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トップページ > 各種論文目次 > H17.08.15 國體護持:続続憲法考1

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國體護持:続続憲法考

背理法による証明

本章においては、これまでの占領憲法を無効とする根拠に加へて、さらに、「分断国家」の領土的視点による無効説のさらなる根拠を説明する。それは、沖縄県、小笠原諸島、奄美群島、北方四島、竹島など、我が国固有の領土でありながら、北海道、本州、四国、九州とその周辺からなる占領憲法制定当時の「本土政府」による実効支配がなされてゐなかつた事実についての憲法的考察であつて、以下では、沖縄県以外の領土については省略し、沖縄県について集中的に掘り下げることによつて、この問題の所在を浮き彫りにしたい。具体的には、「背理法(帰謬法)」による無効説及び國體論が真正であることの証明であり、それは、占領憲法が無効であるとする立場の根源的な認識である「國體論」を否定し、有効説が肯定する占領憲法の「主権論」を真正であると仮定すれば、そこから導かれる矛盾した結論を明らかにすることによつて、無効説及び國體論の真正を証明、有効説及び主権論の不真正を証明することにある。

占領憲法制定への道

我が国が、沖縄戦を死力戦として戦ひ、本土決戦まで覚悟せねばならなかつたのは、従来までの近代戦争における講和条件が、領土の割譲や賠償金負担、それに軍備の縮小までであつたのに、昭和16年8月の英米共同宣言(大西洋憲章)では「敗戦国の武装解除」まで求めてゐたためであつた。完全武装解除は将来における自衛権の完全放棄となり、國體の護持が危うく、国家滅亡に至るとの政府の判断は当時としては当然のことである。従つて、来るべき講和条件の受諾において、国家の滅亡を回避するための譲歩を少しでも得るために、沖縄戦を戦ひ抜き、その強い抵抗を示し、もつて譲歩を求め、それでも譲歩が得られないときは本土決戦といふ決死の覚悟をもせねばならなかつた政府の苦悩と沖縄県民の痛みは、沖縄防衛軍の大田実司令官の「沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜はらんことを」との最後の言葉に凝縮されてゐる。

それでもなほ、昭和20年7月26日のボツダム宣言は、右の英米共同宣言(大西洋憲章)と同18年の米英中共同宣言(カイロ宣言)とを継承し、「日本軍の無条件降伏」と「日本軍の完全武装解除」を条件とするものであつた。このまま受諾すれば沖縄の犠牲が無駄になつてしまふとの我が政府の逡巡に対し、問答無用で敢行されたのが昭和20年8月6日と9日の広島・長崎の原爆投下であつた。

かくして、我が国はポツダム宣言を受諾した。

ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印は、帝國憲法第13条の講和大権に基づいて締結された講和条約の総論的な入口の条約であつて、その各論的な取り決めが連合国側でいふ保障占領期間を経て具体的に確定したのが「日本国との平和条約」(昭和26年9月8日署名、同27年4月28日公布。以下「最終講和条約」といふ。)であつた。

最終講和条約第1条には、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」とあり、最終講和条約が効力を生ずる日まで、我が国と連合国とは「戦争状態」にあつたことが確認された。つまり、その間になされたGHQの我が国になした行為は、いづれも戦争の継続としてなされたものであつて、その間において連合国が築いた最大の橋頭堡は、極東国際軍事裁判(東京裁判)の断行と占領憲法の制定であり、さらに占領政策全般の要諦となつたのは、「ポツダム緊急勅令」(昭和20年勅令第542号「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」)であつた。

ポツダム宣言第10項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」とあり、その前段が東京裁判断行の、後段が占領憲法制定のそれぞれの根拠とされた。しかし、これらはいづれも連合国側の解釈であり、前段の「一切の戦争犯罪人」の中に、国際法において確立されてゐた罪刑法定主義に違反し、新たに事後法を制定して遡及的に処罰するといふ国際法無視の東京裁判を容認する解釈は成り立ちえない。また、後段の「一切の障碍」の中に帝國憲法を含ましめるといふ解釈も到底成り立ち得なかつたのである。

ところが、GHQは、占領開始後間もなくこれらに着手した。

昭和20年9月4日に第88回帝國議会が開催され、同月20日、占領政策の要諦となる「ポツダム緊急勅令」が公布され、同年10月11日に、マッカーサーが幣原喜重郎首相に帝國憲法の改正を厳命し、幣原はこれに屈服して受け入れたことが嚆矢となり、このことから本土政府は占領憲法制定への道を歩み出す。

同月13日に国務大臣松本蒸治を中心とする憲法問題調査委員会を設置することを閣議決定し、同月25日に同委員会が発足され、その後「憲法改正要綱」(松本案)が作成されるのである。

また、これと平行して、同年11月27日開催の第89回帝國議会においてポツダム緊急勅令の承諾議決がなされ、同年12月17日、衆議院議員選挙法の改正(婦人参政、大選挙区制など)がなされていつた。

そして、本土政府は、松本案をまとめ、これを翌昭和21年2月8日にGHQに提出して発表する予定のところ、発表前の同月1日に毎日新聞が松本案を素つ破抜いてその内容をスクープとして発表したため、国策に重大な悪影響を及ぼした。

この松本案は、天皇が統治権の総攬者であること、議会の議決事項の範囲を拡充し大権事項をある程度削減すること、国務大臣の責任を国務の全般に及ばしめること、臣民の自由および権利の保護を拡大することの所謂「松本四原則」をもとに作成されたものであるが、これが素つ破抜かれて報道されたことから、これを知つたマッカーサーは即座に民政局に対してGHQ草案の作成を指示した。本土政府は、予定通り同月8日に松本案をGHQに提出したが、GHQは、同月13日にこの松本案を拒否すると同時に、占領憲法の原案となつたGHQ草案(マッカーサー草案)を押し付け、「これを最大限に考慮し」て日本側に新たな案を作成するように命じたのである。しかし、本土政府は、我が国の国情からして、松本案以外に道はないとの結論に至り、同月18日に松本案の補充説明書をGHQに提示し松本案の再度の受け入れを願つたが、GHQは、にべもなく峻拒し、あまつさへ、これを受け入れなければ、天皇の地位を保障できなくなることや、言論統制下にある新聞社を使つて直接に国民にGHQ案を公表するなどと強迫した。

本土政府は、その後、同年3月2日に修正案(3月2日案)を提出するが、GHQはこれも拒否し、これ以上は待てないとして、「最終案」を作成のための共同研究会を開催することを厳命した。政府は、ついにGHQに脅従して、同月6日、共同研究会で決定した「最終案」の字句に若干の修正を加へただけの「憲法改正草案大綱」をGHの指示により天皇の勅語を添へさせて国民に発表し、同年4月17日、この「憲法改正草案大綱」を口語体にした「憲法改正草案」が内閣で作成され、これが占領憲法案となつた。

そして、同年4月10日には第22回総選挙が実施され、同年5月3日に極東国際軍事裁判が開廷される中での同年6月20日に第90回帝國議会で憲法改正案を衆議院に提出され、同年8月24日に衆議院で修正の後に可決され、貴族院へ送付。同月26日には貴族院での審議が開始し、同年10月6日に貴族院で修正のち可決、再度衆議院へ送付されて翌7日に衆議院で貴族院送付案を可決、枢密院の審議へ入つた後、同年11月3日に占領憲法が公布され、翌昭和22年5月3日に占領憲法を施行するといふ手続がなされてきたのであつた。

分断国家の占領憲法

このやうな経緯は、前にも述べたとほり、占領憲法が無効である根拠を基礎付けるものであるが、沖縄県がこの一連の占領憲法の制定において完全に排除されて行つた経過事実について何ら触れられてはゐない。

沖縄県は、特別の御高配を賜はるどころか、その後、本土とは分断され、占領憲法の制定手続においても完全に排除されたのである。

すなはち、翌昭和21年1月29日、GHQは「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」を発し、同年3月に憲法改正を審議する議員を選ぶための総選挙から沖縄県などを排除することを指令し、同年2月にはこれに基づき内務当局をして、来る総選挙は沖縄県などの地域に及ばないと言明なさしめた。かくして、我が国は、本土と沖縄県とに分断され、本土にのみ適用される占領憲法の制定をGHQから強要され、本土政府は分断国家への道を歩み出したのである。

しかし、このことは、仮に、主権論に基づいてこのことを考察すれば、占領憲法は我が国本土にだけに適用される分断国家の憲法といふことになる。占領憲法には、領土に関する規定がないことから、その範囲は不明確ではあるが、制定時の状況からして、沖縄県が除外されてゐないとする根拠も存在しないので、この本土限定の占領憲法が、いつ、どのやうな根拠により、どのやうにして本土返還後の沖縄県にも適用されるに至つたのかといふ疑問が生じてくるのである。

このことについて、沖縄社会大衆党の安里積千代委員長は、昭和37年10月の沖縄社会大衆党臨時大会において次のやうな挨拶を行つて問題提起を行つてゐた。

「・・・日本は占領から解放されて独立を回復しました。・・・その独立の陰に沖縄県を分離して米国に施政を委ねるという民族の悲劇がかくされております。平和条約は憲法第61条によって国会の承認を受けています。然しその国会には当時(今もそうでありますが)沖縄は参加しておりません。憲法第95条には一つの地方公共団体のみに適用される特別法はその地方公共団体の住民の投票において過半数の同意を得なければ国会はこれを制定することはできないと規定しております。勿論条約の承認ということは多少意味は違いますけれども日本の法律の下から沖縄を除くということは沖縄のみに適用される特別法を制定する以上に住民にとっては重大なことであります。このような拘束力をもつ条約の承認に当って国会は沖縄県民に諮らず、その意志に反し、沖縄代表も参加しない国会において議決されたということは当時の事情は諒とするに致しましてもその非は争えないのでありまして政治的責任を感ずべきであります。加うるに重要な国会法から沖縄県を除いております。民主国家の国民としてもつ参政権を規定する国会法や公職選挙法から沖縄の定員を除き選挙法の別表から沖縄県を削除しているのがその好例であります。」

この安里委員長の挨拶は、前々年の昭和35年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、前年の昭和36年4月28日には2万人が参加したとされる那覇での祖国復帰県民総決起大会などの祖国復帰運動の高まりの流れの中でなされたものであるが、本土政府の占領憲法の制定から、最終講和条約、さらに、昭和47年5月15日に沖縄返還が実現し沖縄県が発足するまで、否、その後においても、占領憲法を有効説とする国民主権論の側からはこの問題提起に対して今もなほ何らの応答もなされてゐないのである。

琉球政府の主権

国民主権主義によれば、沖縄県民を除外し本土の国民のみによつて成立した本土政府の占領憲法が沖縄県民を直接に拘束することはあり得ない。占領憲法第10条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とするのであり、占領憲法制定時には、沖縄県民の全ては参政権を行使し得ないのであつたから、沖縄県民を占領憲法における国民としては認めなかつたといふことになるからである。沖縄が領土として返還されただけでなく、アメリカの施政権下にあり制限的ながらも最終講和条約発効直前に三権分立の県民による自治機関としての琉球政府が設立され、昭和43年11月11日には初の公選による琉球政府主席が選出されてゐた「琉球政府の国民」が「本土政府の国民」となるといふ現象は、その事情と来歴を異にするとしても、法的には、我が国とその保護国であつた大韓帝國との日韓併合(明治43年)に共通したところがある。ところが、後者は、当事国の併合(合邦)条約によつて成立したが、前者は、日米間の沖縄返還協定(性質は条約)で実現したとし、琉球政府と本土政府との併合条約によるものではない。

国民主権論によれば、その主権の範囲は、邦域たる領土的範囲と主権帰属者たる人的範囲によることになるが、沖縄県と沖縄県民がこれから除外され、しかも、制限的ながらも沖縄県下で「県民主権」が実施されてきた琉球政府は、主権国家と認められるはずである。それゆゑ、本土政府と琉球政府との一体化は、それぞれの独立を維持した連邦制か、一方の独立を否定する吸収併合又は双方の独立を否定して新国家を成立させる対等併合のいづれかによることになる。そして、琉球政府は、本土政府との連邦制ではなく、本土政府に吸収される吸収併合を選択したのであるから、琉球政府としては、主権国家の消滅と県民が本土政府下の国民になることに関する県民の合意がなされた上で、本土政府との間で併合条約が締結されなければならない。ところが、そのやうな手続はなされてゐない。ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第一の矛盾がある。

本土政府の残存主権

この合邦現象については、本土政府に、沖縄県及び沖縄県民に対する「残存主権(潜在主権)」があることを以て説明する見解がある。この残存主権とは、residual sovereigntyの訳語であり、国際法上確定した用語ではなく、最終講和条約第3条の解釈として登場したものである。つまり、最終講和条約第3条には、「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」とあり、これに基づき米国の信託統治として沖縄における立法、司法、行政権以外の、領土の最終的処分権が我が国に帰属してゐるとの説明として、この残存主権なる概念が用ゐられたのである。

ところが、ここにも国民主権論の矛盾が露呈する。国民主権は、「絶対」、「最高」、「無制限」であるとする定義からして、そもそも残存主権なるものが成り立つ余地はない。「制約された絶対的なもの」とか、「一匹狼の集団」などといふ矛盾の典型に他ならず、主権概念自体を崩壊に導くからである。

この矛盾を回避するために、主権概念の相対化を主張し、国民主権における主権の概念と、領土の最終処分権としての主権の概念(領土主権)を区別したとしても、やはり本土政府が保有するとする沖縄に対するこの残存主権(領土主権)なるものは、主権の通有性である絶対、最高、無制限からは遠い内容である。ここには、処分の対象となる領土(沖縄)だけの要素しかなく、人的要素が全く無視されてゐる。その領土(沖縄)に生存する県民は、領土(沖縄)の附属物ではない。沖縄と沖縄県民とは不即不離の不可分一体の関係にあり、もし、本土政府が沖縄についての領土の最終処分権を行使し、これを米国に割譲したとすれば、沖縄に生存する沖縄県民の国籍は剥奪され、又は、米国への帰化を強要し、あるいは本土への移住を強制することになるのである。これは、本土政府が主権の帰属者たる国民全体の部分集合体である沖縄県民の生殺与奪の権利があると解釈して、主客転倒の結果に至る。これは国民主権論の自殺行為に等しい。ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第二の矛盾がある。

最終講和条約

占領憲法第61条によれば、「条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。」とあり、前条第2項には、「予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。」として、予算と同様に衆議院の優越性を規定してゐる。

これに対し、法律の場合は、占領憲法第59条第1項に、「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。」とし、同第2項には「 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」とし、予算と条約の場合とその態様を異にするものの、ここでも衆議院の優越性を認めてゐる。

このやうに、衆議院の優越を規定するのは、参議院よりも衆議院の方が国民主権における一般意志を正確に反映してゐるとの認識によるものだとされてゐるからである。

そして、同第56条によれば、第1項で「両議員は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。」とし、第2項で「両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。」として、法律、予算、条約については、いづれも通常の多数決原理によるものとしてゐるので、国民主権主義の立場からすれば、法律、予算、条約の規範的価値は同等と認識することになる。

ところで、法律については、同第95条で「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」と地方自治特別法に関する規定を設けてゐるが、予算、条約にはそのやうな規定はない。法律においてこのやうな規定があり、予算にこのやうな規定がないのは、この規定が特定の地方公共団体に特別の不利益を課す場合を想定したものであつて、歳費の支出を定める予算により特別の不利益が課せられることは想定しえないからである。しかし、条約の承認の場合はさうではない。現に、最終講和条約において、沖縄県などは米国の施政権下に置かれるといふ不利益を受けたからである。これは法の不備であつて、国民主権主義の立場からすれば、当然にこの場合にも占領憲法第95条が類推適用されるべきであつた。ところが、本土政府は、沖縄に対する領土主権を主張しながら、これを行はなかつたのである。これが、前述の安里委員長の問題提起であり、ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第三の矛盾がある。

本土復帰前の国政参加

本土政府は、沖縄の本土復帰前の昭和45年、沖縄から衆参両院議員を選出させ国政に参加させた。将来の本土復帰の準備として沖縄の民意を本土政府の国政に反映させることにあつた。しかし、これは確かに政治的には意義のあることかも知れないが、果たして主権論からして、どのやうに評価されるのであらうか。

国民主権主義からすれば、沖縄県民は、琉球政府の主権者であり、かつ、本土政府の国政参加が認められたことにより本土政府の主権者としての地位も与へられたことになる。つまり、二重国籍であり、在外外国人に参政権を付与したことになる。しかし、そのやうな手続は一切なされてゐないし、国民主権主義からすれば、このやうなことを断じて許してはならないはずである。ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第四の矛盾がある。

沖縄返還協定

昭和46年6月17日、日米間で「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(沖縄返還協定)が調印され、昭和47年5月15日、本土への復帰、沖縄県の復活が実現する。

これは、昭和28年12月24日の「奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」、昭和43年4月5日の「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)」と同様に、最終講和条約第3条に基づく米国の施政権などすべての権利及び利益を日本国のために放棄するといふ内容において共通するものである。

ともあれ、この沖縄返還協定は、前述したとほり、日米間の条約であつて、日琉間の条約ではない。主権論の立場からすると、沖縄は本土に復帰してゐないことになる。そもそも、「本土復帰」なる用語自体がおかしい。帝國憲法下の沖縄県と琉球政府下の沖縄とは、主権者が異なる。前者は、天皇であり、後者は、琉球人民であるとするはずである。

それでは、いつ、主権者の変更がなされたのか。

昭和27年4月21日米国民政府布告第13号により琉球政府設立が布告された同月29日に「革命」があつたとするのか(以下「昭和27年革命説」と仮称)。または、初の公選による琉球政府主席が選出された昭和43年11月11日に「革命」が起こつたとするのか(以下「昭和43年革命説」と仮称)。あるいは、日米間で沖縄返還協定が調印された昭和46年6月17日に琉球政府は独立し、本土復帰が実現した昭和47年5月15日に琉球政府は消滅(滅亡)したとして、昭和46年6月17日の主権者は琉球政府の琉球人民、昭和47年5月15日の主権者は本土政府の日本国民へと二段階の「革命」が起こつたとするのか(以下「二段階革命説」と仮称)。

これは、占領憲法の効力論争における「沖縄版」である。

また、沖縄返還協定では、沖縄県下の米軍基地が存続することとなつたが、昭和27年革命説や昭和43年革命説であれば、沖縄返還協定時には沖縄人民が主権者であり、存続の決定主体は琉球政府といふことになり、本土政府ではない。二段階革命説においても、遅くとも本土復帰時には琉球政府は独立してゐたのであるから、本土政府に対して、米軍基地提供者としての地位の承継をする合意とその履行が必要となるが、そのやうな事実はない。これらは、国民主権主義からでは全く説明がつかない。

ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第五の矛盾がある。

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