる。

そもそも、皇統とは、天照皇大神の天つ日嗣として継承する「すめらみこと」(総命、統尊)であり、その血統のみならず、霊統が重んじられてきた。それゆゑ、その昔、仁徳天皇系が途絶えたとき、越前の応神天皇の五世孫を第26代継体天皇とした史実もある。

ところが、皇室の現状を鑑みるに、克己復礼による宮中の祭祀と皇室の行事を疎かにし、皇室外交といふものしか関心がなく、國體の護持と皇統の連綿を願ふよりも、帰国子女のため充分に我が国の文化、伝統を理解する機会に乏しかつた皇太子妃を庇ふことにしか目が向かない庶民性豊かなだけの皇太子と皇太子妃が将来天皇と皇后になつたとすれば、皇統と國體の護持は危ふい。「天子には戯れの詞なし。綸言汗の如しとこそ承れ。」(平家物語)といふ帝王学から外れた「人格否定」の発言がなされたことを憂慮すれば、皇統と國體の護持を義務と誇りとする臣民として、世襲制の高級外交官夫婦となることを願ふだけの人物を日嗣の御子とすることを眞に願ふのか。徳仁といふ皇太子の御名は、仁徳天皇を連想させるが、この仁徳天皇系が途絶えて継体天皇を迎へたことを寓意してゐるのかも知れない。今上陛下は、第125代天皇であり、皇太子が即位されれば第126代天皇となられることになるが、第26代天皇の継体天皇から数へて丁度百代目となることも単なる偶然とは云へないであらう。

前述したとほり、乃木希典は、明治天皇に殉死する直前に、昭和天皇(当時は皇太子)に山鹿素行の「中朝事実」を贈つたとされる。そして、このことは、明治天皇に殉死したことによつて、その後に昭和天皇が欧米文化へ傾倒して行くことの諫死であつたが、それでも皇室は、その後ますます欧米的な風習と精神思想に浸り、それが戦後になつて益々加速して皇室全体に蔓延してきてゐる。

一方で、宮中内部がこのやうな有様である上、他方、皇室を取り巻く外部の環境としては、帝國憲法時代では皇室典範は皇室の家法として帝國憲法と同格であつたのが現行憲法の下での皇室典範は法律に格下げされ、皇室の自律は全く奪はれて、象徴天皇制といふ名の「傀儡天皇制」が固定化し、皇室は、現行憲法の下位法規である法律によつて一切を規制される存在となつた。これでは「象徴」ではなく完全な「傀儡」にすぎないのではないか。我々は天皇を「傀儡」に陥れて満足なのか。今では、皇位継承についても、皇室には何らの発言も提案もできない。そのやうなことされれば、皇室典範といふ法律の改正案について容喙することになるので、「国政に関する権能を有しない」とする現行憲法第4条に違反すると批判されることになるからである。一般の家庭で、もし、そこまで国に干渉されれば、文句も言ひたくなり、人権侵害だと口さがなく大騒ぎするだらう。そして、もし、大騒ぎしたら、憲法違反とされるとしたら、これに唯々諾々とする人が果たして居るのだらうか。

皇室には、臣民の家族の有様とは異質の原理と伝統がある。皇統連綿を維持するために、正妃である皇后に皇子がなければ、嫡出外の皇子を皇嗣としなければならなかつた。直近の皇統を見ても、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治までの五代の天皇は、いづれも嫡出の皇子に恵まれなかつた。正妃に皇子を得た天皇は、明治天皇の六代前の桃園天皇まで遡ることとなり、裕仁親王(後の昭和天皇)は皇室において140年ぶりの嫡出の皇子だつたのである。それほどにまで皇嗣を得ることは一大事なのである。

いづれにせよ、このやうに、皇室の内と外には、拭ひ切れないやうな暗雲が立ちこめてゐる。しかし、これをいづれも祓はなければ、皇統と國體はその存続が危ふいことを奏上せねばならないが、心ある臣民が天皇及び皇族にお諫めしうる機会は皆無と云つても過言ではない。園遊会に臨席できるのは、特別の者に限られ、しかも、形式的な会話しかできない。一般参賀では、厚い防弾ガラスの彼方に御座す。個別に参内する者も政府が選別し、現状の打破を唱へる者や國體と皇統の護持は願ふ者はいづれも危険人物として当然のやうに遠ざけられる。その他全て宮内庁人事は政府が決めて皇室の自律は全く奪はれてゐる。

このやうな皇室に対する不敬は、先に述べたとほり、徳川幕府の「禁中並公家諸法度」と「禁裏御所御定八箇条」よりも凄まじいものであつて、これこそが国民主権主義の正体なのである。「禁中並公家諸法度」などの場合は、倒幕の綸旨を大名に下賜させないために行幸禁止、拝謁禁止をしたが、それ以外では皇室の自律、特に、婚姻形態と皇位継承などは認められてゐたのに対し、現行憲法下では全てを剥奪するといふ仕打ちがとられてゐる。終戦の御聖断によつて臣民が救済されたことの恩を仇で返すとはこのことではないのか。帝國憲法下の刑法典に照らせば、戦後に法律としての皇室典範を制定し、あるいは今もなほこれを廃止しない国会議員全員に対して不敬罪が適用されるはずである。

もし、このまま漫然と推移するだけで、皇室の内にある暗雲と外にある障害がそれぞれの自浄作用によつて払拭できないか、あるいはその期待すら全くできないのであれば、臣民は、心ある自衛官、警察官などと連携して國體防衛権を行使し、実力を以て復元クーデターを断行しなければならない。そして、現行憲法とは無関係に、皇統に連なる方々と共に、大伴金村が継体天皇を擁立した例に倣ひ、我が国の歴史と伝統に則つて、天皇に相応しい霊統を受け継いだ「新たな継体天皇」を擁立して皇統を護持し國體を防衛する必要がある。そして、今すぐに臣民全体が取り組む運動として、現行憲法と現行皇室典範の無効を宣言し、今こそ南北皇統合一のための皇統護持会を結成するなど、我々臣民は真剣に考へ、そして行動するときが来たのではなからうか。

平成17年1月17日記す 南出喜久治

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