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トップページ > 自立再生論02目次 > H29.05.15 第七十五回 武士道と騎士道

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第七十五回 武士道と騎士道

うちととの もののふのみち へだてるは いはひまつりの こころなりけり
(内と外の武士道(騎士道)隔てるは祭祀の心なりけり)

武士は、中世の封建社会において、宗家のあるじを頂点とした家族共同体の成員として生まれた武装者(武人)のことであり、これを「もののふ」と言ふのは、その起源を物部氏とするためである。

そして、武士と同様に、西欧の中世・封建社会で生まれた騎士といふのも、西欧の中世において騎馬で戦ふ者の名誉的な称号であり、かつ、その階級であつて、その起源は、古代ギリシア・ローマ、そしてケルト文化にまで遡る。

騎士の場合は騎馬に限定され、武士の場合は、騎馬に限定されないのは、武装集団の戦闘方法の相違に基づくもので、我が国では、遊牧騎馬民族や少数精鋭の重装騎兵による戦闘方法がなかつたことに由来するのであらう。


ここでは、武士道と騎士道との一般的な行動規範の比較を行ふのではなく、これまで歴史家が行つてこなかつた視点、すなはち、祭祀と宗教との観点から考察してみたい。


我が国と西欧に共通して生まれた武装者(武人)である武士と騎士に共通するのは、中世の封建制社会といふ土壌であつて、そこから、その精神的徳目の総体である武士道と騎士道が生まれてきた。


武士道の観念は、物部氏に由来するもので、その意味は極めて多岐に亘るものであつて、そのことは、騎士道についても同様である。騎士道は、ゲルマン系文化の従士制度からの影響を受けてをり、儀礼的な部分では、ローマ(ラテン)文化的であつたり、ケルト文化的でもある。


そして、騎士道は、中世においては、北ゲルマン人の戦ふ武人の精神とキリスト教の精神とが結びつき、キリスト教的な観念に基づく忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕などの徳目が求められた。そして、武士道も、これらの徳目と共通するものがあるが、決定的に異なるのは、キリスト教的な観念がなく、「祭祀」的なものなのである。


武士は主人に対して起請により擬制血縁として主従を結ぶのに対して、騎士の誓ひは主人との業務提携契約によるものである。帰依するのはあくまでもキリスト教である。騎士道は、身分の高い者は身分の低い者や貧しい者を保護すべしとする封建社会で生まれた義務であるノーブレス・オブリージ(nobless oblige)と同質であり、キリスト教道徳である。


そのため、騎士道では、キリスト教の教へと主人の命令とが相反するときは、前者に従ふことが優先されるが、武士道は、主人の命令に従つて忠義を貫くか、これに背いて不忠を犯すかである。騎士道は、どちらを選んでも正義であるとの理屈がつくが、武士道はそれを許さない。武士道の場合、不忠を選する場合に、自己の名誉を保つためには諫死がある。


また、武士道は、敵に降伏することを潔くとせず自決することを許すが、騎士道は、敵に降伏する代はりに自決することは許されず、降伏しないのであれば死ぬまで抗戦することを選ぶ。キリスト教は、自殺を禁じてゐるからである。武士道における自決や自害は、一族の生命の再生手段であり、ここに祭祀の影響がある。


このやうな考察してくると、武士道と騎士道の局部的な比較からでも浮かび上がるやうに、祭祀と宗教、この二つの相違と相克が、世界のすべての現象を解く鍵になることに気付くのである。


つまり、祭祀と宗教との比較から、人類史を考察すると、たとへば、人的に分類すれば、祭祀で規律された「祭祀の民」(a)、宗教で規律された「宗教の民」(b)、そして、祭祀と宗教とが混在してゐる「混在の民」(c)に分類される。


さらに、社会規範形態で分類すれば、祭祀が社会規範となつてゐる①祭祀社会、祭祀とともに多神教道徳が社会規範となつてゐる②祭祀多神教(総神教)社会、祭祀から離れて多神教道徳が社会規範となつてゐる③非祭祀多神教(総神教)社会、祭祀から離れて一神教道徳が社会規範となつてゐる④非祭祀一神教社会、そして、祭祀を否定し一神教道徳が社会規範となつてゐる⑤反祭祀一神教社会の5つに分類される。


具体的に言へば、祭祀の民(a)は、シュメール人、インディオ人、タスマニア人、縄文人、弥生人、琉球人、アイヌ人などである。ケルト人もバスク人も古代ゲルマン人も、キリスト教に征服されるまでは祭祀の民(a)であつた。  初めから宗教の民(b)であつた民族は認識されてゐないので、原始ではすべて祭祀の民(a)であつたが、世界的な傾向として、外来宗教の伝来によつて、「宗教の民」(b)か、「混在の民」(c)へと変化したのである。


騎士道の発祥と考へられる北ゲルマン人の戦ふ武人の精神の根底には、明らかに祭祀があつた。ゲルマン人は、自己の家系図を何よりも重んじる。これは、祭祀の民であつたことの片鱗なのである。

これに対し、ギリシア人やローマ人は家系を重んじるといふ発想がそもそも存在しないのである。これは、祭祀の民でなくなつた姿と見ることができる。


武士には家紋があり騎士には紋章があるが、これは家(一族)の同一性と世襲を示すものであり、その背景には祭祀がある。騎士の紋章は、古代ギリシアや古代ローマを起源とするが、これはギリシアやローマの古代人が、当初は祭祀の民であつたことを意味する。


従つて、西欧では、カエサルのガリア遠征まではケルト人(ガリア人)の社会であつたため、①祭祀社会であつたが、ローマによるガリア征服後は、ローマ人社会の②祭祀多神教(総神教)社会、または、③非祭祀多神教(総神教)社会となり、さらには、キリスト教伝来によつて、④非祭祀一神教社会となつた後に、イスラム教との争奪戦を繰り返したが、イスラム教もまた一神教であることから、大きな非祭祀、反祭祀への変化には影響はなく、その後のプロテスタントの普及発達によつて、⑤反祭祀一神教社会へと確定的に変化した。

つまり、西欧では、①→②→③→④→⑤と変遷したのである。


我が国でも、初めは①祭祀社会であつたが、仏教伝来によつて祭祀の中核を担つた物部氏の滅亡により②祭祀多神教(総神教)社会になつたが、現在でも、その状況が維持されてゐる。浄土真宗のやうな、⑤反祭祀一神教社会を目指す宗教もあるが、未だに③非祭祀多神教(総神教)社会へと移行してはゐない。

つまり、我が国では、①→②の変遷であり、今後において①→②→③に変遷しうる可能性があるといふことである。


このやうに考察すれば、我が国は、未だに祭祀の民(a)によつて①祭祀社会に復元しうる可能性を秘めた世界唯一の国家なのであり、その誇りと自覚を持つべきなのである。


南出喜久治(平成29年5月15日記す)


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