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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九十三回 憲法体制と安保体制

たたかひを ゆるしあたはぬ いくさびと やたのからすも かかしとまがふ
(戦争を許し能はぬ軍人(交戦権なき自衛隊)八咫の烏も案山子と紛ふ)

政府は、巡航ミサイル防衛として、通称・陸上イージス(イージス・アショア、陸上配備型ミサイルシステム)を配備する予定であるが、実際のところ巡航ミサイル防衛としては、おそらくこれは実戦には役に立たない。


そして、この陸上イージス配備と対になるものとして、三沢基地に巡航ミサイルをステルス戦闘機F35Aに搭載することになり、同時に海自のヘリコプター搭載型の護衛艦に短距離で離陸できるF35B戦闘機を配備すれば、護衛艦を空母化することになつて、その射程範囲は当然に北朝鮮まで及ぶことになる。


これは、専守防衛の限界点を超えて憲法違反であると野党が批判するものの、政府は専守防衛を超えるものではなく憲法の範囲内であると言ひ訳をしてゐる。


いづれにしても、我が国は、アメリカの阿漕な兵器商売の鴨になつてゐるだけである。


この論争の共通項となつてゐるのは専守防衛といふ概念である。

しかし、そもそも、専守防衛とは何か。

これは、一般には、先制攻撃を行わはず、侵攻してきた敵に対して自国の領域内において軍事力により撃退するといふこととされてゐる。


しかし、専守防衛は一言で言へば、「本土決戦」のことである。

先制攻撃をするか否かではなく、戦闘行為の領域を国内に限定することであり、沖縄戦以上の悲惨な結果を全国土で繰り返すことになる。日本の国土が火の海となり、国民の生命、財産などの全てが巻き添へになり壊滅的な戦禍を被ることが必至となる方法である。


これが防衛論として罷り通ること自体に戦慄を覚えるものであり、こんな恐ろしいことを国是であると平気で唱える政治家らは国賊以外の何者でもない。


占領憲法では交戦権(rights of belligerency)を認めてゐない。この交戦権は、マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)に初めて登場した政治用語であつたが、これがそのまま占領憲法に記載されたことから(ただし、複数形のrightsが単数形のrightとなつたが)、これを法律用語として解釈せざるを得なくなつた。


マッカーサーが用ゐたrights of belligerencyといふ言葉は、単純に「戦ふ権利」のことであり、これが認められないといふのは、つまり「戦つてはならない」といふのであるから、ここから自衛権がないことは自明のことになる。マッカーサーもまた、日本には自衛権が認められないと言つてゐた。


これは、ポツダム宣言における、我が軍の無条件降伏を意味するものであり、それが占領憲法第9条第2項後段(国の交戦権は、これを認めない)となつた。そして、同じくポツダム宣言にあつた武装解除条項は、同項前段(陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない)となつたのである。


軍事占領下の非独立時代に、我が国が軍隊を持つこと占領統治の妨げになるし、GHQが占領してゐるのであるから、自衛権があるはずがないのである。


そして、この占領憲法が正当であることを国民に洗脳させるためにGHQと傀儡政府が総力を挙げて行つた憲法普及会による大洗脳運動の一環として、全国2000万世帯全部に配付した昭和22年5月3日の『新しい憲法 明るい生活』には、次のやうに書かれてゐた。


「私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となつて平和を守ることを世界に向かつて約束したのである。」


つまり、はだか身では「国家」は守れないが、無抵抗で征服されることによつて「平和」は守れるとしたのである。「世界に向かつて約束した」といふのは、これは憲法ではなく、講和条約であることも暗に認めてゐたのである。


また、文部省の著作にかかる昭和22年8月2日発行の社会教科書『あたらしい憲法のはなし』(六 戦争の放棄)には、こんなことが書かれてゐた。


”「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『放棄』とは、『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。」”


いまでは、反日左翼ですら、ここまで本心では言はないことを政府が平気で叫んでゐたのである。このやうに、非武装、無抵抗、他国による征服容認を国民に強いたのが占領憲法第9条の趣旨であり、自衛権自体を放棄したのであるから、専守防衛などといふのは到底認められない寝言の類ひなのである。


ところが、朝鮮戦争を契機として、占領憲法の明文改憲をせずして再軍備を始め、安保体制により米軍基地の提供を押し進めつつ、以後は段階的に解釈改憲を繰り返し、現在では世界有数の軍備を持つに至つた。つまり、占領憲法には、憲法としての実効性も規範性もないことを反面的にこれまで証明してきたのである。


そもそも、自衛権は、国際法上の概念であり、日本国憲法上の概念ではない。佐藤栄作内閣がベトナム戦争への参加を拒絶するための便法として、個別的自衛権と集団的自衛権とを区別して、集団的自衛権の行使は違憲であるとするロジックを政治的に編み出した。そして、このことはこれまでの内閣法制局によつて受け継がれてきたが、さらに、限定的な集団的自衛権を容認するまでに至つた。


しかし、交戦権(right of belligerency)とは、自衛戦争の権利を含むものであるから、自衛権が仮に認められたとしても、どう足掻いても自衛戦争はできないのである。


この憲法体制と安保体制の相剋は、我が国の宿痾である。形式的な法律学の知識では国内法体系の憲法と国際法体系との条約とは法体系が違ふので矛盾しないはずである。しかし、双方が条約の性質であるから政治学的には矛盾衝突することになる。これが現在の政治情況であり、憲法の上位に日米地位協定があるといふのが法社会学的な現実なのである。


我が国には、個別的自衛権は認められるが集団的自衛権は認められないとする似非立憲主義者は、このことを知りながら知らない振りをする。しかし、占領憲法では個別的自衛権すら認められないのに、日米安保によつて集団的自衛権は認められることになつたといふのが正確な法的分析なのである。


日米安保は、日本防衛のためだけのものではない。アメリカの世界戦略のための米軍基地提供条約であつて、日米同盟といふやうな対等の代物ではない。

常設的軍事基地の提供は、まさに集団的自衛権の行使である。アメリカが行ふ一切の軍事行動に盲従的に基地提供し続けるといふ日米共同軍事行動なのである。


在日米軍基地は、日本列島全域において84か所ある。自衛隊基地と共用しうるものとしては、さらに50か所もある。そして、最も重要な基地は横田である。ここには米軍司令部があり、次に横須賀には米海軍司令部がある。そして、戦闘行為が開始される場合に、最も必要な米軍の燃料貯蔵等の施設、すなはち、ロジスティツクス(兵站)の基地は、米国本土に最大のものがあるが、二番目に大きい基地は横浜に、三番目の基地は佐世保にある。沖縄にはそのような重要な基地はない。


米軍の組織は、「二極構造」となつてゐる。つまり、米国本土と日本とがともに司令部の機能を持つてをり、司令部が2つあることによつて世界全域を支配してゐる。その他の国にある米軍基地は、いわば「支店」であつて「本店」ではない。もし、米国の敵国が米軍を壊滅させやうとするのであれば、先端基地の沖縄もさることながら、軍司令部のある横田、海軍司令部のある横須賀、そして、兵站基地である横浜と佐世保を攻撃目標とすることになる。


我が国には、これらに加へて米軍の重要施設がある。在日米軍がマイクロ波を使用したミサイル防衛用早期警戒レーダー「Xバンドレーダー TPY-2」を配備した通信所であり、京都府丹後市にある経ヶ岬通信所と青森県つがる市にある車力通信所の2か所である。この両眼を潰されれば、米軍は身動きがとれない。


韓国に配備したサードも同じものであるが、日本に設置した2箇所で韓半島の全域を把握できる。韓国に配備したのは中共を射程範囲とするものである。


我が国の歴代政府は、「自衛隊は軍隊と名付けられてゐないので軍隊ではない」といふ恐るべき詭弁で「自衛隊は軍隊ではない」とした。

これは、北朝鮮の貧民が富裕な北朝鮮人民解放軍の家から生活必需品を盗み出す行為を「生活調整活動」といふ言葉に置き換へたので窃盗ではないとする論法と同じである。別の言葉で置き換へれば、何でも合法になるといふ詭弁である。


軍隊とは、その名称の如何を問はず、人的組織と物的装備を備へてゐて近代戦争を遂行する能力があるものを言ふのであるから、たとへ専守防衛の目的に限定されてゐるとしても、自衛隊は軍隊であるとすべきことになるが、政権与党と野党とのこれまでの馴れ合ひにより、野党もそこまで踏み込まない。


国際的には、自衛隊は、Self-Defense Forcesであり、占領憲法第9条第2項前段の land, sea, and air forces, as well as other war potential(陸海空軍その他の戦力)でも「Forces」は不保持なので、Forcesである自衛隊は違憲の存在であることを世界に向かつて自白してゐることになる。


ちなみに、占領期で用ゐられた我が国の公用語は、マッカーサー指令によつて、英文と定められてゐたので、占領憲法の原文は邦文ではなく、「THE CONSTITUTION OF JAPAN」であり、邦文の「日本国憲法」と題する占領憲法は、その訳文にすぎない。それゆゑ、邦文の訳文解釈に疑義があるときは原文の解釈に従ふことになるのである。


現在、占領憲法第9条の第1項と第2項をそのままにして、第3項として自衛隊条項を加へるといふ安倍案は、英文にすれば、Forcesを禁じる第2項とForcesを認める第3項とが矛盾併存することになつて、法文の破壊を来すことになる。世界中の笑ひ種になつて、我が国は国際的な信用を失ひ、外交官は、他国の政府に説明する際に難儀し頭を抱へることになるであらう。


ともあれ、政府はこれまで自衛隊の能力を無視して、目的(専守防衛)を隠れ蓑にして合憲であるとしてきた。自衛隊は、本土決戦(専守防衛)の目的に限定されてゐるから、たとへ積極的な攻撃能力があつても軍隊ではないと強弁してきた。そして、この詭弁をこれまで野党も馴れ合ひで認めてきた。


ところが、現在、野党が、巡航ミサイルの問題を契機として、自衛隊に敵基地攻撃能力があることを重視して、目的(専守防衛)を逸脱するといふ批判をするやうになつたことは注視すべきである。


目的と能力。自衛隊がForcesであるか否かを決定するのは、このいづれを以て判断するかであるが、目的説では、目的を逸脱しないための担保がないので、能力説によつて判断せざるを得ない。政軍関係を能力説によつて検討することにり初めて軍事研究は国際水準に近づくことになるのである。


そして、このことを契機として、防衛とは何か、占領憲法体制と安保体制の相剋をどのやうにして乗り越えることができるのかといふ本質的な議論が国民全体でなされなければならない。さうすれば、その地平のかなたに真正護憲論こそが、現在の自衛隊の合憲性と専守防衛に拘束されることのない正規の軍隊であることを論証できる唯一の理論であるとの結論が見えてくるのである。


南出喜久治(平成30年2月15日記す)


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